「悪」(10)
フランチェスカが前のめりに倒れ、ぞっとするような静けさが訪れた。誰も動くもののない密室である。
ムル食いの死骸から流れ出た血だまりも乾き始めている。
隠し扉の横では引き剥がされたラーフラが棚にもたれかかるように倒れている。かすかに呼吸はしているようだったが、意識の戻る様子はない。すぐに失神したシジマもうつ伏せに倒れたままだ。痩せた男も、もう動かない。
倒れている四人の中心で、魔力でつなぎ合わされた哀れな女の死骸が立ち尽くしている。その虚ろな眼窩は何も映してはいない。残った瞳にも光はない。ただ、倒れ伏したフランチェスカの背中に向けられている。
(ピンストライプの末娘。もう少し……強靭だと思ったが、見込み違いだったかな)
聞くもののない念話が、静かに漏れていた。
(なるべくなら生かしたまま使いたかったが、こうなったら殺しておいたほうが"使える"かもしれないな)
動く死骸が、己の頬を切り裂いた剣を拾った。その右手は、凄惨な拷問の跡が残る他の部分と比べ、驚くほど綺麗だ。肘から先だけが傷もなく、美しい。彼女に拷問をくわえる際にも右手だけは残されていた。無事の部分を残すことで、他の部位を破壊される恐怖が増した。昨日までの日常と接続されたままの右腕。他のあらゆる部分をゆっくりと破壊されながら、彼女はどんな気持ちでその右手を見ていたのか。
フランチェスカは、ラーフラは、それを体験している。
それは、紛うことなき死霊術であった。
悪意ある声の主は彼女を切り刻み、辱めて殺した後、人形として使役している。死霊術師が右腕を残したもう一つの理由は、こうして死体を再利用して動かす際に、無事な部分がある方がマニュピレーターとして単純に便利という理由だった。
一般に死霊術とは、死体を材料にした自動人形技術としてのアプローチか、不死族のエッセンスを利用した擬似不死であるとされている。
前者は傀儡術に近いものであり、後者は生きている者をゾンビ化させるようなもので、むしろ毒魔法に近い。
いずれにせよ死霊術が忌み嫌われているのは、その冒涜性だけではなく、その利用法が「争い」に特化しすぎているからだ。死なない兵、尊厳の破壊、おぞましい疫病。死体を操って、あるいは死体を増やして行われることは、摂理が許すものではない。
ずたずたになった肉体とまるでちぐはぐな、青ざめた美しい女の腕が剣を取る。
死体は感慨もなくフランチェスカの傍に立ち、刃を下にした剣に体重を乗せてそのまま下げてゆく。目測を誤ったのか、手先以外の部位の損傷が激し過ぎるせいか。おそらくは頸筋を狙った剣先は、外れて女騎士の肩口に、ずぶ、と刺さった。刺さりはしたが軽鎧で止まったようで、深手にはならない。微かな呻き声が漏れる。
かさ、と音が鳴った。
見ると、杖を頼りにシジマがよろよろと立ち上がっていた。気絶している時に流した鼻血が、頬を汚している。その短髪と、気の強そうな目が死体の背中を睨んだ。
(おや。お姫様、ゆっくりしたお目覚めで)
嘲笑を隠さない念話である。死体はフランチェスカから剣を抜き、シジマに向き直った。酷い暴力の跡を残した女の顔を見て、シジマも息を飲んだようだった。僅かな時間ではあったが、彼女も拷問の記憶に曝露されている。それが、その記憶の主の顔であることは認識できた。気絶している間も深く精神に刻み付けられた恐怖が、反射的に身体を竦ませるが、首を振ってそれを振り払う。
「なんてことを」
シジマは息だけで呟き、そして目をつぶった。
(よそ者の、それもアプレンティス風情がこんなに早く起きてくるとは思わなかった。本当に見直したよ。それともローブの丈が足りないだけで、思ったよりも高位だったりするのかな?)
念話はねっとりと挑発する。
彼女は目を瞑ったまま二度、大きく息を吐き、そして何度か爪先を地面に打ち付けた。
「お陰様で貯めてた徳をだいぶ使っちゃったけど、もう大丈夫。戦えます」
彼女は軽やかに六角杖を構えて腰を落とした。
「やっぱり“お前”だったのね」
(まるで僕を知っているような口ぶりだ。どこかでお会いしたことがあったかな)
「いえ、会ったことはないと思いますよ。死霊術師と会ったら必ず殺すことにしてますし」
(殺す!へえ!君、青小鳩の信徒じゃないのかい。…フフフ。穏やかじゃない)
「そうなんです。お陰でどれだけ稼いでも徳がすぐ減る」
シジマの瞳は強く、目の前の動く死体を見つめている。
そう。死霊術なのだ。死体を操って動かせるのは、ネクロマンシーに他ならないのだ。
シジマの中で、ぼんやりした疑惑だったものが確信に変わった。部屋の中に死霊術を想起させるものは何もなかった。だが、そこに感じていたどんよりと感じた邪悪。死霊術師であれば、その正体が誰であれ彼女の敵である。
死霊術は系統立てた学問として確立されているわけではない。特に、死んだ肉体に別の魂を定着させようという試みはほとんどが失敗の、伝説の類だ。死んだ魂を、別の生きた肉体に閉じ込めようとするものも同じだった。喋る死体というのは、聞いたことがない。
だから彼女自身も理解している。
目の前の死体は、死霊術師本人ではない。これはただの死骸。死んだ後まで弄ばれて、尊厳を踏みにじられているだけの、ひとの死骸だ。死霊術師は、どこか遠くから彼女の亡骸を操っている。
しかし、これは初めてのケースだった。死体の口を通じて、死霊術師が直接語りかけてくるなんて。
「いずれにせよ、死霊術師は見つけたら全員殺します。これは、もう決めたことですから」
(じゃあ、どうするかな。……悪いが、こちらも抵抗させてもらう。それとも、罪もないこの可哀想なチェイニーをもう一度バラバラにしてから、僕を探しにくるかい)
ゆら、と死体が片手で剣を担いだ。
逆の手に満足な指が残っていない以上、必然の構えであった。




