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14.あてどもない帰り道

◆◆◆◆◆


 時刻は四ツ(午前10時)になり、すっかり太陽は昇っていた。

 岩礁地帯および前ノ浜で、生き残った者は、わずか三〇人足らずにまで減っていた。

 そこかしこで折り重なった遺体は、とむらってやることさえできない。時間が限られているのだ。


 ただでさえ渥美半島と志摩半島の沖合を、無数の廻船が行き来する時間帯である。ちょっと伊良湖水道の方角に眼をやれば、村ぐるみの犯行は露見してしまうだろう。

 とても、四艘の難破船を隠すことはできない。


 一同は前ノ浜に集まり、円になって協議した。

 その間、漁師たちにはありったけの網舟で、座礁した福徳丸を浅瀬の反対側に曳航えいこうさせた。

 潮が満ちてきたのも重なり、三百石積みの船は引っ張られ、ようやく自由の身となった。

 千石積みの廻船から奪った米俵を、今度はその福徳丸に移し替えさせる。

 その他の食料と生活物資を積めるだけ積むよう、村長は男たちに命じた。




「見てのとおりだ。よもや一時いちどきに、四艘ものお船さまが引っかかるとは思わなんだ。それも、幕府の米に手をつけたらお終いだ。後には退けなくなった」と、村長むらおさは言い、眼をしばたたいた。「そこで、わしからの提案だ。これから村を捨て、どこか、新天地をめざして船出する。逃げるしかない」


 烏の襲撃に生き残った人々とはいえ、みんな傷を負っていた。

 それでなくても、今も福徳丸に積み荷を移し替えている漁師たちの酷使は計り知れない。汗みずくで不平も洩らさず働き、働きすぎて半ば死にかけている者も出ている。


 円陣の中心に、縄をかけられた弥助の姿があった。

 弥助はあきらめ、むしろ風呂あがりのようにさっぱりとした顔をしている。

 かぐらをかき、白い髪をそよ風になびかせていた。


 かたわらには手当された彦兵衛も横たわっていた。善七に斬りつけられたものの、幸い傷は浅く、命を取り留めたのだ。不貞腐れたような顔つきを決め込んでいる。


 村人たちが口々に、不満や意見を出し合った。


「せっかく食料が手に入ったんじゃ。米だってあるってのに、村を捨てにゃあならんとは……」


「逃げるったって、いったいどこへさ?」


「徳川から逃げられるもんか。あいつら眼の色変えて、しぶとく追ってくるに決まってら」


「いっそ、御城米はぜんぶ返しゃあいいんじゃねえか? そしたら多少なりとも情けをかけてくれるかも」


「あたいらは盗っ人の烙印をされるんだ。同情なんか、してくれるもんか。おお、恥ずかしい」




 協議はいつまでも終わりが見えず、村長はやきもきしていたときだった。

 人垣の間をかき分けて、子どもが前に進み出た。

 善七の息子、為吉だった。

 ひどく衰弱し、幼い顔に死の兆しがさしていた。

 立っているのもやっとらしく、善七に支えられている。


「村長、沖へ出ていこうや。黒潮に乗るんや」と、為吉は静かに告げた。落ちくぼんだ眼には澄んだ色が浮かんでいる。「なんも怖いこと、あらへん。黒潮の向こうに行けば、もう苦しむこともないんや」


「沖へ行くだって?」村長は、我が耳を疑うかのようにくり返した。「それは危険すぎる。黒潮の流れは速く、それにつかまれば、漂流は避けられぬ。待つのは、死しかない」


「そんなこと、あらへんって」


 為吉は頑なに、沖へ出ようと重ねて言った。

 善七が手のひらをかざした。


「つまり、タメ公はこう言いたいわけです――」と、ゆっくりとした口調でとりなした。さっきの憤怒の表情はどこへやら、もとの温厚なそれに戻っている。「死んだおっ母、お静が帰っていった(、、、、、、)あちらの世界に、みんなして行くべきじゃないかと。常世の国っちゅうのは、死んだ人間の国だそうですが、同時に生きている人間も行き来できる、地続きの世界だと、おれははじめてこの村に流れ着いたとき、お婆から教わりました。だから、行けんことはないと。だろ、銀婆?」


