「好奇心が猫だけを殺す」(3)
同じ頃。
メアリ・ハニカムウォーカーが目覚めたのは、墓所のような牢獄だった。墓所のような、というのは少し過ぎた表現かもしれない。地下ではあるのだろうが適度に明るく清潔で、そこに死の臭いはない。墓所と似ているのは、そのぞっとするまでの静けさと、流れない空気の埃くささだ。
酒乱エルフとの、屋敷での争い。プラムプラムを庇って魔酒の弾丸を無数に撃ち込まれ、彼女の意識は一度、完全に途切れた。
完全なる敗北と言ってもよかったが、まだ命が残っている。二度と目覚めなくなることがなければ、それはまだ巻き返すチャンスがあるということだ。
彼女は不意に目を覚ましたが、目を開かない。用心しているのだ。周囲に人の気配がある。人数はわからないが、とにかく誰かが彼女を、視ている。
目を瞑ったまましばらく時間をかけて、彼女は自分の状態を確認する。着衣をどうにかされた形跡はないが、最低限の傷の手当と身体検査はされたようだ。仕込んだナイフだけでなくメイド服に縫い込んであった工具までもがなくなっている。
身体の拘束はなさそうで、しかし、痺れ薬の影響はまだ続いているようだった。
寝台に寝かされているのか、別の何かか。彼女が横たわっているのは、とにかく布地の上だ。少なくとも拷問台ではなさそうだった。体温の奪われ方からして、地べたではない。横たわった感触は決して悪くはない。
と、なると、ここはリィンお嬢様の屋敷の地下にあるという噂の、私設拷問部屋ではなさそうだと彼女は考える。自分が殺されておらず、そして周囲にプラムプラムの気配もないとすれば、放り込まれた場所がどこなのかという可能性はだいぶ絞られてくる。誰だか分からない監視者は、自分と同じく身じろぎする気配すらない。
このまま寝たふりをしていても、得られるものはなさそうだった。
まるで、たった今目覚めたように彼女は声を上げる。
「う……ん」
身体を伸ばし、目を擦って身体を起こすと、感じていた視線の元がわかった。左手にまだ、少し痺れが残る。
部屋自体は、独房なのだろう。寝かされていた簡素なベッド、洗面台。部屋の隅の、衝立の裏にはおそらく便所があるのだろう。入り口の扉は見るからに堅固で、破壊しようという気すら起きそうにない。そして部屋の中のどこにも、人の気配はない。
部屋の中に気配はなかったが、どこから視られているのかはすぐにわかった。
視線は、「穴」の奥から彼女を観察していた。
穴というよりも正確には、「裂け目」である。奇妙なことに、独房の入り口から見て左の壁の中央が大きく崩れている。人が一人、通り抜けられるくらいに大きな穴だ。これでは「独房」とは呼べない。見る限り、その奥は暗い。目が慣れないがその暗がりに、誰かが居る。
ここがどこか、確定させるには情報が足りなかったが、おそらくは龍の宮廷の、地下牢獄だ。
もし彼女の推論通りだとすれば、そのどこかには昨晩別れたグラスホーンが収監されているはずだった。そして、ここが本当に地下牢獄だとすれば、裂け目の奥は出口なんかではなく、「隣の房」でしかないはずだ。外に通じているはずがない。幾らなんでもこんな大きな、それこそ文字通りのセキュリティホールを残したまま人を収監するはずがない。もっとも、隣の房への穴だとしてもそんな穴を残しておく慣習も聞いたことはなかった。
「初めて牢屋というものに入ったけど、わたしの見たことのある“サイテーの部屋”を更新するほどじゃないね。思ってたよりも全然綺麗だ」
朗らかに、ハニカムウォーカーは天井を見た。独り言にも聞こえるし、自分を視ている相手に語りかけているようにも聞こえる。
「壁のど真ん中にヘンテコな穴がぶち開けられていること以外は、ちょっとしたアパートと比べてもいい線行くんじゃないかな。さすが龍の国だ。声の反響具合から察するに、ここは地下かな?窓がないから空が見えなくて、隣人がどんな人なのか分からないのはちょっとしたストレスになりそうだけどさ。そこにさえ目を瞑れば、ここに住みたいって人も出てくるんじゃないかな」
話しながら、徐々に裂け目に顔を向ける。最後は、明らかに穴の奥に語りかける調子だった。
「わたしたち、仲良くやれるかな。仲良くできそうだといいな」
返事を待っていると、低い咳払いが聞こえた。
「40秒」
「ん?」
「貴女が、目を覚ましてから動き出すまで、寝たふりをしていた時間だ。私は観察し、数えていた」
若い女性の声だった。
あまり友好的な声ではない。押し殺したような、不機嫌そうな声だ。
肩をすくめて、ハニカムウォーカーは座り直す。40秒、という時間は概ね彼女が自覚していたのと同じ時間だ。彼女もまた、相手がどうやって自分を観察しているのかを「観察」していた。お互い、なかなかの精度ということになる。
そこには得体の知れない気味悪さがあったが、気にしていない風に彼女は続ける。
「ごめんね、なかなか起きられなくてさ。別に極端な夜型ってわけじゃないんだけど、このところずっと夜続きだから二度寝が癖になってるんだ。そっちは?」
「私のことはいい」
「そういうわけにもいかないだろ。お互い、すぐにでも退屈で死にそうになるに決まってる。牢獄の夜は長いと聞くよ。もうガールという歳でもないけど、恋の話とかさ、お喋りするにはお互いのことを知って、仲良くしておいたほうがあらゆる意味でお得だ。何なら親睦を深めるためにしりとりでもするかい?わたしはメアリ。メアリ・ハニカムウォーカーだ。ああ、もうすでにご存知かな」
無言の肯定。
「そりゃそうだよね。こんなバカみたいな穴が空いてるんじゃ、実質、シェアハウスみたいなものだ。先にぶち込まれてたにしろ、たまたま同時に放り込まれたにしろ、ルームメイトの名前くらいはそれぞれに教えておくのが自然だ。貴女がわたしの名前を既に知っていてもなんの不思議もない」
ハニカムウォーカーはベットの上にあぐらをかいた。
「でもおかしいな、だとするとわたしにも事前に貴女の名前を教えてくれたっていいようなものだ。どこかに手紙が…おっ、あった。どれどれ」
芝居かかった仕草。彼女は枕元を漁って何かの紙片を取り出した。穴の奥では、少しだけ動揺した気配。
「そんな」
「“そんなはずはない”?」
含み笑いをしてハニカムウォーカーは手元で紙片を広げる。
「でも、ちゃんとここに書いてある。ほら。こっち来て読んでみる?」
「……嘘だ、芝居だ」
「芝居なもんか」
ンフフ、と彼女は壁の穴に顔を向けた。まるで暗闇をすっかり見通しているような目。
ハニカムウォーカーは真顔になった。
「ねえ、フランチェスカ・ピンストライプ。わたしたちは確か、以前に一度、どこかで会ったことがあったっけね」




