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ハニカムウォーカー、また夜を往く  作者: 高橋 白蔵主
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「好奇心が猫だけを殺す」(6)

後悔のような口調とは裏腹に、鋭い、暗闇から地を這うような瘴気が漂いだす。憎しみ、復讐、絶望。形を持った負の感情が、まるで倍速で伸びる蔦のように床を這う。

ハニカムウォーカーは、しかし、それほど深刻な様子ではなかった。

足を組んだまま前傾し、自分の腿に頬杖をついて暗闇の奥を見る。その目は少しだけ暗い。


「髪の毛を切った程度で、変わってしまったっていわれてもなあ」

「!」


息を飲む気配。同時に瘴気がゆっくりと薄れてゆく。まるで、風船が爆ぜたように感情の塊だけが圧を下げた。

それは完全に消えたわけではないが、もはや暗く張り詰めてはいない。不穏な空気はあるが、緊張と呼べるものの範疇だ。暗殺者は別に瘴気を制するつもりではなかったのか、つまらなそうな口調のままだ。


「別に慌てないでいい。完全に見えてるわけじゃないんだ。ただ、こちらもそういう仕事をしているからね。聞こえてくる音である程度の見当はつく。そんなモゾモゾ動いてばかりいたら尚更だ。髪の毛はいま、肩くらいまでかな。ずいぶん切ったみたいだね。綺麗なお団子だったのにもったいない。失恋かな。結んでもいないし、毛先もなんか荒れてるみたい」

「……驚いたな。本当に見えていないのか」

「これくらい、そんなに難しい技術じゃない。他にも幾つかはわかる。なんか棒みたいな、まあ剣かな、剣だろ、とにかくなんか長いものを抱えて座っているね。地べた。そっちの部屋には寝台はないの?あまり地面に直ってのはお勧めしない。お尻、冷えちゃうよ」


面白くなさそうに解説しながら、不意に言葉を切って暗殺者はため息をついた。


「敵意、ともちょっと違うんだよな。感じるのはさ」


今度は体を反らして、天井を仰ぐ。女騎士は喋らない。


「怯えて、不安がっている。そして、多分、何かを言って欲しがっている。撫でてほしいの?そりゃ、確かに以前の君らしくはない」

「…分かるのか」

「分かるよ。何度も斬りあった仲だ。そういうものだろ。わたしだって、以前と比べたら少しは変わったはずだ」

「また斬りあえば、もっと、分かるだろうか」


ほらきた、と天井を向いたままハニカムウォーカーは首を振った。


「本音を言うよ。今は特に、誰とも戦いたくない」

「……」

「相手が君だからとか、武器がないからとかじゃなくて、とにかくそういう気分じゃないんだ。今夜はちょっと疲れた。今夜…まだ夜だよね。昼まで寝てたのかな、わたしは。ここは窓がないから時間が分からないけどさ。でも…そうだね」


茫洋とした口調で、初めてハニカムウォーカーが言いよどんだ。ほんの少し、溜めてから体を起こす。


「単刀直入に言うよ。ほのめかしとか、匂わせたりするのはもうやめないか。もっと具体的に話そう。笑ったりはしないよ。何が君に起きたんだい。力になれるようなら力になる。できないことはできないけどさ」


逡巡。沈黙。


「ハッキリ言って、今のわたしは普段のキャパシティを越えるくらい色んな依頼を受けてしまっているんだけど、ここから出るのを手伝ってくれるなら少しくらいの残業、超過勤務、多重労働くらいはなんとかしようって気持ちはある。何より、君が苦しんでいて、秘密を打ち明けたいって言うなら半端な味方よりわたしくらいの距離の他人の方が都合がいいんじゃないかな。ちょうどいい距離間って、自分で言うなって話だけど」


闇の奥で再び女騎士が動いた。そろりと立ち上がり、そして部屋の境、壁の裂け目に向かう。ずる、と何かを引きずる音は恐らくはその剣の鞘だ。片刃の、少しだけ湾曲した鞘。一歩ごとに瘴気のようなものが薄れてゆく。


眩しそうに手をかざし、裂け目を潜ったフランチェスカは暗殺者の指摘通り、長かった髪をばっさりと切っていた。肩にかからない長さ。前髪は頬にかかっている。金色だった髪は今、左側半分だけが黒い。染めたのだろうか。