 あぐらをかいた弥助の横顔を、憎々しげににらんでいた銀婆が、はっとして顔をあげた。烏の大群が押し寄せたとき、とっさに洗濯桶をかぶって難を逃れたのだ。


「そうとも。常世の国は、はるか東の彼方にある世界だ。毎日太陽が東からのぼり、西で沈むように、すべての源は東方にある。たしかに、そこに行けば、死んだみんなに会えるさね。けど、遠い。あまりに遠すぎる……」


 村長は絶望的な面持ちでそれを聞いていた。

 村長とて、先ほど烏にやられた傷は疼き、ましてや中風の発作が出はじめ、意識まで朦朧もうろうとしていた。共同体の統率者として責任感が先に立っている一方、早く船出せねばならぬ焦りも重なり、どうにでもなれといった心境にすらなっていた。


 残された時間は少ない。これ以上待っていられない。すでに外部に、村の所業が洩れている恐れもあるのだ。

 そのとき、腰の曲がった古老が耳打ちした。


「船に積み荷を運び終えたと合図があった。水樽みずたるも充分のはずだ。そろそろ出立せねばなるまい。さっさとしないと、沖で廻船の群れとかち合う」


 急かされて、村長は喉の奥からかすれた声を出した。


「為吉、よくぞ言ってくれた。ならば、そうしよう。常世へ出かけるのだ。これは旅立ちではない。今からあちらの(、、、、)世界(、、)へ帰るのだ」




 とすれば、あてどもない帰り道(、、、)だった。 

 しかしながら、その略奪者の帰路も、達成できる見込みは限りなく薄い。

 海上のどこかにあるという常世のは、しょせん観念的な存在にすぎず、地理的に実在するかどうかは曖昧であった。


 たしかにそこへ行けば、愛すべき故人たちと再会を果たせ、飢えも苦しみもなく、健やかな身体と清い心で、半永久的に生きることができると信じられている。

 その実、思いどおりにいかない人生を慰めるための方便にすぎないと、いくら無教養の村人でも感づいていた。


 このまま太平洋の真っ只中へ出れば、離岸流に運ばれ、いずれ時化に揉まれ、海の藻屑もくずと消えるのは必定であった。

 したがって、この帰り道は死出の旅となるだろう。




「お船さまというご利益があった代わりに、弁財天さまを失ったが、こうしてまた新たな七福神――それも生き神さまを遣わされた。わしらはこの弥助という若者を、どころにするしかない。神はわしらになにをしろ、というのか知るよしもないがな」


「生きろっちゅう、ことやねん、どんなに苦しいことがあっても」と、為吉は言った。「希望を捨てたら、あかんってことやないか」


「ならば、そうであって欲しい」


「ほんなら、決まりやね。さっさと出立しようやないか」


 と、善七。

 弥助のかたわらで寝そべっていた彦兵衛が、伏せていた顔をあげた。


「わかってねえな、おまえら。船は誰が操るっていうんだい。どうせおまえらは、ちゃち(、、、)な小舟しか漕いだことがねえんだろ。福徳丸はおれの船だ。おれ以外に舵を触らせねえ」


「さっきの無礼は許してくれ。そうとも。わしらにあの船は扱えぬ」


 村長が頭をさげ、彦兵衛を見た。

 彦兵衛も無言で見返した。


「だったら、おれも常世へとやらに連れていってくれ。向こうへ行けば、お清に会えるかもしれねえしな。ついでに、親父やお袋にもな」


 そうは言ったが、実はこの彦兵衛、今回の吉原でのくるわ遊びの度がすぎていた。

 江戸で陸揚げした品物の売上にまで手をつけ、散財していたのである。それもこれも、お清に入れ込んだのが祟ったのだ。大坂へ帰ったとしても不正が発覚し、船頭を即刻解雇され、奉行所行きになるのを覚悟していたのだ。

