「悪」(8)
術の影響か、鳴り止まぬ悲鳴と苦痛のせいか、まだ認識の切り替えがうまくいかない。
人影は今、相互不可視の術と言った。
相互不可視の術というのは「出来損ないの術」だとされている。法術の術理について説明する見本として持ち出されるタイプの術だ。
不可視になる術を追い求める魔道士は多い。ただ、大抵の場合その技術は幾つかの問題点にぶつかって頓挫する。その代表とされているのが、相手の現実認識を狂わせるというアプローチによるものだ。
法術世界においては、様々なものが双方向的に影響を受ける。対価を支払う分だけ恩恵を受けられるとも言える。
制約なしで火の魔法を使おうとするなら、代わりのものを同じだけ冷やさなければならない。相手が自分を認識できないようにする術、というのは、自分も相手を認識できなくなる術でもあるということなのだ。
相互不可視の術は相手を認識できなくなるだけだ。
相手が闇雲に振り回した剣の間合いに入っていれば、術者は当たり前のように斬られる。術者は認識できない剣に斬られて絶命し、次いで術が解けて、単に斬られたという事実だけが残る。もっとも、そんなことはまず起こらない。術が発動したが最後、斬らねばならない相手がいる、ということさえ認識できなくなるのだ。術者自身も、己を斬ろうとしている相手がいることさえ認識できなくなる。
効果自体は有効な術ではあるが、術をかける意味が全くないので、現実的な話として、メリットは低いとされていた。
やめて、やめてやめてやめて、許して、もうこれ以上、痛いことをしないで。フランチェスカの脳内を懇願が駆け巡る。命乞いさえ、拷問者は気にも留めない。現実の彼女の背に脂汗が流れる。自分なのか、ラーフラから放射される記憶なのか、段々区別がつかなくなってくる。何が現実なのかが曖昧になってくる。リアルなのは、ただひたすらに続く切れ目のない苦痛、悲鳴、絶望だけだ。
(しかし、いい加減うるさいな。話ができない)
解像度の低い人影は呟き、フランチェスカの左を無造作に横切ってラーフラの横に向かった。斬れなかった。動けなかった。ふわっ、と香木の香りがした。カメジャコオン。痩せた男と同じ香りだった。
気付くと彼女は膝をついていた。気を失っていたのかもしれない。一瞬の静寂。悲鳴が止んでいた。
振り向くと人影がラーフラをドアノブから引き剥がしているのが見えた。だらんと下がったラーフラの手。人影が襟首を離すと、ラーフラの身体はどさりと崩れ落ちた。丁寧な剥がし方ではなかった。
(殺しておくつもりだったが、この先、彼がどうなるのか見てみたくなった。しばらく生かしておくことにしよう)
念話だ。念話に嘘は混じらないという。思っていることが、思っている通りに放射される。雑念が入るとそれはそのまま出力されるか、ノイズとなってクリアには聞こえなくなる。
つまり、人影は本当にラーフラを殺すつもりだったということだ。
フランチェスカは剣を杖に、立ち上がろうとした。
(面倒な話は抜きにしたい)
人影がフランチェスカに向き直ると不意に圧が来た。体が硬直した。
(彼は邪魔だったんだ。便利な能力だとは思うが、この、武力の国、龍の国にはそぐわない)
ローブのせいではない。顔が、正しく認識できない。フランチェスカは目を強くつぶった。
(過去を読み取る能力なんて、戦いの役には立たないと思っていたのは訂正しなければならない。こんな風に、けたたましいサイレンの代わりに使えるとはね)
「一体、彼に、何をしたんだ」
(彼の脳を焼いてやったんだ。たぶん焼けてるだろ)
「何を」
(とある女の子に拷問をして、その記憶を焼き付けてみたんだ。そのドアノブをくわえさせた状態で、一通り思いつくことは全部やってみた。その後、ドアノブはそこの扉に取り付けたって訳さ。その扉だけは用心して、必ず『読もうとする』だろ。サイコメトリストには効果的な対抗策かなと思ってね)
笑い声の概念。純粋に楽しそうな声だった。嘲るでもなく、挑発するでもない。どこまでもフラットな笑い声。
(そうだよ、この部屋は、彼のための部屋さ。赤襟が差し向けるとしたら、君と、彼が来ることは分かっていた。でも最終的な目的は、君だ)
「私」
(そう。君を、スカウトしに来た。赤襟なんかに預けておくのは惜しい)
フランチェスカは相手に悟られないよう、柄を握り直した。