そしてその黒髪のかかる左側の眼には、紺の眼帯だ。残った一つの眼が、ハニカムウォーカーを見つめている。光を返さない、表情のない目であった。


「驚いたかい」

「……まあ、ある程度ね」


剣姫、フランチェスカ・ピンストライプは隻眼の剣士として姿を見せた。

以前から愛用していた銀色の軽鎧ではない。弓兵の使うような、半身だけを覆う奇妙な鎧の新しい色は、黒だ。差し色として、黄金と赤の曙光の刺繍が腰から胸に伸びている。

彼女の象徴でもあった、堅牢なる城門の籠手はその両手に鈍色に光っているが、印象はまるで違う。

以前、首元まできちんと釦を留めていた白い女騎士は今や、ゆったりした袖の、暗く闇に紛れるような剣士として暗殺者の前に立つ。


「失恋かな?」


片眉をあげてハニカムウォーカーが眼帯を指すと、意外にもフランチェスカは暗い笑顔を見せた。


「失恋でこうはならんだろう」

「どうしたの」

「一言で説明するのは難しい。ただ、私は変わってしまった。変えられてしまった」

「それは一体なんだい、さっきからその繰り返しだ。具体的に何なのかが全然見えてこない」

「信じられないだろうが…私の中に、他人の記憶が埋め込まれてしまった」


ひゅう、と息を吐く音。沈黙。肯定でも否定でもない。

女剣士は続ける。


「私の記憶と、見知らぬ他人の記憶、今の私の中には別々の人生が混じってしまっている。今の自分が過去の自分と本当に同じ人間なのか、もう自信がない。こちらの目は、見たことのない記憶が、亡霊のような幻覚が見えるようになったから、こうした」


フランチェスカはまるで痛みを思い出すように、そっと左目の眼帯を押さえる。


「それはひどく痛めつけられて死んだ女の記憶だ。彼女の記憶が、私を苛む。偽物じゃない。この記憶の主は確かに存在していたし、もう死んだ。だが、私の中にはもう一人の私としてまだ、生きている。死ぬ寸前のまま、私の中に生きている。どこまでが私の記憶で、どこまでが彼女の、私の記憶なのか自信がない」

「チェッカ」

「記憶が同じなら、同じ人間なのかと聞いたな。では、私の肉体に宿るこの記憶の主は、私は、果たして死んでいるのか。それとも、まだ生きているのか」


左目を押さえたまま、残った眼が痛々しい。ハニカムウォーカーの顔を見つめてはいるが、本当に彼女を見ているのだろうか。


「剣を振るにも、勝手が変わってしまった。時々私の意志と関係なく体が竦む。その時によって、片手がうまく動かないことがある」


ふう、と割り込むように暗殺者が大きく息を吐いた。空気がまた少し変わる。


「でも、それでも戦えるようにもう一度鍛錬したんだろ」

「……まあな」

「チェッカ。君のそういうとこ、わたしは嫌いじゃない」


まるで半身が不自由なような口ぶりだったが、その立ち姿の圧は以前と同じ強者のそれだ。剣を腰に刷かずに持っているのはもしかしたらどちらの腕でも抜けるにようにかもしれない。柄に手をかけてはいないが、その剣の間合いはまるで物理的な壁のように、その間合いの範囲の空気を支配している。

すっと立ち上がったハニカムウォーカーは無造作に彼女のその間合いの中に踏み込んだ。


「そら、斬りたくなったかい」


まるで囁くような声。それで十分聞こえる、抱き合うような距離。

親しげに、頬をつけるようにしてハニカムウォーカーは薄く笑った。

フランチェスカは動けなかった。

間合いの内側すぎて反応できなかったのとも違う。敵意も何もない、暗殺者はまるでそうするのが当たり前のように致死の間合いに入った。私は相手が丸腰だったから油断したのか。違う。もっと異次元の何かだ。フランチェスカは残る目をつぶった。


「君はわたしを斬らないよ。君は昔の君と同じだ。わたしが保証するよ」


悪戯っぽく笑って、暗殺者は身体を離した。


「それより約束だ。わたしが君の存在を保証する。君はわたしの質問に答える。そういう約束だったね」

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