 転んでもただでは起きない男であった。江戸からの帰路、逃走経路をどうするか、ひそかに練っていたのである。そして閃いたのだった。


 そんなやりとりをよそに、弥助は岩礁に取り残された三艘の船を見つめていた。

 幾重にも波が押し寄せ、座礁した船の腹にぶつかり、白い波しぶきをあげていた。今なら海も穏やかだった。

 晩秋とはいえ、日差しはきつく、白い素肌を責めた。


 年季奉公に行ったきり、死んだとされる父親に会えるかもしれない。

 どうせ薩摩国の離島に残してきた病弱な母も、そう長くはあるまい。いずれ常世で合流できる。

 ならば帰ろう、常世へ。

 そのためなら、生き神として祀られ、この船出を守護するのも悪くない、と弥助は思った。


◆◆◆◆◆


 このあと、村人二十七人と、米俵一二〇、飲料水、その他の食料、生活雑貨を積んだ福徳丸は出帆しゅっぱんしたのだった。

 伊良湖水道を横切り、一路、太平洋をめざした。


 はるか沖に出るまでに、何艘かの廻船とすれ違ったものの、水主には見えない身なりの村人たちは、前もって甲板下に隠し、事なきを得た。

 ただし、まっすぐ真南の沖に向けて航路をとる船影せんえいは、怪しまれたかもしれない。




 順風を帆に受け、幾日も福徳丸を走らせた。

 長きにわたって飢餓で打ちのめされた村人たちに、異変があらわれはじめた。

 せっかく米をおかゆにして与えても、胃が受け付けないのだ。多くの者は吐き戻し、ろくに空腹も癒せなかった。


 個々の生命力が生死を分けた。日ごとに恢復かいふくする者もいれば、衰弱していき、命を落とす者も出た。

 村長の容態までもが悪化し、弥助と彦兵衛に指図できなくなったとき、彦兵衛は胸中、にんまりした。

 同時に、福徳丸は懸念していた離岸流に引きずられ南へ流されたあと、北西からの風にあおられ、今度こそ念願の東方へと運ばれ出した。


 彦兵衛にはひそかな腹案があった。伊達に荒波を相手にしてきた老獪な船乗りが、やすやすと言いなりになるはずがない。

 このままさらに東に流されれば、良くも悪くも悲願の場所へ行けるにちがいない……と、ほくそ笑んでいた。


 道中、何度か嵐に遭い、波に叩かれ、舵の羽板を壊される憂き目にもさらされた。

 しまいには帆柱まで失い、あわや全員で首をくくるべきではないか、と覚悟したことさえ一度や二度ではない。彦兵衛の思惑もよそに、みすぼらしくなった福徳丸は、濁流の中の笹舟のごとく漂った。

 どれほどのあいだ、船に揺られたことか。

 かれこれ二カ月近く、陸も見ずに東へと進んだ。




 そして伊豆諸島いずしょとうよりもさらに南に位置する、小笠原諸島おがさわらしょとうにまで流れ着いたのだ。そこは文字どおり、最果ての島だった。

 寛永かんえい二〇(1643)年の当時、三〇以上ある島々の名前すらなく、どれもが無人島であった。


 そこは江戸から、はるか二五六里(約1,000km)も離れていた亜熱帯の楽園だった。ここならば幕府の手も届くまい。別の遭難事件をきっかけに、幕府の調査団が上陸するのは、のちの延宝えんぽう三(1675)年のことである。


