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加藤良介 エッセイ集

なぜ近畿は、日本の中心になり得たのかへの一考察

作者: 加藤 良介

 学の足りない素人の考察です。話半分にお読みください。

 徳川家康が江戸に幕府を開くまで千年近く、日本の中心は畿内にありました。

 府県名で上げると、大阪、京都、奈良の三府県が中心で異論はないでしょう。他にも滋賀、兵庫なども中心地に数えてよいかも知れませんが、これらも全て近畿地方になります。

 では、なぜ日本の中心が近畿地方に集中したのでしょうか。

 これは関西人として、個人的にも大いなる疑問です。

 特に奈良県のような小さな盆地に、何がどうなったら日本全体を支配する政治権力が成立するのでしょうか。

 奈良県民の皆さんには申し訳ありませんが、大阪や京都はともかく、今の奈良県は文化財以外に取り柄のない、冴えない地方都市です。

 しかし、国家としての日本国の発祥の地は、この小さな盆地でした。

 今回の考察は、この辺りを含めて近畿地方が、なぜ日本の中心地になったのかを、掘り下げていきたいと思います。


 

 ①日本の国土の中心にある


 日本地図を見れば一目瞭然ですが、近畿地方は正に日本の中心地に鎮座しています。

 列島を効率よく統治するには、首都が国土の中心地にある事が望ましい事は言うまでもありません。

 これで、話は終了かも知れませんが、しかしながら一つの疑問が発生します。

 今の我々は、近畿が日本列島の中央に存在していることは知っていますが、ろくに地図も存在しなかった古代や中世において、この場所が日本の中心地として認識できたのでしょうか。

 鎌倉以降の中世であれば、情報も揃い近畿が日本の中心地であると認識できたとは思われますが、大和王権の人たちには認識があったかは疑問です。

 なんとなく、経験的に畿内が日本の中心地であるという認識があったのかもしれませんが、もしそうであるなら、昔の人たちの感覚は素晴らしいですね。ドストライクだった訳ですから。



 ②瀬戸内海に繋がっているから


 古代日本での道路は、貧弱なものだったでしょう。

 ローマや中国のような街道が整備されていることはなく、山や川に遮られ、くねくねとした獣道に毛が生えた程度のものだと思われます。

 その為、主な交通路が海路であったことが容易に想像できます。

 もう一度地図を見ます。

 古代日本の船は、恐らく小舟が中心です。

 小舟で、波高い外洋での航海は不可能ではありませんが、危険窮まりありません。選べるのであれば、波の穏やかな海を選ぶでしょう。

 そして、日本には大きな内海が存在します。

 瀬戸内海です。

 西は山口の壇ノ浦から、東の和歌山の紀伊水道に至るまでの、東西全長450Kmに及ぶ、大きな内海です。

 昔の人々には、この波が穏やかで、何かあっても近くの陸地に這い上がれる瀬戸内海は、陸路よりもはるかに便利な高速道路でした。

 畿内はこの巨大な高速道路の終点に存在します。

 この地点に、大きな勢力が成長することはあり得ます。



 ③なぜ、九州では駄目なのか


 古代の日本では畿内よりも先に、九州北部が発展したはずです。

 理由は先進地である大陸に近かく、渡来人などを含めた往来が盛んだったからです。

 単純に考えれば、ここに巨大勢力が形成されるのが自然です。

 地形や気象の条件もありますが、地政学的にも日本に似ているイギリスの中心地は、大陸よりの南部です。

 古代日本の中心地が九州にあり、その勢力圏が東に拡大していったとしても、不思議ではありません。

 大陸の先進的な技術を身に着け、農業生産力が高まれば、比例して人口が増えます。人口が増えれば移民活動が活発化し、技術を持った人々が徐々に東に向かって進むでしょう。

 もしかしたら、大和王権の人々も元をただせば九州の人々だったのかもしれません。

 しかし、例え九州出身の人々が畿内でイノベーションを起こしたとしても、中心地はあくまでも九州のはずです。

 九州には筑紫平野が広がり、農耕に適しています。大規模な集落跡である吉野ケ里遺跡が大きなインパクトを与えています。

 このインパクトにより、邪馬台国九州説も大きな説得力を有しています。

 しかしながら、九州勢が近畿に侵入して大和王権を樹立したとは考えにくい。

 古事記や日本書紀の記述を参考にすると、畿内の勢力が九州を支配したことになっています。

 ここが、一番の謎でしょう。

 なぜ、後進地であるはずの畿内が、先進地たる九州を支配できたのでしょうか。

 


 ④生産力に違いは少ない


 当時の国力は人口に比例します。

 多くの穀物を生産できる地方が、力を持つでしょう。

 では、畿内の穀物生産量は多かったのか。

 これは、発掘調査などの進展がない限り断言できませんが、私としては九州との大きな差は無かったのではないかと考えます。

 淀川水系の大阪平野は筑紫平野よりも大きな面積がありますが、当時の大阪はほとんどが海でした。京都寄りの枚方や、奈良寄りの堺、岸和田の辺りは陸でしたが、その間は海だったようです。

