「鉄血」(4)
ベティ・モーの手によって閉じられた鉄の扉が、彼女の手によって再び開いた。
元々その扉は木製だったが、かつてモーが押し入った際に破壊し、ほかならぬ彼女のアドバイスによって鉄製に代わった。扉の裏側、外からは見えない位置だが、店主のたっての希望で彼女の手形が押されている。
重く、丈夫な扉だ。
ゆっくりと、軋む音も抵抗もなく、それは開いた。
左脚亭の出発と、そしてもしかしたら終焉の両方を、ベティ・モーは見届けることになるかもしれない。
差し込む街頭の明かりがなくとも酒場の中は明るい。決して手入れが行き届いているとは呼べない照明だったが店内を見通すには十分だ。
テーブル席は八つほどあるが、ひしめくというほどではない。椅子の背がぶつからないような程度の広さだ。事件が起きた時はおそらくは満席に近い状態だったのだろう。椅子の乱雑な倒れ方からそれは推察できた。
いくつかの席は空で、いくつかの席には突っ伏したままの死体が残っていた。飛び散った血の跡。床にもいくつかの死体がそのままになっている。
ぞっとする静けさがフロアには満ちている。
ベティ・モーは、その発端を想像する。
入口から動く死体が入ってきた訳ではない。最初の騒動はおそらく店内で起きた。喧嘩か何かが発端だろう。多分、何人かは騒動に驚いて表に逃げ出した。
残っていた客たちは争い、当然のように死人が出た。
どこにも体温の残っていない店内。彼女は当時の状況を幻視する。天井まで飛んだ血の跡。ここで誰かが斬られている。走って入り口に向かおうとする客。幸運にも入り口を出ることが出来たものも居たはずだ。
しかし、どこかで、誰かが出入り口の扉を閉めた。
モーが最初に駆けつけた時、扉は閉まっていたし、表で死んでいた男は、まだ歩き出していなかった。
向かって左手には奥まで伸びる長いカウンターがあり、その内側は無人だ。少なくとも入り口からは無人に見える。初老のバーテンは無事だったのだろうか。三人の女たちは、もう動かない死体たちを避けて進む。最後尾、フランチェスカが嫌そうな顔をしながら、それでも後ろ手で扉を閉めた。
奥だ。
店内で、収拾できない騒動が起きた。そんな時、店主はどう動くだろうか。
通常の酒場であれば用心棒の出番だ。騒ぎを収めるため、腕利きの用心棒が駆けつける。彼らは争っている連中を物理的に制止し、現場の保存をはかる。だが左脚亭には、常駐の保安員は居ない。
カウンターの内側を覗き込むと、胸に短剣が刺さったまま絶命しているバーテンが見えた。左脚亭に屋号が変わってからの顔だが、それでもじゅうぶん古株のバーテンだ。元々、どこかの国で傭兵をしていたと聞いた気がするが、見事に正面から刺されている。争った跡はない。不意打ちだったのだろうか。それとも、見知った相手に刺されたのか。
もっと奥だ。
かつて、モーが店主を引きずり出したセーフルーム。セーフルームと呼ぶのは大げさな、地下収納のような狭い穴倉があるはずだった。それなりに頑丈で、人ひとりが隠れるには十分なスペース。それは奥の短いカウンターの中だ。
奥だ。
細い間口の店内である。
奥の突き当たりには手洗と、四人座ればいっぱいの短いカウンター、そして酒棚がある。
手洗いの扉に損傷の激しい死体たちが群がっていた。カウンターの内側にも、ごそごそと何かが蠢く音がしている。死体は入口を避けて奥に集まったのではないだろう。別の出口を探しているのでもなさそうだ。
おそらく、手洗いの奥に何かがあるのだ。
三人は顔を見合わせる。軽く首を振って、ハニカムウォーカーが片手をあげた。
細く長い口笛の音。
折り重なるようにして手洗の扉を掻いていたカリカリという音が止まった。
「お手洗い、誰か入ってるのかい」
