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ハニカムウォーカー、また夜を往く  作者: 高橋 白蔵主
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「悪」(9)

人影は、未だ解像度が低いままだ。

ノイズの混じるフードを被り、そして妖しく彼女の脳内に語りかけている。


(君が、わざわざ赤襟に身を寄せた理由は知っているよ)


女騎士は柄を強く強く握りしめた。

目の前の人影までまだふた間合い。確実に斬るには遠い。

念話はフランチェスカの脳をゆっくりと浸食してくる。耳を塞ごうとしても、塞ぐべき器官が見つからない。それは、まるで自分自身が考えているように、体験したことのように、記憶と現実と情報の境目を侵食しながら脳内に流れ込んでくる。さっきまでの間断ない拷問の記憶のせいで所々穴の開いたような彼女の心を、まるでそっと埋めるような声だ。

拷問の痛みが、記憶の奔流が、まるで上書きされるように消えたようだ。それだけですでに彼女は奇妙な安堵の中にいる。もう二度と追体験したくない苦痛から、ようやく解放されたような感覚の中にいる。それをもたらしてくれたのが、相対する人物であるような錯覚さえもあった。

しかし、違う。

目の前の人物が全ての元凶なのだ。今の告白を思い出せ。彼女は唇を噛む。ラーフラを罠にかけるために、その痛みを記録した罠を作るためだけに無関係の人間を拷問したという、邪悪な告白を忘れるな。

悪。それは彼女が体験したことのない邪悪だった。


全てを振り払うように彼女は強く首を振った。


「私が赤襟に居る理由?……いい加減なことを言うな」

(嘘じゃない。その理由を聞いて、僕だって同情している。赤襟の男たちは、君の事情を知らぬはずのものだって、残らず君に優しかっただろう?僕だけじゃない。皆、知っているんだよ)


一瞬、フランチェスカの身体が硬直する。挑発だ。乗ってはいけない。


「うるさい。黙れ」

(僕は君の、その過ごし方を責めたりはしない。傷を癒す為には仕方ないことだと思うよ。女性なら尚更だ。だが、いい加減そろそろ立ち上がる時期じゃあないのかね)


フランチェスカは二の腕の布地で鼻血を拭った。頬に赤黒い跡が伸びる。


「関係ない。私は今、私の仕事をするだけだ。お前はここで殺す」

(…仕事!……仕事、ねえ)


念話が一瞬だけ彼女を嘲る調子になった。


(そこでだらしなく寝てる旅行者の護衛なんかが、君の仕事だっていうのか。龍なんかに仕える赤襟の、更にその下請けじゃないか。栄誉ある騎士様が、つまらない仕事だ)

「うるさい」

(ピンストライプの一族を、兄上を、見返してやりたいとは思わないのかね)

「黙れッ!!」


ラーフラから放射された凄絶な苦痛に耐え、自己と、他人の記憶との境目がつかなくなる寸前まで追い込まれながらも踏みとどまったフランチェスカの感情が、自身の兄に言及された瞬間に噴火した。


「死ねッ!」


叫びながら一足の間合いを踏み出し、横薙ぎに払う。感情に任せた荒い剣閃であった。

やはり間合いが遠い。人影は余裕を持ってそれを躱す。フランチェスカは荒い息を吐いて、もう一度構え直した。その目には殺意だけがある。


(やはり、まだ、ちっとも克服していないんじゃないか)


念話が一段トーンを落とした。


(人には皆、急所というものがある。なあ、下がらずのフランチェスカ。君の秘密を知っているものを全員殺したら、君の傷は癒えるのかな?)

「黙らないようなら、すぐに殺してやる」

(いいや、いや。そうじゃないだろう)


怒りに囚われた彼女の意識は、元々の精神攻撃のダメージのせいもあって混濁し始めていた。騎士たれという彼女の精神の鎧はいつのまにか剥がされ、弱い部分が剥き出しになっている。


(フランチェスカ、ああ、かわいそうなチェスカ。実の兄に犯されそうになって実家を出奔したと聞いたが、その様子だと噂話は真実らしいな)


かわいそうなチェスカ。その言い回しを聞いてフランチェスカの顔から表情が消えた。


(いいや、いや)


この念話の声には聞き覚えがあった。この特徴的な否定するときの口癖。


(その反応を見ると、もしかしたら“未遂だった”という部分が嘘だった、ということも、ありうるのかな?)


その言い回しは、彼女の兄のものだった。


執拗な念話が、ついに彼女の精神を決壊させた。念話による「声」は、聞き手の中で如何様にも変換される。ニュアンス、イメージ、記憶の中で結びついたものに紐づけられて、記憶を侵食する。念話は実際の口調を再現するわけではない。

彼女の精神はその挑発と、際限なく繰り返される拷問の強い記憶によって混濁し、ドアノブをくわえさせられた女の自我と一時的に入り混じっている。

念話の声は「彼女の兄」ではない。あやふやだった声が、不意に記憶の中から掘り起こされた兄の声の記憶とリンクし、勝手に彼女の中で焦点を結んだだけだ。しかし、彼女の傷ついた精神はそれを認識できない。


決壊した彼女にはもう、区別がつかない。


「ウワアアアアア!!」


フランチェスカは闇雲に剣を振り回し、届かないと見るや、逆手に構えた剣を人影に投げた。投擲された剣は直線軌道で人影のフードを捉えた。避けようとしない。確かな手応えがあり、そしてフードが解けた。


解像度の低い人影の、被っていたフードが解けたその下の貌。


頬をざっくりと切り裂かれたその顔は、他ならぬ彼女自身の顔だった。たった今彼女の剣がつけた傷だけではない。腫れ上がり、痣と傷だらけで、髪もまだらに抜かれている。眼窩も片方が暗い穴になっている。濁った眼の、げっそりとやつれた死人の顔だ。


「あ、ああ、あ」


フランチェスカは頬を押さえ、膝をついた。


「あああああ…あああ…!」


正確にはそれは、彼女、フランチェスカ・ピンストライプの顔ではなかった。彼女がついさっきまで浴び続けた記憶の主。苛烈な拷問を受け続けたアスタミラ・チェイニーの顔だった。

妹を案じ、左腕をムル喰いに噛み砕かれ、突き刺され、焼かれ、何度も何度も間際の死を、痛みを体験した「わたし」の顔だった。

しかし今の混濁したフランチェスカにはもう、彼女と自分の区別がついていない。無理もないことだった。それほどにも苦痛の記憶の放射は強烈で、そして濃密すぎた。


(かわいそうなチェスカ、かわいそうなチェイニー)


念話の声が歪む。念話の主は、彼女の弱点をついに探り当てた。彼女の心は、ズタズタにされた可哀相なアスタミラ・チェイニーと、ついに同化してしまっている。弱く、耐えるしかなかったかわいそうなチェイニー。耐え切れなかった、怯えて泣くことしか出来なかったチェイニー。


(もう少し、試練を続けようかね、ねえ、チェイニー)


記憶の中の自分の顔と相対したフランチェスカの目から光が消え、両腕がだらんと垂れた。もはや構えるべき剣もない。絶え間ない痛みの追体験に、これは自分の記憶ではないと言い聞かせて最後まで耐えきった強靭な精神が、ついに屈した。


どう、と彼女は、それでも前のめりに倒れた。

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