2.福徳丸の帰り道
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筵帆は風をはらみ、この三百石(45t)積み廻船は積み荷もほぼ空になったことだし、快調な船足で沿岸を進んでいた。
江戸に運搬した品は多岐にわたった――割れやすい瀬戸物や塗り物を筆頭に、しょうゆ、油、紙、ロウソク、日傘、木綿、タバコ、鰹節や干魚、昆布類などである。
大坂を出て、江戸へ生活物資を輸送する船旅は、ほぼ一カ月を要した。
帆船は荒天では航行を控えるし、追い風があってこそ出船できる。日が悪ければ各湊で日和見、風待ちしなければならず、船は走りっぱなしということではなかったのだ。のんびりとした旅だった。
その中型廻船・福徳丸の帰り道のことである。
水主(船員)の一人である弥助は、満ち足りた心境だった。
一昨年まで、陸での貧しい暮らしを送っていたのが瞼に浮かぶ。偶然、船頭である彦兵衛に見込まれ、船乗りになって早一年。十八歳になったばかりだった。
生まれつき口の利けない唖者ではあったが、まめまめしく働くのを気に入ってもらい、ここまで育ててくれたのだ。
危険がつきものの仕事柄、高い賃金を支払ってもらえるのが嬉しい。おかげで、薩摩国(現在の鹿児島)の離島に残してきた、病気がちな母親を楽させることができた。
弥助は、口が利けぬ不自由さがあるだけではなく、他の船乗りとは一風変わっていた。
まず、そのいで立ちである。
船乗りは夏場など、ふんどし一丁で、肌を露出させた恰好が多いなか、逆に長袖の刺子着をつけ、顔や首にも布を巻いて眼だけを露出させた姿だった。ほぼ肌はさらしていない。菅笠をいつもかぶるという、徹底ぶりである。
眼を惹くのがその髪の色であった。
皮膚はおろか、眉毛や髪の毛が雪のように白く、眼の色も灰色だったのだ。
生まれた直後、町医者は両親に言ったものだ。――この手の色の抜けた生物は、他にも自然では、鹿やタヌキ、猪でも稀に見られ、猟師たちは神の使いとして殺傷するのを禁じているという。それと同じ原理で誕生したのだろう。
大坂で多くの患者を診てきたその町医者は、ある程度知識があった。
――いわく、大抵このような人間は視力障害を持ち、出血が止まりにくい、肺病にかかりやすいなどの症状があると。
弥助の場合、血が止りにくいということはなかったにせよ、たしかに幼いころから身体が弱く、視力は常人より劣った。今でこそ筋骨たくましい青年に育ったが。
ましてや成人をすぎると皮膚の病気にかかる恐れがあるらしく、日差しを浴びると、すぐ肌が赤くなった。
それゆえに肌をさらさないよう気を配っていたのだ。
水主にとって視力の悪さは致命的であるように見えた。船頭の押しもあり、同じ水主仲間の定吉らとは性格はまるで正反対ながら、あうんの呼吸で仕事がこなせた。身ぶり手ぶりで意思の疎通をはかれたので、足を引っ張るような要素は見当たらない。
だからこそ、今の位置に立っていられるわけである。
この福徳丸には弥助の他に、五人の船乗りが乗っていた。
弥助を水主へと育てた船の最高責任者である船頭兼舵取の彦兵衛をはじめ、水主の巳之吉、益次郎の双子の兄弟。同じく水主の定吉、炊事、雑用を担当する炊の菊之丞である。
彦兵衛は経験豊かな三十八歳で、陸で暮らすよりも海上にいた時間の方が長いほど、海のことなら知り尽くしていた。
若いころ疱瘡(天然痘)にかかり、どうにか命を取り留めたすえ、面長の顔に醜いあばたの痕を残し、よく日焼けしていた。船乗りたちの面倒見もよく、絶対的な信頼を得ていた。
そのかたわら、とんでもない女好きで知られていた。
行く湊の先々で複数の遊女に入れあげたせいで、嫁に逃げられたのに懲りずにいた。遊女の前には、それこそ男根も乾く暇すらないほどだらしないのだ。
巳之吉と益次郎の双子は二十歳で、弥助同様口が利けないのかと思われるほど無口で、むっつりした若者だった。