いつもと変わらない調子の彼女の横で、ベティ・モーは低く構えた。一拍おいてフランチェスカも斜めに構えて刀の柄に手を置く。
「それとも、もう我慢できない?漏れそう?そういう時はわたしの生まれた国ではノックするんだ。引っ掻くんじゃない。ノックだ」
三人の方へ向き直った死体のひとり、背の高い冒険者の顎からぼたぼたと赤黒い血が垂れる。喉に大きな穴が開いていた。振り向いた時の拍子か、何か半固形のものが喉の穴から垂れて床に落ちた。
「なんだ、吐きそうだったのか。そうならそうと言ってくれれば…いや、言ってくれたからってなんかしてあげられたとは思わないけど、でも、そうだね。言ってくれればよかったのに」
ハニカムウォーカーの声が空虚に響く。不明瞭なゴボゴボした音が返事なのか威嚇なのか分からない音を返す。
「ねえ、チェッカ。これでも敵意の確認ってしなきゃダメっていうつもり?」
「基本的には」
「ひとりひとり丁寧に確認すんの?言いにくいけど、どう見ても全員死んでるでしょ」
「死んでいるかどうかではない。彼らの尊厳を尊重するかどうかの話だ」
「最終的にバラバラの挽肉にするかもしれないのに?」
「だからこそだ」
「あっ」
瞬間、二人の脇を抜け、弾丸のようにベティ・モーが背の高い冒険者の頬を全身のバネを使って殴った。
突風のような音がした。殴られた冒険者はまるで墜落する凧のように、ニ、三人の死体を巻き込みながら壁に激突する。顔から壁に突き刺さる、シンプルに派手な音がした。
「めんどくせえです」
振りぬいた拳の勢いのまま半回転したモーは、吹き飛ばした相手を追いかけるように壁の上、死体の脇腹に両足で着地した。ぐ、と力を込めて次の死体の前に飛び込む。三次元の機動。ベティ・モーは、壁や、人体、場合によっては天井も足場にして駆け回る。
寸隙もなく二人目の腹に正拳を叩き込み、勢いで下りてきた顎を打ち上げた。ばちん、という打撃音とは思えない音をさせて二人目の下顎が上顎にめり込む。とどめというよりは、障害物を退かすような蹴り。死体は砂袋のようにカウンター側に倒れた。
「依頼に基づく保安警備の一環なので、酔客の敵意確認は後でします」
返り血を袖で拭って、モーは二人を振り返った。その表情は相変わらず静かだったが、有無を言わせない強い意志に満ちていた。
「あと掃除屋さんには、これが終わったら営業再開できるように店内の後片付けをお願いしたいんですけど」
「いいよ。今、割と暇だから、掃除の部分から手伝っちゃう。これはサービス」
ハニカムウォーカーはフランチェスカの肩を叩いた。
「業務委託受けちゃった。しょうがないよね。これわたし悪くない」
フランチェスカは、別に寸劇をしろという意味じゃない、と首を振ったが、目線はずっと、奥の手洗いの扉に向けられている。
その少し硬い表情は、店外で感じたという「猛烈に嫌な感じ」の源がなんなのかを探っているようだ。
傍らでは壁に突き刺さった死体が、壁から頭を抜いた。下顎を喪った死体も立ち上がった。のろのろした動きではない。無駄のない、滑らかな動きだ。折り重なるように手洗いの扉を搔いていた死体は、その二体を含めて七つ。カウンターの中には二つ。それぞれに立ち上がり、お互いを邪魔しないようにか、距離をとってまるで三人を囲むようにじりじりと動いた。
観念したようにフランチェスカはため息をついた。
「手伝おう。この中には、私の探している死体は居ないようだ」
「好きなようにやっても構わないってこと?」
「メアリ、私は君の保護者じゃないし、君もいい大人だ」
「保護してよ。護衛でしょ」
「自分の行動に責任を持てるなら、何をしても」
「「構わない」」
二人の声が揃った。




