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ハニカムウォーカー、また夜を往く  作者: 高橋 白蔵主
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「悪」(7)

発端はこうだ。

ふと疑問を抱き、その疑問を「試してみたい」という欲望が抑えられなくなることがある。ふと、この縄を切ったらどうなるのだろうかと考えて、その縄のことが頭から離れなくなることがある。

発端は、小さな疑問であった。


龍は、この国の王である。

龍は、人ならぬ身。人語を解するかどうかさえ怪しい。おそらく、人語を使わぬのではなく、人語というものを認識すらしていないのだろう。王は龍の言語を人に与えたが、それはルーンやキリークと違い、それ自体に魔力のあるものではない。ただ、龍と意思疎通するための手段でしかない。龍の言語でだけ発動しうる魔術もあると聞くが、人間の魔素でコントロールできるレベルのものでないことは容易に想像ができる。

龍は、民の個別の事情を頓着しない。訪れるものを選別し、見合うようであればそれぞれに居住する権利と加護を与えるが、人それ自体を慈しむ訳ではない。

龍は、人を、その個体を見ない。ただ、王として国にある。


君臨すれども統治せず、という言葉があるが、王は正確に言えば君臨もしていない。王宮では夜への備えだけが厳重である。人と同じ大きさの王は、太陽のある間だけ戸外に出ることを許される。日没の前に王は王宮に戻る。まるでそれは、見ようによっては王を夜から護るための籠のようとも見える。

王が龍であり、龍が人智を超えた存在であるのは疑うべくもないが、王から夜を遠ざける制約が何のためにあるのか、殆どの民は知らない。大臣達は理由を知っているというが民衆にそれが語られることはない。王国の成立を知る長命の者達は、しばしば龍である王がこの国に降りたことへの感謝を口にしていたが、近年では長命の者たち自体の数も減った。長命の者達はひとり、またひとりと旅に出てしまった。


龍の国では、龍である王との誓約だけが絶対である。

その誓約に沿う限り、出自、素行、過去、主義や信条がどのようなものであっても王は、龍の国の民と認め、ひとしく加護を与え、庇護する。

しかし龍の国は龍のものであると同時に、人の治めるものでもある。龍との誓約のほかに、長命の者達が主となって幾つかの法を作り、遺した。その殆どは、法というよりも戒律であった。戒律の数も多くはない。龍との誓約を下敷きにした戒律は、常に7つである。時代にそぐわないものが廃れ、代わりに新しい戒律が足される。


龍の国の民は、王を国の外に出してはならない。

争いによって領土を広げようとしてはならない。

王の名を騙ってはならない。

王の財宝を盗んではならない。

王と交わした誓約の内容を国外で語ってはならない。

印を偽造してはならない。

龍の国の名を名乗る時に嘘を混ぜてはならない。


これまでの歴史で戒律を破ったものは少ない。そのほとんどが、龍である王の名を騙った罪である。いずれも追放され、あるいは自ら逐電し、龍の国から去って行った。


ふと、考えた者がいる。

龍は強大だが、仕える者達はそのほとんどが定命であり、その数も有限である。

もし、たとえば、万が一。

王に仕える者を皆殺しにした場合、王はそれを不便に思うのだろうか。

龍の言語を知る者を根絶やしにした場合、王たる龍はどのように振る舞うのだろうか。

人間の言葉を喋らない龍を、王宮にたった一人にした場合、必要に駆られて王は人間の言葉を使うだろうか。

龍の肉体が滅びるという龍節の後、世界のどこにも赤子が生まれなかったらどうなるのだろうか。

龍が居なかったとしても、実は、龍の国は変わりなく続いてゆくのではないだろうか?


それらは子供が「洪水で、世界の全てが海になったらどうする?」と尋ねるのと似たような疑問ではあった。

しかし、その一部でも実現することが出来るとしたら?


始まりは、そんな些細な疑問であった。


地下礼拝堂に響く悲鳴は止まない。喉が枯れることも許されず、脳の焼ける強度でラーフラは苦痛と、恐怖と、絶望を最大強度で放射し続けている。

倒れていたシジマの鼻からも、どろっとした血が流れた。意識を失った者の深層にも悲鳴は届き、苦痛を、刻み続けている。痩せた男は時折痙攣している。


唯ひとり立つフランチェスカは垂れた鼻血を拭いもしない。彼女は歯を食いしばったまま、瞬きをしない。彼女の目に映るのは、部屋隅の鏡である。確かにそこには違和感があった。

鏡があること自体は認識できるし、そこに確かに鏡はあるはずなのだが、ディテールがおかしいのだ。解像度が、周囲のものと少しだけ、ズレている。そこだけが、甘いのだ。よく見ると、鏡自体がおかしいのではない。その、あたり一帯がおかしいのだ。

彼女はこみ上げる嘔吐感を呑み下し、もう一歩を進んだ。


不意に、そこに人影が現れた。違和感の塊が、寄り集まって人型の像を結んだ。そんな感覚だった。


(「急に見えるようになった」と思っただろう?)


念話であった。

人型の像は、まだ輪郭を結ばない。


(フランチェスカ・ピンストライプ。その感覚は、間違いではないよ)


ラーフラが放射している苦痛は止むことがない。左手に食い込むムル喰いの細い何百の牙。悲鳴。出せない声。口中に突っ込まれた金属片。これは、ドアノブだ。記憶は混濁し、様々な苦痛をごちゃ混ぜにして彼女の脳を灼く。妹はどこだ。私の、身体、どうして。


(僕が、いま、相互不可視の術を解いたんだ。僕はずっとここに居たし、今までは僕からも君たちの姿は見えなかった)


念話の声は、涼やかだった。垂れ流されている苦痛の記憶を上書きするような、強い出力だった。この放射されている苦痛と、まったく違うチャンネルにあるように彼女には感じられた。

その声を聞いている間は、ラーフラの念話から護られる、そんな気さえした。悲鳴は続いている。

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