13.黒い災厄
ピュ――――――――ッ!
頭上で鋭い笛が鳴った。
器用に帆柱をのぼり、先ほどの琵琶を鳴らした謎の女同様、帆の先端で身を隠していた弥助のしわざだった。
いったい、なにごとか?
あの白き髪の水主は、人外の力を発揮してくれるのではないか。
彦兵衛が帆柱を見あげ、眼を凝らした。
自身に帆にのぼらせろと迫るものだから、一縷の望みをかけて別行動をとらせたのである。
ピュ――――――――ッ!
青空を背景に、なかば影絵となった弥助が指笛を吹いている。
それが集合の合図であった。
俄かに空が翳った。陸地側から、雪崩のように岩礁地帯の真上に流れてきたのだ。
黒雲が湧いたのかと思いきや、ちがう。その不吉な集合体は、おのおのが独立した動きを見せ、密度が濃くなったり、淡くなったりして変化する。
そして空一面に黒いもので埋め尽くされ、あたかも日食のように、周囲が暗くなったときだった。
三度、菅笠をかぶった青年が指笛を吹いた。
それが攻撃の指示か――。
いっせいに烏の大群が急降下してきた。
羽をたたんで、流線形となり、恐るべき速度で福徳丸に集中する。
異常な数の烏は、弥助本人をはじめ、水主仲間には手を出さず、瀬取りにきた侵略者のみに襲いかかった。
それを命じるとは、人間業とは思えなかった――。
金治と久助の親子の身体に群がり、黒々とした塊になる。
親子はともに、くすぐられて笑うかのような声をあげた。
じきにそれは苦悶のうめき声に変わる。
おびただしい数の烏に憑りつかれ、嘴で突き刺された。
顔じゅうえぐられ、眼球までくり抜かれた。血みどろになって絶叫する。
苦しまぎれに久助は、竹槍で突こうとした。
その鋭い先端が、運悪く父親の腹に埋没してしまうとは。
竹の先には人糞を塗りつけているので、かすり傷を負っても破傷風にさせることができるだろう。
が、金治はすでに虫の息。破傷風になるまでもない。
二人の抵抗がやみ、悲鳴もとだえると、ようやく烏は立ち去り、次なる獲物をさがした。
穴だらけの、血まみれの死体だけが残された。
烏の群れは、村長や甚八、善七と為吉にも襲いかかっていた。
村長は胎児のように身体をまるめ、急所をつつかれまいとした。
甚八は鳶口をふりまわして、そのうち何羽かをはたき落としたが、あまりにも数が多すぎた。
同じく顔じゅう嘴の洗礼を受け、たちまち血まみれになった。
善七も為吉を守るために、我が子を抱いて防御の姿勢をとった。
烏は容赦なく親子を襲い、とりわけ柔らかい部位を執拗に狙う。
善七は片方の耳をかじり取られ、背中も穴だらけにされた。
父親が我が身を挺していたが、そのすき間から為吉もつつかれる。
とりわけ、突き出た腹を狙われた。
子どもの悲鳴は聞くに堪えない。
烏の大群は、岩礁地帯一面にも攻撃を浴びせていた。
三艘に殺到していた略奪者らに、容赦なく襲いかかる。
のみならず白浜で待機していた女や病人、子どもにまで被害が及んだ。
なかには、生きたまま啄まれ食われている者もいる。
まさに、お船さまと称して大義名分をふりかざし、積み荷を奪うことを正当化する人間に、災厄をもたらすかのごとく――。
人々は逃げ惑い、うめき、怯え、悶絶し、断末魔をあげるか、むしろ命乞いをしている。
瀬取りの現場が鬼の所業なら、それを罰するのも同義であった。
どれほどの時間、烏の群れが裁きを加えたことか。
福徳丸の帆柱で、ふたたび指笛が鳴った。
すると、いっせいに烏は海域から離れ、もと来た山へ帰っていく。
襲撃のあいだ、烏たちはほとんど鳴くこともなく、また帰っていくときも声すらあげなかった。不気味な羽音だけがくり返されただけだった。
黒い雲となって、はるか遠くの山間へと去っていった……。
呪われた日食は明けた。廻船を罠にかけた漁場だけが、白日の下にさらされた。
さっきの賑わいとは打って変わって、あたりには血まみれの死体が累々と倒れていた。
嘴で苛まれ、絶命した者も多いが、なかには軽症ですんだ者もいた。うまく物陰に隠れ、難を逃れた男女もいる。