 はじめ福徳丸は父島ちちじまに漂着し、次いで、さらに十三(約50km)里離れた母島ははじまに上陸。この島を居住地とした。


 そのときに生存していた者は弥助、彦兵衛を含め、わずか十四人であった。村長や銀婆は、しぶとく生をつないだ。為吉も奇蹟的に元気になっていた。

 善七は、涙ながらにこの島を常世の国のつもりで再起を図ると、心に誓うのであった。


 土地を開墾し、新たな集落を築くのは骨が折れた。しかしながら積み荷の米や食料品は残っていたし、飲み水にも困らなかった。母島は、常世の国とは似て非なる楽土ではあったが、少なくとも食べるものに困らないところであった。

 その後、弥助は海鳥たちを使い、魚の湧く場所を教えてもらい、豊漁に導いた。島ではなくてはならない存在となって、いつまでもあがめられたという。





        了




※参考文献・参考サイト


『日本残酷物語1 貧しき人々のむれ』宮本常一他 平凡社ライブラリー

『日本残酷物語2 忘れられた土地』宮本常一他 平凡社ライブラリー

『漂着物事典―海からのメッセージ』石井忠 朝日文庫

『破船』吉村昭 新潮文庫

『朱の丸御用船』吉村昭 文春文庫

『漂流』吉村昭 新潮文庫

『海の文化誌』田村 勇 雄山閣

『海に生きる人びと』宮本常一 河出文庫

『新南島風土紀』新川明 朝日文庫


菱垣廻船と樽廻船

http://museum.starfree.jp/213_bezai/371bezai1.html

『パイパティローマ』 -楽園の島は何処だったのか?

http://www.kt.rim.or.jp/~yami/hateruma/paipateroma.html

        ★★★あとがき★★★


 昭和16(1941)年発行の資料を紹介しよう。『三州奥郡 漁民風俗誌』復刻版。著者は松下石人氏。

 そのまま掲載するのはマズいので、文章を加工して抜粋してみる。




 伊良湖いらこ(やき)


 私の前に、お菓子を盛って出された直径八寸程の平井型の菓子鉢をよく見た。

 藍色と云ひ、描かれた意匠と云ひ、全体の造形と云ひ、古い時代の伊万里焼で、寂びた雅味を持って居るものであった。

 このような古陶器を所蔵して居る旧家とも思えず、わざわざ買ひ求めて蒐集しゅうしゅうする程の風雅な主人とも思へぬので、私は首をひねらずにはいられない。

 平素知り合ひの老主人は、私がこうした古器や昔語りが好きであることを熟知して居たはずである。すぐ、


「これは伊良湖焼です。親父が浜で掘り出したもので、こんなのが十ばかりありましたが、お寺へ上げたり、親戚にやったりして、家に残っているのは五つばかりです」と、説明してれた。


「伊良湖焼? ずばり、難破物ですよね?」


「ですな。伊良湖岬の燈台が建てられ、ラヂオの天気予報を放送するやうになりましてからは、こう云ふ難破物は殆ど出なくなりました(つまり船が安全に航行できるようになった)。ですが元屋敷なぞの、『砂山ボタ』からは、今でも時折、伊良湖焼なぞが発掘されることがあるんです。私が子供の時分なぞには、年に三艘や四艘の難船はあったものです。親父の時代のやうな難船の拾ひ物隠しはほとんどしなくなって居ました。親父がよく話して呉たものです。――難船人だ、難船人だと大騒ぎして庄屋さんの家へ連れて行って、おかゆをやったり、暖めてやれと云って難破船から眼を逸らしている間に、船の荷は、いつの間にかあらかた無くなったと云ひます」


「盗んだとか、抜き取ったと云ひますと人聞きが悪ひですな。ですが、難船なぞの物体は、結局()ままにしとひてもいずれ船が割れて、海底へ沈んで仕舞ふだけですから、陸へ上げられるなら上げて置いた方が良ひでしょう。船員だって、命さえ助かれば、船そのものも積み荷すら構っちゃ居られません。むしろ皆んながそうして陸へ運ぶのを有難ひとは思ったのではないでしょうか。役徳で当り前位に思って居たんだろうと、親父なぞ勝手な理屈をつけて居たものです」