 当然、農耕は出来ません。

 また奈良や京都の盆地にも、巨大な湖が広がっていたようで、こちらも耕作地は少なかったでしょう。

 九州に対して農業生産力において、著しいアドバンテージがあったとは考えにくい。



 ⑤武器が強力だった


 畿内と九州の間には山陰地方が存在しています。

 非常に高い工業力を持っていた地域です。

 ここには、吉備の国の勢力を含めても良いかも知れません。

 当時の山陰地方は製鉄所でした。

 渡来人からもたらされた製鉄業が盛んであったことは、考古学的見地から見ても証明されていると考えてよいでしょう。

 鉄の武器と石や青銅の武器では、威力に大きな違いがあります。

 畿内の勢力は、山陰地方の勢力と結びついて、大きな力を持ったのかもしれません。

 あくまでも想像ですが、国譲りの伝承が想像を膨らませてくれます。

 

 

 ⑥東方と言うフロンティアがあった。


 九州に無くて、近畿に有るもの。

 それは、開拓地です。

 畿内が九州の開拓地であったかもしれませんが、力の有る独立勢力となってしまっては影響力を及ぼせません。九州の勢力はそれ以上力を伸長できませんでした。

 一方、畿内は中部、北陸、甲信越、関東と、大きな権力の空白地が存在していました。畿内の勢力は東へと力を伸ばした事でしょう。

 大和王権が東方に影響力を有していたのは、壬申の乱を考えると分かりやすいかと思います。

 朝廷に反旗を翻した、大海人皇子(後の天武天皇)は美濃、尾張の豪族たちの兵を率いて戦いました。その兵力は朝廷側を上回ったようです。

 大和王権にはそれだけの影響力を、中部地方に持っていたことが伺えます。


 北陸地方も忘れてはなりません。

 日本史には唐突に継体天皇という、出所不明の天皇が現れます。

 どれぐらい不明かと言うと、この天皇は越前の国からやってきました。

 日本史に前触れなく突然、北陸が登場します。

 何故そんな場所に、皇位を継承できる人物が暮らしていたのでしょう。今では越前は穀倉地帯ですが、当時は湿原だったようです。

 研究によると、越前は北海道や大陸とのつながりが強かった地域のようです。ここも大和王権の勢力範囲となっていました。

 即ち瀬戸内海とは別口の、交易ルートを持っていたことになります。



 ⑦どうして東は強くならなかったのか


 畿内勢力にフロンティアがあったことは事実ですが、それならばどうして東方は、九州勢力における畿内のような立場にならなかったのでしょうか。

 この論理であれば、濃尾平野や関東平野に巨大な勢力が誕生しそうなものです。

 しかし、鎌倉政権が誕生するまで、いや、江戸が建設されるまで、東方は草深いド田舎のままでした。

 これは、高速道路である瀬戸内海のカバー範囲の外だったからでしょう。

 当時の瀬戸内海はシルクロードの最東端。

 大陸の豊潤な文化を惜しみなく運んでくれました。

 しかし、中部地方以東はこの文化の影響外だったと思われます。

 潜在力はありましたが、その力を呼び覚ます文化的インパクトがなかったのでしょう。



 ⑧近畿が近畿になった理由


 近畿が日本の中心地になったのは、様々な要素が複合的に絡み合った結果でしょう。

 大和王権の中心地である奈良や大阪だけ見ても、この結果は見えてきません。

 列島の中央部にあり、シルクロードの一部であった瀬戸内海に接し、先進地の九州に比べて、伸びしろたる後背地を有し、中部、山陰、北陸、などの諸勢力を糾合し、日本最大の政治権力へと成長したのでしょう。



 ⑨今後の近畿


 明治以降、日本の中心は関東地方に移りました。

 これは、歴史的英断であったと言えるでしょう。関西人としては複雑ですけど。

 近畿は歴史的に見ても、大陸とのつながりが強い地域です。

 しかしながら、今の日本の情勢は大陸だけではなく、世界と繋がらなくてはなりません。

 世界という観点から見れば、東京の立地は日本一と言えます。

 家康がここまで見通していたとしたならば、彼は日本随一の天才的政治家です。たぶんそこまで考えてはいなかったとは思いますけど。

 そんな一等地の東京ですが、大きな懸念が一つあります。

 それが、西にそびえる富士山でしょう。

 もしも、富士山が大爆発を起こしたらどうなるでしょうか。

 控えめに言って、首都機能は長期にわたって半身不随になるでしょう。

 東京に全ての機能を集めるのは、危険というより暴挙でしょう。

 富士山は確実に大噴火します。

 来週か、来年か、十年後か、百年後かは知りませんが、爆発することだけは確実です。

 5センチの雪が降っただけで少なからず混乱する東京に、10センチの火山灰が継続的に降り注いだらどうなるのでしょうか。

 大したことはないと楽観できる人は少ないでしょう。

 その確実に訪れる天災に備えるためにも、近畿は東京のスペアとしての機能を持っていなければなりません。

 これからの近畿は、古代より伝わる日本的なものの要素の、保管場所としての役割が与えられており、もしも日本がひっくり返った時に、再び立ち上がるための起点となるのが近畿だと考えます。

 故に近畿地方は近畿と呼ばれるのでしょう。

 


              終わり

 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 ご意見、ご感想などございましたらお気軽にどうぞ。基本的に返信いたしております。

 本文は史学の研究ではなく、地政学的考察である点をご了承ください。

 基礎情報に間違い等がありましたら、ご指摘ください。出典を確認後、直ちに修正いたします。

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