10.瀬取りの実態
驚くべきことは、それだけではない。
弥助は船べりにつかまったまま、思わず眼を瞠った。
靄がさらに晴れてきて、弥助の弱い視力でさえ、嫌でも眼にすることができた。
左手に巨大な物体がいくつも視界に飛び込んでくるのだ。福徳丸よりも、もっと白浜寄りの位置であった。
暗礁に船底を乗せている船は、この一艘だけではない。――先客がいたのだ。
なんと――すでに三艘もの廻船が、同じく浅瀬に引っかかったり、大きい岩礁に船底をぶつけたりして、派手に破船しているではないか。
そのなかで、ひときわ異彩を放つ千石積みの弁才船が、胴の間のあたりで真っ二つに折れかかり、への字のようになって身動きとれずにいた。
帆は破れ、唯一、御城米船であることを示す、朱の丸旗が艫のところで静かにはためいていた。
その痛ましい姿よ。
全長十六間(約29m)、船幅四間(約7.2m)もあろう巨体が、岩礁のひとつでこうも無残に打ち砕かれるのだ。しょせんは木造船であった。
遠目にもわかった。
あの三艘こそ、先日、江戸の湊で日和見、風待ちしているあいだ、旅籠で一緒になって、どんちゃん騒ぎをした同業者にちがいない。
いちばん白浜近くで暗礁に乗りあげているのが、紀州串本をめざしていた三百石積みの船であろう。旗印に見憶えがあった。
台形の岩礁のせいで真っ二つに砕かれたのが尾道行きの千石積みの御城米船であり、その斜め後方で、半ば横転しているのが類船にちがいあるまい。年季の入った婆丸らしい、古臭い形状の弁才船が特徴的であったから、疑いようもなかった。
それぞれの船の甲板で、水主たちが右往左往している。
なかには白浜に向かってひざまずき、助けを乞うている者もいた。
その壮絶な光景は、まさに罠にかかった小動物を思わせた。
次々に、岬真下の集落から、網舟に乗り込んだ人間がやってきた。地の利に長けているのだろう。たくみに岩礁地帯を縫い、雄叫びをあげながらそれぞれの難破船に侵入していた。
総勢二〇〇人は超えているにちがいない。
三艘の廻船に数珠つなぎとなって襲いかかるさまは、さながら死んだ甲虫に群がる蟻のようだった。
座礁していた三艘に人々は集り、なんと、積み荷を奪っているのである。
水主たちを脅し、我先に掠め取っていく。
村人は長い柄の鳶口(鉄製の穂先をつけた棒)らしきものや、竿の先に鎌をつけた得物を手に、俵に包まれた荷物を引っかけて転がしては、人から人へ順繰りに運び、小舟に積み込んでいる。
村人たちはこの飢饉のせいか、誰もが痩せ細っているにもかかわらず、一俵三斗五升(60kg)ある米俵を軽々と肩に担いで奪っていく。
統制のとれたやり口に見えた。
「やられた……。これは瀬取りだ」
彦兵衛は垣立のすき間から、惨たらしい光景を見ながら洩らした。
「瀬取り?」
と、菊之丞。
「浦の連中は寄物をあてにしているんだ。こんな大飢饉が日本中起きているご時世だ。なおさらあてにせずにはいられまい」と、彦兵衛は拳を口に当て、鋭く言った。「くそっ、いつの間にかここは、おれたちにとっちゃ難所のひとつである伊良湖岬だったんだ。こんな形で引っかかるとは……。迂闊だった」
「連中は、船の積み荷を奪って、自分たちのものにしようってか!」
定吉は声を荒らげた。
「しかも、それだけじゃない」と、彦兵衛は絶望した様子で甲板に座り込んだ。ベソをかいたように顔をゆがめ、両手で顔を覆った。「難破船から積み荷を奪ったことがお上に知れたら、重犯罪と見なされる。それを承知のうえで、ああやって略奪する。積み荷に手をつけたからには、水主は皆殺しにしなければならない。発覚を恐れて、口封じでな。船乗りを長年経験した者なら、こういった瀬取りが日本の沿岸で、しばしば行われるのを知っている。知っているからこそ、座礁したとき、命はないと観念する者もいるのだ」
「冗談じゃない! こんなところで、殺されてたまるか!」
巳之吉が言ったが、村人たちに姿を見つかるのを警戒して、その場にしゃがみ込んだ。
今のところ地獄の亡者のような群れは、罠にかかった三艘にかかりきりだ。
しかしながら、じきに新たに難所のえじきとなった福徳丸にも、魔の手が伸びるだろう。
生存のための時間稼ぎをするべきだった。
「ちょいと船底を調べてくる。おまえたちはここで見張っておけ。連中が近づいてきたら、おれに報せい」
と、彦兵衛は言うと胴の間に跳びおり、船底に続く甲板の板をめくった。
弥助は垣立から頭だけ出して、他の難破船を見ていた。
それぞれの廻船の水主たちはしきりに命乞いしたり、逃げ惑っているが、ことごとく捕まり、棒で殴打され、鎌で切りつけられている。
寄ってたかって村人たちに捕らえられ、縛り付けられたうえ、槍で腹部を突かれる者もいた。
さんざん傷口をこねくりまわされ、槍を抜くと、その穴から腹圧で桃色の腸が飛び出した。
鮮血が飛び散り、その光景は漁場で鯨を屠るのと同じであった。見るも無残な地獄絵図だった。
手を拱いているときだった。
弥助はふいに難破船の上を見た。
はるか高い上空だった。
黒い細長い影が、羽ばたきもせず、ゆったりと旋回している。
日差しが出てきて、肌を痛めつけられるのを案じて、弥助はせめて菅笠だけでもかぶった。
船頭の話を聞くかぎり、そもそも日が昇るまで命があるかどうか疑わしいようだが……。
長く、指笛を吹いた。
甲高い音が響いたとたん、海上で略奪のかぎりを尽くしている村人数人が、こちらを見た。どうせ遠からず、福徳丸にも被害が及ぶのだ。
羽音を立てて、茶褐色のなにかが舞い降りてきて、さし出した弥助の腕にすがった。
一羽の大きな鳶であった。
弥助の腕を止まり木にし、鋭い眼で見つめてくる。
弥助は小刻みに喉を鳴らした。
鳶は嘴をパクパクさせた。
『気を付けろ。浦の人間どもは、おぬしらを亡き者にするつもりだぞ』
――『たった今、船頭から聞いた』
『連中は、六年前も同じことをやった。おれは嫌というほど空から見た。奴らにとって、ここは船を座礁させる漁場なのだ。荷をたらふく積んだ船は、ここで魚を獲るよりも大きな獲物だ。連中はひもじくて、どうしようもなくなったとき、漁場で船が転ぶのを期待する』
――『なるほど、転ぶとは、そういうことだったのか』
『せっかく、おれと会話できる人間に会えたのに残念だな。死なすには惜しい』
――『どうか、力を貸してくれ』
『助けられるかどうか、怪しいぞ。しょせんおれは、臆病な鳶にすぎん』
――『この借りは必ず返すので、どうか! この命を投げ出したっていい。せめて仲間たちだけでも』
『ならば、やってみよう。おれたちの天敵を呼んでやる。非常事態だ。こんなときに、敵も味方もあるまい』
そう鳶は思考を弥助に飛ばしてくると、大きな羽を広げ、ふたたび宙に舞いあがった。
旋回しながら高みへと到達する。
甲高い声で鳴いた。さながら虎落笛のような音であった。