福徳丸の船上では、甚八が念入りに蜂の巣にされ、事切れていた。
村長は傷ついたものの、命を落とさずにすんだ。
善七は片方の耳をちぎられたうえ、身体じゅう傷だらけになっていた。少なくとも死は免れた。
為吉は腹部を軽くつつかれただけで、これも大事には至っていないようだった。ただ、ひどく怯え、ベソをかいている。
村長は這いつくばり、金治の死骸のそばに落ちた弓と矢を手にした。
頭上の菅笠をかぶった水主めがけ、弓をつがえ、引き絞る。
「よくもやったな、悪神め……」
村長はふるえる腕で、弦を目いっぱい絞り、そして矢を放った。
矢は一直線にうなり、弥助の右肩に突き刺さった。
鳥を操るのに集中していた弥助は、とたんに苦悶の顔を浮かべ、身を折る。
均衡を失い、そのまま真下へ転落した。
その高さから甲板に叩き付けられたら、ひとたまりもあるまい。
見ていたのが定吉と菊之丞だった。
これも我が身を挺し、二人して背中を向けて帆柱の真下に入った。
間髪を入れず、ほぼ同時に直撃し、下敷きにした。
水主は地面に叩かれ、横たわった。
が、すぐに弥助は身をよじって、よろよろと立ちあがった。
菅笠はすでに脱げ、白い肌と白い髪がむき出しになる。肩に突き刺さった矢は途中で折れ、破片だけが残っていた。
あわてて、定吉らに手を差しのべる。
しかしながら二人は頭を打ち付け、背骨を折っていた。菊之丞は即死であった。
定吉は全身を突っ張らせ、口から泡を噴いてうめいていたが、しだいに動きは緩慢になっていく。
じきに眼を開けたまま、絶命した。
「弥助」と、伝馬船の影に隠れていた彦兵衛はすかさず飛び出し、弥助にしがみついた。「よくぞ無事だった!」
「こうまでされて、生かさへんで!」傷だらけの善七が脇差を手に、二人に迫った。その顔には、以前の善良そうな色はない。憤怒の形相で歪んでいた。「よくも、村の人間、痛めつけてくれたな!」
「よせ!」
彦兵衛の制止もむなしく、善七は脇差をふりかざして、踏み込んだ。
彦兵衛もまた、弥助を殺させまいとしてかばい、肩からわき腹めがけ、斬りつけられた。
声もなく、頽れる。
弥助は烏の援軍を操ったはいいが、精根を使い果たしていた。
その場にしゃがみ込み、後ずさりするだけで、反撃の意志は残されていない。
甲板上に尻餅をついたまま、顔の前に両手をかざし、頭をふって嫌々をする。
「あううう……」
残るは水主は、弥助一人となった。
村長は気力をふり絞って立ちあがり、弥助にゆっくりと近づいた。甚八の死体が握っていた鳶口を手にしている。
鬼神のごとき形相の善七は、かたわらに為吉を従えたまま、それに続く。
生存者は皆殺しにするまで手を緩めてはならない掟だった。親の代から言い聞かされてきたのだ。
「ううーっ!」
弥助は嫌々をくり返し、船べりまで後ずさりすると、逃げきれないと観念したか、顔をくしゃくしゃにして涙をこぼした。
それにしても、新雪のような白い肌。そして眼を瞠るほどの白髪に、村長は、
「白子だな、この水主は。前に江戸で見たことがある。稀に野生動物でも見られるという。白いカモシカは、マタギの世界では神の使いだと聞く。狩ると災いがあるそうだ」
と言い、鳶口をおろした。
弥助はうずくまったまま、身をよじるだけだ。戦意のかけらも見当たらない。
「どうするつもりなんや、村長。おれたちをこんな目に遭わせたんやぞ。仇を討たねば」
「父ちゃん」と、為吉が鍬を捨て、しがみついた。「許してあげようや。この人、かわいそうやないか!」
「しかも口が利けぬとは不憫な」と、村長はため息をついた。眼をそらしたあと、ふと思いつき、もう一度弥助の顔を見た。「――もしや、この人こそ、福子ではないか?」
「なんやて、福子?」
「これこそ、神仏の導きなのか……。社の弁財天さまが消えてしまったから、今後どうなることやらと心配していた。わしらの女神さまに代わり、別の七福神の一人を遣わせてくれたのかもしれぬ」
「するってえと、つまり」
「わしらの生き神として、これを立てる」
と、村長は決然と言った。