前編
この町の雨は、止むことがない。いつから雨が降っているのか、いつその雨を処理するための施設が整備されたのか、誰も深く考えたりはしない。今困っていなければそれで良いのだし、困ったときには誰かが対応するのだろうくらいに思っている。バルーンがいつものように、今日の天気と地下の大プールが半分程度埋まっていることを伝えているはずだ。もちろん今日の天気なんて雨以外であるはずもない。しかしあきらめきれない者達もいるもので、とある通りにはいつもてるてるぼうずが所狭しと吊されている。尤もプラスチックの一体成形品に顔を書き入れたものだが、酸に侵されにくいインクやレーザー刻印で描かれた顔は、一つとして同じ顔がない、なんて事はさすがにないがそれぞれに個性的な表情を見せていた。
「なるほど、これはすごいじゃないか」
道の両脇にロープが張られ、そこにびっしりとてるてるぼうず。少し高いところにある店の看板にもてるてるぼうず。その上の空間にはまた縦横無尽にロープが張られ、そこにも無数のてるてるぼうず。所々てるてるぼうず以外の物もぶら下がっているようだ。
「ここまでくるといっそ禍々しいじゃねぇの」
傘には時折大粒の水滴が当たって激しい音を立てる。てるてるぼうずに集められた雨水がまとまった大きさに育っては重力に負けて落ちてくるのだ。
「そういうことを言うものじゃないよ。これらの一つ一つに人の祈りが……」
そう言って、このあたりではまず見かけない和装の人影が上を向いた。傘が傾き下からのぞいたその顔は、青灰色をした猫のもの。
「……この景色は何とかならんかね……」
さっきまで見えてなかった、高いところにびっしりと張り巡らされたてるてるぼうず付きロープを視界に入らば、猫の意見も変わろうというものだ。
「何だよ、似たようなこと思ってるんじゃねえか」
照照st.は正式な呼び名ではない。しかし、何故か辻から辻の数十メートルの区間だけが、このようにびっしりとてるてるぼうずに覆われている光景は、名前が自然発生するに足るものだろう。
「……前に通ったときは何の変哲もない通りだった気がするんだけどねぇ」
「前って言っても、いつだったか忘れるほど前じゃねぇか」
「おや……そうだったかねぇ……」
青灰色をした猫の金色の目が、何かを思い出すように細くなる。町の中でも少し寂れた区画に位置するこの通りは人影もまばらで、立ち止まって見上げていても誰かの邪魔になるということもない。
「雨が続けば晴れを願い、晴れが続けば雨を願う、そういうものだと言ってしまえばそうなんだけどねぇ」
この通りで立ち止まっているのは、猫、虚無僧、オマワリの三体くらい。
「願を掛けたらそれでおしまい、というのもまた人らしさではあるとはいえ……」
傘を戻し視線を前に向ける猫。
「これだけの願いを一所に集めて、一体何をしようというのかねぇ」
足袋と雪駄は雨には向かないはずだが、足袋を濡らしもせず、足音も水音も立てず、のんびりと歩を進める。
「雨を止ませたいんじゃねぇの?」
傘から聞こえた声は、からかうような調子を含んでいた。
何日かの後、猫はまた照照st.を歩いていた。
「お、今日はてるてる坊主が売ってるな」
「つけてあげましょうか?」
ざあざあと降る雨の中、箱の中に白いプラスチックのてるてるぼうずが無造作に入れられている。脇には提灯のような古めかしいデザインのランプ。店番をしているのは、破れた傘のようなデザインの頭部カバーから、カメラアイが二つのぞいている小柄なサイボーグ。地べたに直接座り込んで周囲を見回している。
「よせやい。それにしても……どうもあのデザインは落ち着かねぇなぁ」
中骨のない破れた傘というのは、傘の妖怪としては見ていてあまり気持ちの良いものではないらしい。
「デザインもだけどね……あれ、憑き物じゃないかい?」
「別に妖気は……ははん、からくりの方か」
ナノマシンによる憑き物、あるいは妖怪。世間的には気のせいや見間違い、単なる噂話とされているそれは、ほぼ全ての住人が機械の体を手に入れたこの町で、時折特に理由もない怪異を引き起こす。
「だとしても……なんで大人しく物売りなんてやってるんだ?」
「よくわからないねぇ……ま、聞いてみようかね」
そう言うと猫は音も立てず水しぶきもあげず、てるてるぼうず売りに近づいた。
「お、買っていってくれるのかい?」
低い位置から物売りが猫の顔を見上げる。二つのレンズにそれぞれ映り込む猫の顔。
「じゃあ、二つ貰おうかね。支払いはこれで良いかい?」
袂から決済チップを取り出す。
「顔はどうする?俺が描いても良いけど……」
決済端末を操作しながら物売りは訪ねた。しかし
「いや、これがあるからね。二枚目に仕上げてみるよ」
猫が刀の柄をぽんぽんと叩いて示すと、カメラアイの間にあるランプを何色にも光らせて納得を示した。
「はい、じゃあ二つ。顔かいて適当に吊しても良いし、持って帰ってもいいよ」
