「悪」(13)
ラーフラ・ダンバーズは己を呼ぶ声では目覚めなかった。
彼の意識は暗い淵の中にあった。苦痛、孤独、寒さ、そうしたものは彼の最も親しいものだった。世界は“そういうものだ”と彼は思っていた。それにしても味わったことのない感情だった。苦痛の桁も違った。しかし、彼は世界とは“そういうものだ”と思っていた。
彼?
違う。これはわたしの物語。わたしは、どんな悪いことをしたというの?わたしは2時間前のわたしを思い起こす。
普通に生きて、普通に恋をして、普通に家庭を持って生きていくはずだったわたし。龍の国で、良人を見つけて、そして子を為して、増えていくはずだったわたし。かわいそうな、わたし。
ラーフラ・ダンバーズは他人の人生に口を出さない。己の人生についても口を出さない。語るだけの言葉を彼は持っていなかった。
世界は、“そういうものだ”と思っていても彼はそれを告げない。己の声を彼は聞いたことがない。だってそうだ。初めから、己には声などないのだから。
起きてしまったことは悲しく、つらく、やりきれないことだが、己にはもうどうしようもない。
己?
違う。わたし。これはわたしの話だ。わたしは、何も悪くなかった。おいしい食事をご馳走するって言われたから。きみの声が素敵だって、言ってくれたから。他のみんなが、あの人はいい人だって言うし、わたしも同じように思ったから。何より、きっと安全だって思ったから。だって、それは。
唐突な殴打。床に倒れた彼女の、捻りあげられた腕。一番最初に折られたのは左手の小指だった。
誰かの呼ぶ声がする。自分を呼ぶ声ではない。
誰か知らない名前を呼ぶ、聞いたことのない知らない声だ。
ラーフラは自分の名前の意味をずっと考えていた。『悪魔』。その音が意味するものを、初めに教えてくれたのは誰だったか。その時相手がどんな顔をしていたか。彼はもう忘れてしまった。龍の国にくる前に触れた人々は少ない。
ばち、ばちっ、と硬いものを弾くような音が断続的に響いている。
ラーフラはその音をどこかで聞いたことがある。それは、彼が山にあった頃か。骨に響く、嫌な音だ。骨に。響く。
そうだ。
ラーフラ・ダンバーズはゆっくりと思い出す。
それは、骨を噛み砕く音だ。まだ水分の残る骨を獣が噛み砕く時、その音はまるで何かを叩くような音になった。いつだったか、母代わりの狼は、その音を立てて野の獣の脊髄を噛み砕いた。
狼?
違う。わたしは、町に生まれて、学校にも行った。魔法の才能があるって褒めてもらったこともある。他の子と違うとは、ずっと思っていた。龍がわたしを認めてくれた。仲間がここにはいる。手を取って迎えてくれたあの人は。
悲鳴のように、名前を呼ぶ声がする。
「……スカさ…!…………て!」
彼の名前ではない。彼に用事があるのではない。不思議と、もう痛くなかった。夢を見ていたのだ。他人の夢を見ていた。
とても他人事とは思えない、とてもつらく悲しい夢を見ていた。何度も名を呼ばれ、その度にこれが夢ではないと思い知らされる。彼女の名前を呼ぶ妹の悲鳴。ラーフラ。悪魔。おまえさえいなければ。
誰かの悲鳴がうるさい。
わたしの名前は、そんな名前ではない。ラーフラ。知らない。知っている。チェイニー。ここへ何をしに来たの。何を期待していたの。ねえ、アスタミラ。与えてもらうだけの女。ならばわたしが、お前に、与えてやろうじゃないか。
宝石でも、名誉でもない。
もう少しありふれていて、それでいて特別なものでもって、たっぷりとデコレーションした死というものを。
「……フランチェスカさん!……助けて!!」
目覚めたラーフラの耳に届く悲鳴は、相棒を呼ぶ悲鳴だった。