「旧幕時代なぞ、寄り船の拾ひ物が、お役人と黙契が出来て居て、積み荷を取ったと云ひます。船員を救ひ出し、少し元気が出て来ると、庄屋のところへ連れて行って難船の様子や色々の経過の調書を作って、お上へ提出するのです。其のとき、奉行所から出張の下調べをすると云って、出来るだけ時間をかけて調べをする。其の間に村の者達が積み荷を陸へ上げます。陸へ上げると云ふよりか、砂丘ボタへ埋めて隠したのだそうです。そして船は壊して、其の船材で、難船人が暫く処理がつき、方法が立つまでの間の寝起きする小屋を作ってやったんだそうです。それにまた、庄屋が村人に人気のある人だと、出来るだけ上等の船材で小屋掛けをするんですが、人気の悪い庄屋だと、反対に悪い材料しか使わない。上等の材料はいずこかへなくなったものだったそうです。奉行所のお届けも調べもすみ、難船の船員達も全ての処理が終わり、国へ帰へって行くと、此の小屋が全部庄屋の役徳と云ふか、報酬として庄屋のものになることになって居たからだそうです」


砂丘ボタへ埋めた拾ひ物は、奉行所のお役人が帰り、船員も帰へってから掘り出すんですが、何しろ慌てて埋めましたから、なかなか見つからない。お互ひに良い物を、他人の知らない所へ隠して徳をしようと云ふ算段なのです。判りよい目印をつけて憶えて置く暇すらなかったので、どうしても見つけられず、掘り出さずに済んで仕舞ふものも大分あったやうです。ですから村の人の忘れて仕舞った時分、思ひがけない所から掘り出されたりするのです。何でも伊良湖焼と云ふものは本当はないんだが、伊良湖で焼いたと云ふのではなくて、伊万里や唐津の焼物とか、又瀬戸や常滑の焼物で、伊良湖の浜から掘り出されるから、そう云ふのだそうです」


◆◆◆◆◆


 コンセプトというかネタ自体は、【2022年本屋大賞『発掘部門』で「超発掘本!」を受賞】で紹介された、ドキュメンタリー作家・吉村昭氏の『破船』(1980年)に着想を得ている。『破船』の作中でとりあげられる素材を流用させていただいた。


 名著『破船』についてご存知ないのなら、是非とも読むべきだが、Wikipediaを参照されてもよい。思いっきりネタバレを含むあらすじが掲載されている。

 吉村氏の場合、『寄船よりぶね』の到来を待つ側として無辜むこの村人を描いたが、本作は船乗りの視点から描いた。つまり、自身が『寄船』としての被害者の立場。すなわち、逆転の発想で構想を練った。


 はたと思いついたのは、6月半ばのころだった。

 そこから数少ない資料を読み込み、執筆しはじめたのが6月下旬で、正味1カ月で第1稿を完成させた。

 突貫工事は否めず、廻船の構造、部位名称や、船乗りの役割分担の描写にかけて、かなり省力化していることはご了承願いたい。


 本来、大規模な廻船の船頭は、舵を操ったりはしない。専門の梶取かじとりという役割の者がいた。帆柱の重量も知りたかったが、どれだけ調べても判明しなかった。

 YouTubeで『弁才船の花形 菱垣廻船復元の記録』なども閲覧したものの、肝心の舵の扱い方が欠けていた。しかしながらリアリティを追求すれば、話は硬くなる。かなりエンタメ寄りに描いた。