二人とも坊主頭で赤銅色に日焼けし、いつも仏頂面だったが、与えられた仕事はそつなくこなした。出身地や趣味すら他人に教えない秘密主義だった。
定吉は弥助よりも五つ年上で、海の男らしい荒々しい気質で操船技術に長けた。いつもきれいに月代を剃り、髷も凛々しい。
彦兵衛も一目を置くほどの船乗りで、遠出の船旅の仕事があれば、必ずといっていいほどお供させた。
弥助の眼が悪い分、それを補うかのように夜目も利き、船では背丈は小柄ながら威勢のよい声をあげて働いた。もっともひとたび陸にあがれば、酒と博打に目がなかったが……。
菊之丞は臆病な性格の十六歳。優男の顔つきで、身体つきも海の男らしくなかった。内股で歩くので、定吉によく嘲笑を浴びせられた。
過去に大坂の堺で二年ばかり料理人としての経験を積んだが、下働きのあまりの厳しさに穴を割って逃げた。結局、食うのに困り、廻船業界に飛び込んだらしい。
そんなわけで福徳丸には、この六人が乗り込んでいた。
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船体構造は安土桃山時代から出回っている弁才船という木造帆船である。
この型は、もっぱら沿岸航路をたどる地乗りするのが好ましい。
航行距離を短くする沖乗りもできたが、万が一嵐に遭い、沖合に出すぎてしまえば、流れの速い黒潮につかまり、さらに遠くへ運ばれ、取り返しのつかない恐れがある。危険を冒さず、基本的に陸を見ながらの移動だった。
時刻は七ツ(午後4時)、海は穏やかで、絶好の追い風だった。
さすが晩秋である。さっきまでの青空が一気に翳った。あと半刻(1時間)もすれば、陽は右手の陸の山影に沈むだろう。遠州灘を進んでいた。
右側には、太平洋の荒波によって削られた海食崖(波の侵食によってできた切り立った崖)が、ずっと先まで続いている。
定吉は船べりによりかかり、前方に思わぬ暗礁がないか視線を走らせているが、その心配もあるまい。大坂から江戸までの往復の旅は何度も経験しているのだ。彦兵衛に次いでの古参だった。
定吉は見るからに退屈そうにしていた。船旅が順調すぎるのも考えものである。
巳之吉と益次郎は飽きもせず、青黒い海面をにらんでいる。
炊の菊之丞は船後部の艫廻に引っ込み、夕飯の準備にかかりっきりになっているようだ。食欲をそそる味噌汁の匂いが漂ってきていた。
彦兵衛は屋倉にこもり、陸揚げした品物の売上について、そろばんを弾いている最中だろう。
幸い、彦兵衛は船に遊女を乗せないだけの良識はあった。
昔から船乗りの言い伝えで、女を乗せると時化に遭うとされているのだ。どんな船にも収められているご神体、船霊さまが嫉妬して海を荒れさせるのだという。
左側の船べりで、弥助は手をさしのべた。
一羽のカモメが舞い降り、その手首にとまった。
奇異なことに、カモメは人を恐れることなく羽を休め、弥助の顔を見る。
慣れた様子で、懐から出した炒った豆を与えてみる。
カモメは嘴で豆をくわえ、飲み込んだ。
よほど嬉しいのか、羽をばたつかせる。
挙句に菅笠の縁を噛んで、さらに餌をねだるところが小憎らしい。
弥助は、布ごしに口をパクパクさせ、おかしな言葉で鳥に話しかけた。
カモメは首を傾げたり、つぶらな眼で瞬きしたりして、喉からコロコロと鳴き声を出すではないか。
その光景はまさに、人間と鳥が会話しているかのようだ。
しばらくその様子を見ていた定吉は、
「相変わらず、おめえは変わった男だ」定吉は冷やかすように言った。「鳥と話するのが得意な奴なんざ、なかなかお目にかかれやしねえ。弥助、船乗り引退したら、見世物小屋で芸をすりゃいい。立派に銭が取れるぜ」
「あうう……」
弥助はうなずいてみせた。
冗談で応酬してもよかったが、すぐに笑みが凍り付いた。
カモメは喉を鳴らして、なにやら不可解なことをしゃべりかけてくるのだ。