「ありがとう、適当なところに吊させて貰うよ」
決済チップとてるてるぼうず二つを受け取ると、一つを残して袂に入れた。脇差しを抜き、切っ先を軽くてるてるぼうずの顔になるところに当てる。
「しゃっ!」
息の漏れる音とともにブゥンという振動音。
「まあギリギリ二枚目かねぇ」
猫がてるてるぼうずにふっと息を吹きかける。プラスチックのてるてるぼうずはさっきの一瞬で、リアルな猫の顔に彫り上げられていた。
「たぶん憑かれてると思うんだけどねぇ……」
少し離れた場所で、てるてるぼうずをロープの隙間につけながら猫は物売りの方をじっと見ていた。
「その割には、普通の物売りだったよなぁ」
「そういう存在なのか、人間の意志が強いのか……」
しばらく眺めている間にも、時々てるてるぼうずは売れている。高いところまで伸ばせる腕やサブアームのある者は、高いところに張り巡らされたロープにてるてるぼうずを付けていくようだ。
「確かに妙な空間にはなってるが、だからといってすぐにどうこうなるようなもんでも無いよなあ」
傘が腑に落ちないといった風の声で言う。それを聞きながら、猫は少し下を見ていた。路面にたまった水に、いくつもの波紋が生まれては広がっていく。その光景に、あるいはその向こう側に果たして何を見たものか。猫の目がすう、と細くなる。
「確かに、すぐにはどうこうならないんだろうけどねぇ」
そして顔を上げると、張り巡らされたロープにてるてるぼうずに混ざってぶら下がってるものを見た。
「まあ、そのうちまた見に来るとしようかね」
バーサイクロプス。暗い店内には猫のほかに客はいない。ぴちゃぴちゃという音を立てて皿の中身を舐める猫の姿が、マスターの大きなレンズに映っている。傘はいつものように外の傘立てで待っている。
「なあマスター」
猫が顔を上げる。金色の目がマスターを見ている。
「マスターは、雨が止んだら良いと思うかい?」
マスターは動かない。が、きょとんとした空気が店内を支配した。
「ちょっと違うか……青空が見たいと思うかい?」
猫が聞き直す。
「興味はあるけどね……ただ、この店でお客さんの相手をするために、今の体を作ったからね」
細いアームが猫の前の空になった皿を下げ、代わりの皿を別のアームが静かに置いた。
「たまに来るお客さんの顔を見るだけで十分かな?」
「そういうものかね?」
マスターの大きなレンズに映る猫の目を、はじめて見るような気分で猫は見ていた。
「そういうものだよ」
そのレンズの奥にはさらに何枚ものレンズと、複雑な機構が隠れている。表面以外の反射によって、いくつもの金色の眼がそこに表れる。
「ああ、でも」
ピントかズームかそれ以外の何かかはわからないが、モーター音とともにレンズの奥の機構が動き、映り込んだいくつもの眼の位置が変化する。
「雨が止んだらお客さんが増えるんだったら、考えなくもないけど」
「それは、変わらないだろうねぇ」
袂から決済チップを取り出す。
「やっぱり?」
マスターはそれをいつもの調子で受け取った。
外ではやはりバルーンが雨の成分や、予想される今後の雨量について何か言っているようだ。尤も雨の性でろくに聞こえないその音声をわざわざ聞き取ろうとするものはいない。大半は直接回線で同じ情報を得ているし、ごくわずかにいるそれ以外の者は、どうせ聞き取れはしないと諦めている。
「また酸っぱくなるのかねぇ」
「アレが聞こえるのか?」
「いや、聞こえはしないんだが、わざわざ何か言ってるからそうなのかなぁってね」
他愛もない話をしながらまた照照st.を歩く猫。
「お、いるね」
物売りが座っているのを見つけると、そちらに向かってまっすぐ歩いていく。いつものように音はしない。人通りも相変わらずまばらで、特に人を避ける必要もなくたどり着く。
「おや、また来たんだね」
二つのカメラアイに映り込む猫。間のライトがチカチカと色を変える。
「今度は三つ貰おうかな」
猫が袂から決済チップを取り出しながら少し腰を低くして言う。
「三つだね。好きなのを選んでくれていいよ」
「ん?何か違いがあるのかい?」
決済端末でチップを読みとりながら、顔を少し上げ、傘の破れ目のように見える部分からのぞいたカメラを猫の方に向ける。
「いいや、寸分違わず同じものだと思うけどさ」
そこで言葉を区切ると悪戯っぽくライトの色を変えて
「こういうのは、好きなのを選んだと思ってる方が、気持ちがこもるものなのさ」
ぴっと指を立てて見せた。
「なるほど、じゃあしっかり選んだら、精一杯気持ちを込めて顔を彫らせてもらおうかねぇ」
猫もそう応えながら、用の済んだ決済チップを受け取ると、時間をかけててるてるぼうずを三つ選ぶ。
「じゃあ、これとこれと、それからこれを貰っていくかね」
「また来てくれよな」
その声には片手をあげて応えると、猫は通りの真ん中に向かって歩いていった。