 ちなみに、吉村昭は『破船』を書くにあたり、こんなことを言っている。『破船』の出発点である。これも文章を加工してある。アンカーの部分から。



 >江戸初期の多くの古い記録に、一、二行の気になる記述があって、それを強く意識しはじめたのは、かなり以前のことである。

 暗夜、荒天の海で難儀を強いられる船を、沿岸に住む漁民たちが巧みに磯へ誘って破船させ、積み荷を奪うことがひそかに行われていた、と目にしたのである。


 そのような記述が、主として日本海沿岸の各地に残された記録にしばしば見られ、私はこれを素材に小説を書くことにした。

 それに加え、当時恐れられていた伝染病、疱瘡ほうそう(天然痘)にかかった者たちを船に乗せて、海に流したという記録を結び付けることで、小説のおおよその構想は成った。(略)

 歴史文学の範疇に入るのだろうが、古記録に散見する短い記述によって書きあげた虚構小説である。




 ちなみに、吉村昭のこの『破船』、なんと2020年に、フランス・ベルギー合作でフランス映画として映画化されたらしい。

 日本では東京都荒川区にある吉村昭記念文学館のみで、コソッと上演されたらしく、ミニシアターでさえ公開はされていないようだ。

 興味ある方は、せめて宣伝動画だけでも観てみるといい。なかなかインモラルな香りのする映画に仕上がっている気がする。


 さて、本作を読まれたら、我々日本人の誰もが、いささか眉をひそめる内容ではないか。

 いくら昔のこととはいえ、こんな野蛮で、漁村ぐるみの犯罪が日常茶飯事的に行われてきたのか? 日本史上、歴史の暗部であり、恥にも等しいとおっしゃる人もいるかもしれない。


 むろん、難破船が沿岸部に漂着するたび、こんな犯罪ばかりが行われていたわけでもあるまい。

 参考文献にも紹介している『日本残酷物語1』にも、こうフォローされている。――鹿児島県屋久島も漂着船の多いところであったが、漂着者の面倒をよく見て、郷里へ返す世話までしてやった。

 とりわけこんな印象深い話が残されている。幕末のころ、島の北海岸に一艘の難破船が漂着したことがあった。帆柱は折れ、舵も破損している状態であった。陸から見るかぎり、船には船乗りの姿は見えなかった。


 法螺貝を鳴らし、浜に村人たちを集め、小舟に乗り込み、沖の船まで行ってみた。

 いざ船内を捜してみると、船底に息を殺して身をひそめている生存者の男を発見。

 そして男は言うのである。頼むから命だけは助けてくれと。

 村人たちは、そんなつもりはないと話すと、ようやく安堵し、船底から出てきたのであった。


 生存者に聞いてみると、因幡いなば(鳥取県)の船であるという。船乗りの経験上、今まで遭難した者で、生きて帰った者は一人たりともいなかった。大方は浜に漂着したら最後、沿岸の人間に殺されたものであろうと信じていたのだ。




 2015年12月に公開された映画『海難1890』を観た人もいるのではないか。

 あらすじはこうだ――明治23(1890)年、和歌山県串本町沖で、のちのトルコであるオスマン帝国の親善使節団を乗せた軍艦エルトゥールル号が座礁して大破。


 海に投げ出された乗組員587名は死亡、または行方不明になった。そのうち69名は串本町大島の住民総出で救出した案件である。それ以来、トルコは串本町と姉妹都市提携をし続けている仲である。誇らしい話である。

 機会があったら、この映画も観るべきだ。作中、着物姿の忽那くつな 汐里しおりは可愛くて、そこはかとないエロスを漂わせている。


 一概に、こんな野蛮な瀬取りばかりが行われていたわけではないと、贖罪をこめて強調しておきます^^;

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[良い点] 読み応えのあるお話でした。 なろうの企画モノの長編(2万文字以上)は、お題から外れた作品を書いているのがほとんどで、ずっと失望していたのですが、本作のように「帰り道」の「怖い」話で、ここま…
[良い点] まさかのハッピーエンド風味に驚きました 後書き含め、とても読み応えのある内容でした。 創作過程も垣間見えて、とても実のある読書体験でした。 読ませていただきありがとうございました
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