12.水主たちと略奪者の交錯
そのときだった。
「今戻ったぜ」
と、ようやく彦兵衛は甲板の上に這いあがってきた。
「親方、船の具合はどうですかい?」
定吉がふり返って聞いた。
弥助らも、船頭の次の言葉を待った。
「幸いにして水押(船首下にある、波を切る部材)に異常はない。水押だけが、平らな浅瀬に乗りあげているにすぎん。おれたちの真下は無事だ。浸水している気配はないから、破船はしてはいまい。舵の羽板もちゃんと生きている」
彦兵衛は声をひそめて、みんなに聞こえるように言った。
「だったら――」
「今は大潮で、ちょうど潮が引いている頃合だ。潮が満ちてくれば、もしかしたら逃げ出せるかもしれん」
「どれぐらい、待てばいいんで?」
巳之吉が身を乗り出して言った。
「早くて、あと二刻(4時間)」
「悠長な! そんなに待っていられないよ!」と、菊之丞は悲鳴をあげた。「伝馬船(廻船に搭載された小舟)があるじゃないですか。船尾側から、こっそり舟をおろして逃げましょう。うしろ側なら浜に対し、死角になってます。急いで漕げば、ふり切れるかもしれない」
「馬鹿言え。多勢に無勢だ。五人も乗れば速度は出ない。たちまち囲まれて、結局は殺さちまう」
「なら、バラバラに泳いで逃げて、追手を散らすってのは――」
「ここで辛抱していてもはじまらねえ。いっそのこと、おれは戦う。最後にひと暴れしてやる」と、いつの間にか定吉は頭に鉢巻をしめていた。櫂をたぐり寄せる。刺子着の懐から小刀を取り出して、刃をきらめかせた。「それで駄目なら、ひと思いに自決してやら」
「おれも同じだ。じゃないと、死んだ益次郎に申し訳が立たん」
巳之吉は汗の浮かんだ坊主頭を、ぴしゃりと叩いた。
「待て、おまえら。早まるんじゃない。おれが交渉してみるさ。それで時間を稼ぐ」
彦兵衛はあぐらをかいて、手をさし出した。
それで水主たちは、やや落ち着きを取り戻した。
弥助は腹這いになったまま、菅笠の影から上空を見ていた。
さっきの鳶が広い青空で大きく旋回し、まるで仲間を呼ぶかのように、甲高い声を放っている。
――頼む、鳶よ! 急いで応援をよこしてくれ!
◆◆◆◆◆
難破した三艘を尻目に見ながら、甚八と善七、為吉親子が乗る小舟が、ゆっくりと四艘目に近づいていった。
遅れて金治と久助、村長らの乗った舟も続く。互いに、長くて幅広の板木を積んでいる。
罠にかかった新参の船は、福徳丸と書かれた旗印の、三百石積みの弁才船である。
見たところ、他のそれにくらべて、船体に損害は見られない。
浅瀬に水押を乗せ、身動きがとれなくなっているにすぎないようだ。
潮が満ちるか、網舟を総動員させて引っ張れば、瀬から離せられるかもしれない。
甚八は櫓をあやつって、福徳丸に横付けした。碇を海に投じる。
合図とともに、善七が幅の広い板木を、相手の船に斜めに渡した。さすがに三百石積みの方が上甲板が高いので、傾斜がきつい。
反対側から、同じく村長らの舟も板木を福徳丸にかけた。
「それ行け!」
甚八が鳶口を手に、先に板木をのぼった。とても老体とは思えぬ身のこなしであった。
「タメ公、無茶したらあかんぞ! なんかあったら、父ちゃんが守ったるからな!」
善七はふり返って息子に言うと、抜身の脇差を引っさげて続いた。親父が秀吉に徴兵されて、城攻めで使ったとされる遺品だった。厠の屋根裏に隠して、刀狩りから逃れた。役人も臭がって、そこまで調べなかったのだ。
「うん!」
為吉は鍬を肩にかついで板を渡った。
為吉が福徳丸の甲板にたどり着くのと、反対側から村長が杖を突きながら現れたのは、ほぼ同時であった。
胴の間には船頭とおぼしき壮年の男と、若い水主三人が押し競まんじゅうをするかのように、尻を向け合ってひざをついていた。
しきりに手を合わせ、憐れみを乞うている。
「よしてくれ! この船にゃ、積み荷はなんもねえ! 大坂を出て、江戸でおろしたその帰りなんだ。だから空船さ。見逃してくれ!」
彦兵衛は丁髷を揺らして、コメツキバッタのように何度も平身低頭した。
