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ハニカムウォーカー、また夜を往く  作者: 高橋 白蔵主
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「好奇心が猫だけを殺す」(5)

長い沈黙。


「その話の前に、少し別の話をしてもいいか」


何度か躊躇い、女騎士はようやく声を出した。困惑が漂っている。ハニカムウォーカーは軽く目を瞑り、黙って続きを促した。


「ありがとう。必ず、後でそちらの質問には答えるよ、メアリ」

「こちらこそ。今のわたしは、自分の疑問より君の話を聞きたい気分になってきた。嘘じゃないよ」

「突飛な話なんだが、貴女は、魂、というものの存在を信じるだろうか」


フランチェスカの声は、慎重に言葉を選び、決してふざけている調子ではない。暗殺者は、話が長くなりそうだと判断したのか、再び寝台に腰を下ろし、ゆったりと足を組んだ。


「定義によるけど、わたしは概ね、“信じない”という立場だね」

「私もだ」


ぽつりと彼女は付け足す。

“私も、だった”。

それを聞いて暗殺者は膝を立てる。


「どうしたんだい。なんか神秘的な体験でもしたのかい。騎士様はよく回心というやつを経験するとか聞くけど」

「神秘的な体験…と呼べるものではない。もっと、おぞましく、なるべくなら思い出したくもないような、それは」

「それは、その怪我の原因と関係があるのかな」

「……」


フランチェスカはまた、長く黙る。ハニカムウォーカーは両手を大きく振った。


「ごめんごめん、よほど触れられたくないみたいだね。謝るよ。もう怪我の話はしない。そっちが話す気になるまでもう何も言わないよ」

「いや、そうじゃない。なんと言ったらいいものか、分からないんだ」

「何が」

「以前の私と、今の私が、本当に同じ存在なのかどうかということについて」

「すごい哲学的な話になってきたな」


なんの色もついていない、囁くようなつぶやき声。聞こえなかったのか、闇の中で何かが蠢いた。姿勢を変えたらしい。


「脳、という器官がある。ほとんどの生物の頭蓋の中にある、薄桃色の、弱い器官だ」

「あるね」

「脳に損傷を与えると大抵、人は死ぬ。それは分かっている。死なないまでも、人間らしい機能が大きく損なわれる」


フランチェスカは慎重に言葉を選んでいるようだったが、少しずつ、その声には熱が帯び始めている。


「特に記憶は、脳にこそ宿るとされている。記憶だ。メアリ。書き付けのように、私たちが見聞きしたものは、私たちには読めない文字に変換されて、この脳の中にしまい込まれるのだという」


低い咳払い。


「では、その記憶を全て、消されてしまったら人はどうなるんだろう」

「それは、わたしの見解を聞いてるのかい」

「そうだ」

「程度によるというのが正しい答えだろうけど、完全に何もかも、それこそ口癖だとか、性格を形作るきっかけになった思い出とか、そういったものも全て消されてしまったとしたら、それは別の人間ということになるんじゃないかな」

「そうか」

「もっとも、どんな言い回しを好むとか、どうやって言葉を覚えていったかとか、人間の記憶はエピソードと切り離せない。言葉も、生活習慣も、剣の振り方とかボタンの留め方、そういうものを含めて全て剥ぎ取ってしまうレベルでなければ『全て消される』というのはちょっと現実的じゃないと、わたしは思うよ」


ハニカムウォーカーはすらすらと喋ってから、考えるような顔になった。女騎士は、一体なんの話をしているのか。


「私はさっき、魂というものを信じるかと聞いた。魂があるという考え方は、この脳というものが記録媒体だという考え方と、とても相性が悪い」

「肉体を抜け出して彷徨う魂というものがあるとしたら、一体そいつは『どこ』に記憶を保持しているのだろうか、ということだね」

「そうだ。脳のある身体から、細く長く、見えない索のようなものを伸ばしているという考え方ならぎりぎり矛盾はしない。魔術を嗜む連中は、なんだか自由なことを言うが、概ねこの考え方の範疇のようだ」

「精神体というのは、目に見えないからなんとも言えないね。わたしも魔法の素養はあんまりない」


また、フランチェスカはしばらく黙る。


「なんだい。らしくないな、チェッカ。怖がってる匂いがするぞ。まさか、オバケが怖いって話かい?」

「……死霊術というものを、聞いたことがあるか」


振り絞るように女騎士は答えた。暗殺者は足を組み替えて息を吐く。


「まあ、そりゃ、こういう仕事をしてるからね」

「あるのか」

「死体を操る連中なら時折出くわす。死人を蘇らせる連中はまだ噂だけ。実物は見たことがない」

「私は」


女騎士はまた、言いかけて止める。暗闇に奇妙な緊張が満ちる。


「私の、声を、聞き間違えないと言ったな」

「言ったよ」

「では、声が全く同じなら、それは私ということか。同じ声をして、貴女が覚えている過去の出来事を誦じられたらそれは私という条件を満たすか。私の心臓が、もはや動いていなかったとしても」

「なんだい、変なことを言う」

「私は、変わってしまった」


ため息。深く、後悔のようなため息。

ずるり、と何かを引きずるような音。

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