3.先行した三艘の廻船
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話は遡る。――先日のことである。
福徳丸は無事積み荷をおろし、あとは大坂へ帰るだけとなった。
江戸で日和見、風待ちしているあいだ、城下町屈指の大きな旅籠でのんびりしていたときだった。
宿には、同業者の一行が何組も泊まっていたのだ。
これから江戸を発ち、紀州串本をめざす生活物資を満載した三百石積み(45t)の廻船の組と、はるばる尾道へ行く千石積み(150t)の御城米船および、その類船の二組である。類船でも五百石積み(75t)はあった。
積み荷をおろし、ひと安心の福徳丸とはちがい、これからひと仕事をはじめる者たちである。
千石積みの廻船は、福山藩からの依頼で、米二千六百俵を運ぶ便であるという。
幕府直々に任務を受けているらしく、それだけに、やくざ者は含まれておらず、出自のしっかりした水主をそろえていた。千石積みの船の水主だけで二〇人と、大所帯であった。
危険と隣り合わせの稼業だけに、海に生きる男たちは、船に乗れば職務に忠実で、他の船乗りには負けてたまるかといった気風がある。
とはいえ陸ですごす分には、同業者として仲間意識があった。
酒を飲み交わし、お互いの故郷の話題に花を咲かせ、あけっぴろげに猥談を飛ばしては、おおいに盛りあがった。
それで一同は初対面なのに、すぐ打ち解けた。
いざ翌日、晴れになった。
順風の時刻を待ちかねて、三組の船はいっせいに湊を発ったのだった。
昨日まで荒天が続き、海を行き来する船影はまばらだったのに、天気になったとたん、他の廻船もいっせいに動き出したので、沖はにぎやかになった。
彦兵衛の福徳丸は急ぎの旅ではなかったので、串本行きと尾道行きの船に先をゆずった。
彼らは最大積載量を超過するほどの積み荷のせいで、速度は出まい。いずれ追い抜いてしまうだろう。せっかちになることもあるまい、と彦兵衛は言い訳した。
そしてこの船頭ときたら、江戸に着いてから遊女の店に入り浸っており、あともう一日だけ遊ばせてくれと懇願するのである。
ついには、若い水主たちを置き去りにし、半纏の裾をひるがえらせながら吉原の町に消えてしまったのだ。
弥助たち五人は、呆れるしかなかった……。
ふたたび福徳丸に乗り、ようやく湊を出たのは、それから一昼夜後であった。
先行した三組の船は、順調に船旅を続けていることだろう。
どこかの海上で、ふたたび彼らを追い越してしまうかもしれない。
あるいは風待ちした湊で、また盃を交わすのも悪くあるまいと思いながら、福徳丸は江戸を出帆したのである。
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カモメは白い頭を上下させ、つぶらな眼で弥助を見、しきりに喉を鳴らす。
手首にとまったカモメと弥助は、ひとしきり独自の呟きでやりとりしていた。
それは鳥なりの言葉だった。
常人には理解しえない言語が弥助の耳に入り、人語として変換される。
ほんの戯言でカモメを相手にしていた弥助だったが、しだいに耳を疑うようになった。
カモメがしゃべった内容は驚くべきものだった。
彼にこう告げたのだ――。
『行きはよいよい、帰りはこわい』と、しとやかな女の声で言った。『浦の人々はいつになく飢え、食うものに困っています。私の夫や、仲間たちまで捕らえられ、どれほど失ったことでしょうか。あなたたちも用心されよ。とくに、東三河の岬に近づけば、人智を越えた力が働くやもしれません』
じっさい弥助は、あううと声を絞り出しただけだったが、カモメの顔めがけ、思考を飛ばしていた。
――『人智を越えた力とは、どういう意味ですか?』
『私は警告します。浦の人たちはこの船を、転ばせるつもりです――』
――『転ばせる?』