「だったら、本当かどうか検分する!」
金治が弓をつがえ、狙いを定めたまま言った。
「ぜんぶの甲板を剥がしてみようぜ。金目のものを積んでいるかもしれね」
と、金治の長男である久助が舌舐めずりしながら言った。手には竹槍。先端には茶色いものが付着している。人糞をなすりつけてあるのだ。
「そんなの、あるわけねえさ」彦兵衛は追従笑いを浮かべた。「……そうだ。おれたちのひと月分の米ぐらいなら載せてある。野菜も少しばかりな。酒樽だってあらぁ。せめて、それだけでも持っていけ。……な、だから、勘弁してくれよ」
包囲した村人たちは、少しでもおかしな動きを示したら、容赦なく斬りかかるべく、武器を構えた。
「金治、久助、胴の間の下をめくれ」
村長がしゃがれた声で指示した。
親子はへい、と返事し、甲板の一枚板に手をかけ、めくった。
金治が弓を構えて見張りをし、息子が胴の間の下にもぐり込んで、内部をあらためた。
ほどなく、息子が姿を見せた。
「積み荷はほとんどない。けど、こんなお宝があったぜ」
久助は花瓶のようなものを手に、あがってきた。
なんの変哲もない伊万里焼に見えた。ただし色とりどりの彩色は美しく、値打ちはありそうに映った。
「……あ、そりゃ、お清から三両で売りつけられ……じゃなく、買った壷でして」と、彦兵衛は言い淀んでから、眼を細めた。「おかしい。その壷は、フタをして、厳重に紐で縛っていたはずだが?」
「はじめから紐もはずれ、フタもそのへんに転がっていたぜ。おれは知らね」
と、久助。
金治が眉間にしわを寄せて、矢を向けた。
「中になにが入っていた? 積み荷にこれ一つだけってのは怪しい。よからぬ麻薬の類ではあるまいな?」
「……いや、お清いわく、『私の、彦兵衛さまに対する愛情という名の性根が入っていますから、絶対に割ったりしてくださるな』と、念を押されたが……。まさか、独りでにお清の性根とやらが……」
と言いかけて、彦兵衛はようやく合点のいく顔つきになり、それ以上は口をつぐんだ。
「わけわからん言い逃れ、しよってからに!」
脇差を両手で担いだ善七が言った。
彦兵衛は昂奮させるまいとして、両手で制したときだった。
逆上した巳之吉が、善七に向かって突進した。
思いがけない反撃に、善七は泡を食った。
しかしここで覚悟を決めなくては、飢えに苦しむ我が子を救うことができない。
背後に為吉がいる手前、ぶざまな姿を見せるわけにはいかなかった。
巳之吉の頭からの突進に対し、八相の構えで抜身をふりおろす。
袈裟懸けに、巳之吉の肩から下腹にかけて斬りつけた。
赤銅色に日焼けした巳之吉の肌に、無残な切り口が開いた。
善七に体当たりが叶わず、福徳丸の船べりにぶつかり、地べたに突っ伏した。
かたわらの為吉が鍬を担いだまま、「うわ!」と叫んだ。
巳之吉はうつ伏せで横たわり、喉から大量の血液が流出している。見る見る血の池が広がっていく。
やがて身体が小刻みに震えはじめた。死の痙攣に相違あるまい。
「ああくそっ! 双子を死なせちまうとは!」彦兵衛は頭を抱えて言った。「……な、頼むよ。あんたらの犯行は見なかったことにする。お上に報告したりはしないと約束するから、おれたちだけでも助けてくれ!」
「ついに、人を殺しちまった……」と、善七は脇差をかまえたまま洩らした。両脚がひどくふるえていた。切っ先から鍔にかけて、赤黒い鮮血がゆっくりと伝ってくる。「しゃあなかったんや……。せっかくお船さまに寄ってもらったからには、あんたらは生かしちゃなんねえ。お船さまは神仏の遣いでも、あんたらはちがう」
「神仏は、ひもじい思いをするわしらを哀れみ、お恵みを寄こしてくださった。おまえたちは操られたにすぎぬ」
と、村長が言った。
「ものは言いようだわな!」と、定吉が仇討ちしようと前に進み出た。櫂を手に、正眼に構える。あれほど命乞いの演技をしろと船頭に指示されていたのに、早くも鍍金がはげた。「許さねえ、今度はおれが相手だ!」
彦兵衛がなんとか時間を引き伸ばそうと、頭を回転させているときだった。