「悪」(14)
シジマの悲鳴が耳を刺す。彼は体を起こした。
元々声の出せない体だったが、それでも彼は絶句した。悪夢のような光景だった。
「フランチェスカさん!!お願い!起きて!」
シジマの背中には斜めに切り裂かれた傷が走り、フランチェスカは倒れている。彼女は動かない。部屋の中はめちゃくちゃだ。何の魔法の跡か分からないが、燃え滓のようなものが幾つか、燻りながらまだ何かの痕跡を残している。
そして、ムル喰い。
八本脚の獣にはフランチェスカがとどめをさしたはずだった。なのに、どうして今、ムル喰いが暴れているのか。
自分が最後の記憶と状況が何一つ合致しなかった。彼の脳は混乱している。
記憶?
痛み?
彼は自分の掌を見る。
己の名前はラーフラ。
アスタミラ・チェイニーではない。チェイニー?誰だ?あそこにいるのはシジマ。そうだ。彼と、フランチェスカの護衛対象だ。
「ラーフラさん!!」
再びのシジマの悲鳴。目の端に映る隠し扉。
彼はようやく現実を取り戻した。全て己のせいだ。思い出した。
己の能力。彼の脳を通り過ぎていったおぞましい記憶。悪意の結晶。脳内で共鳴したそれは、圧倒的な暴力として、彼の生存本能を揺さぶり、テレパス能力の新しい扉を無理やりこじ開けた。
読み取ったすさまじい苦痛を受け止めきれなかった彼の脳は、それを放射することで、圧倒的な質量の苦痛から何とか逃れようとした。彼のそれは、追い詰められて念話による「伝達」という能力を超えた。
記憶や体験を引きずり出し、そして共鳴する能力。直感的に彼は、自分の能力の覚醒を知る。ただ読むだけだった器物に宿る記憶を、今や彼は「使える」ようになっている。
しかし、果たして彼の脳はそれを扱い切れるのか。
彼の傷ついた脳は記憶を、思考を振り絞る。
血塗れのムル喰いの前にシジマが立ちはだかっている。
後姿で判るくらいに息が上がっている。限界が近いのは明らかだった。彼女は六角杖を構え、ムル喰いとフランチェスカの間に立つ。フランチェスカを守りながら彼女は戦っている。
獣の八本脚が断続的に左右から繰り出され、それをシジマは杖でいなす。突き、払う。バチィッという激しい音が時折響いた。
獣の腕を突く六角杖の先端が、インパクトの瞬間に雷鳴のように発光していた。夢の中で聞いていた音だ。一度、二度突いて、三度目に雷鳴。一度、二度、三度目が光らない。エネルギーが尽きかけているのだ。
(シジマちゃん!)
ラーフラは立ち上がった。びく、とシジマは一瞬身を竦ませ、そのせいで獣の腕を受け損なって飛び退いた。
「ラーフラさん!」
シジマの声に安堵が見えたが、獣から距離を置くとむしろ不利になるのが見てとれた。獣は血まみれの腕を高く掲げて、体勢を立て直す。よく見るとシジマの肩口にも血がついている。何度か、受け損なった攻撃があるようだった。
(ムル喰い、とどめを刺したはずだった)
「死霊術なの、ごめんなさい、私が黙っていたせいで」
少ない言葉で、状況の一端が判った。彼の放射した苦痛と絶望が、おそらくフランチェスカの意識を奪ってしまった。シジマはそれに耐え抜いたのか。そして、経緯はわからないが、立ちはだかるのは死霊術で操られた獣だ。動物を操るネクロマンシーというのは聞いたことはなかったが、いまは疑っている場合ではない。
(ぼくはどうしたらいい)
「逃げて!フランチェスカさんを連れて、とにかく外に!」
(バカいうな)
ラーフラは駆け出し、シジマの背後に倒れたままのフランチェスカを抱き起こして揺さぶる。
(フランカ、起きろ、起きろったら)
ムル喰いは攻撃体勢のまま、様子を窺っている。
(ぼくがしくじった、ごめんよ、でも君の出番なんだ、なあ、フランカ、頼むよ)
ラーフラは彼女を揺さぶる。華奢なシルエットからは想像できないくらいに彼女は重い。その血で汚れた頬に、頸にラーフラの指が触れる。
(!!)
流れ込んできたのは、生者の記憶だ。アスタミラ・チェイニーのそれではない。もっと濃密で、現在を生きているフランチェスカ・ピンストライプの記憶だ。
動揺して彼は手を離す。がくん、とフランチェスカの首が垂れた。
彼のサイコメトリー能力もまた、テレパス能力と同じく新しい領域に到達していた。刻まれた情報を無生物だけでなく、生物からも読み取れるようになってしまうなんて。
そして、おそらくは夢を見ている彼女の記憶を、さっき彼は覗いた。罪悪感と、途方もない無力感が彼を包む。しかし、やらなければならない。
(フランカ!)
ラーフラは意を決してもう一度フランチェスカに触れる。流れ込む記憶。揺すぶる。知らない男の顔。剣戟。フランチェスカは答えない。
ムル喰いもまた、動かない。
「……ラーフラ…さん…?」
彼を背に、杖を構えたままのシジマの声に小さな疑念が生まれた。
ラーフラが目を覚ました途端に、念話が途絶えた。それまで、ムル喰いを操りながら執拗に彼女の精神を削っていた死霊術師の念話が途絶えた。そして、時を同じくしてムル喰いも攻撃の手を止めた。
念話能力というのは、そもそもがレアリティの高い能力ではある。シジマは幾つもの国を旅してきたが、龍の国に来るまで、念話能力者と会ったのはたった一度だけだ。念話を受け取るのは比較的誰にでもできるが、送ることは誰にでも使える能力ではない。
死霊術、念話能力、それらは相性の良い能力ではある。見えないものを繋ぐ業。空間を飛び越える能力。過去にシジマが唯一出会った念話能力者は、死霊術師でもあった。
もし、ラーフラが死霊術師そのひとであったとしたら。
芽生えた疑念が、シジマの構えをゆっくりと下げさせた。ムル喰いは動かない。
(フランカ、なあ、フランカ!)
出発前にラーフラは言っていた。
念話にはある程度の指向性を持たせることができる。ウィスパー。事実、彼はフランチェスカにだけ伝える念話チャンネルを持っていた。
仮に今、必死で呼びかけているように聞こえるその念話が、フランチェスカではなく、シジマにだけ向けられた声だったとしても、彼女にはそれを看破する術はない。
「ラーフラさん…?」
恐るべき疑念に取りつかれたシジマは、思わず背後に居るはずのラーフラに向き直った。致命的な隙だった。刹那、構えていたムル喰いの前腕が振り抜かれ、シジマは回転しながら倒れた。