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福徳丸が、伊豆下田を横切ってから直後のことだった――。
東三河の岬にある、貧しい漁村では俄かに風の変化が見られた。
東南の方角から、生温い風が吹くように気づいたのは、元漁師である片目の古老だった。若いころ疱瘡にかかり、その後遺症で片方を失明したのだ。
掘っ立て小屋じみた民家のなかに、やたらとフナムシが入るようになった。どうせすき間だらけである。古老は薪で叩き潰した。
しかもこの海の掃除屋は、夜になると群れをなして土間から床座にあがり込み、隙あらば寝ている人間の肌をも咬みつくから始末が悪い。あまりの飢餓のため、これを食べる村人さえいた。
フナムシの異常行動に胸騒ぎを憶えた片目の古老は、七ツ(午後4時)をすぎたころ、村長の家を訪ねた。
石置屋根の上で、四羽のカモメが羽を休めている。
子どもたちが石をぶつけて捕らえようとしたが、あえなく逃げられた。
古老が垂れ筵をめくり、家に入った。
土間の水甕に入った水を柄杓ですくい、喉を潤すと、よく通る声であいさつした。
村長は床座の奥で横になっていた。
高齢にくわえ、日ごと中風が重くなっているのだ。それに先日、裏山の社に参った際、弁財天の像がしゃべり、姿を消してしまったことに腰を抜かしたせいもあった。
「どうした、甚八」
頭だけ浮かせた村長が、かすれた声で言った。
すでに妻には先立たれ、身のまわりの世話は、近所の女たちが交替でやってくれていた。
「やたらとフナムシが入り込んでくるだろ。イナサが来る前触れだ」と、片目の古老が言った。漁師の経験からくる確信があり、報告しに来たのだった。草鞋履きした足の甲にも虫が這ってきたので、しゃがんで叩き潰した。「じきに時化るぞ」
「そうか。ならば、仕掛けねばなるまい」
「ただちに、主だった者を集めるべきだ」
「いや……。あいにくわしは動けん。わしにかわり、みなの衆に知らせい。甚八、よろしく頼む――」
甚八は言伝をしかと頭に刻むと、村長の家をあとにした。
外では村人数人が白浜で佇み、左の太平洋の方角を眺めている。
毒々しい色の夕焼けのなか、はるか沖合を、大きさの異なる廻船が通過しているのだ。
この海域は船乗りにとって無数の岩礁と、海の下に眠る凶暴な暗礁が広がっているせいで難所として知られていた。廻船は桑名か伊勢への輸送でもないかぎり、こちらへ入ってくることはない。
まさにあの船のどれかが、この漁村に立ち寄ってくれたらいいのに……と、貧しい人々は指をくわえて見守るしか術はない。
「転べ……。転べよぉ!」
「こっちに来て、覆ろ!」
「こ、ろ、べ!」
「デン、ゴロ、リン!」
土気色した肌の村人が、口々に呪いの言葉を吐いた。
船は素知らぬ顔で通りすぎていった。
風が出はじめていたことに、人々は気づきもしなかった。
四半刻(30分)後、甚八は網舟が並ぶ浜に、村人八人を集め、こう伝えた。
「みなの者、よく聞けい。これより村長に代わり、命じる」
すきっ腹を抱えた大人たちが、真剣な面持ちでうなずいた。
「今夜から、松明を持って、ここ、前ノ浜に出るのだ。戌の刻(午後7時~午後9時)から寅の刻(午前3時~午前5時)にかけて、交替で火をかざせ。イナサは二日続く。二晩にかけて浜を練り歩くべし」
腕組みした甚八が錆のある声で言うと、村人は口々に、
「ついに、イナサが寄るのか」
「イナサが来ちゃえば、魚が獲れんくなっちゃうけど……」
「浜歩きは毎年やっとるが、必ずしも引っかかるとは限らぬ」
「やらんよりはやった方がいいさ。そう信じるべきよ」
「腹が減って力も入らんが、これもお船さまに寄ってもらうため……」
と、こぼした。
この片目の古老は、漁村のためを思えばこそ厳しくなった。
「わかったら、行ってみなの者に伝えよ! そして家族で分担を決めい。遅番の者は早々寝て、当番に備えろ!」