「敵、敵の敵、敵の味方」(3)
物音を立てないように起き上がり、そっとグラスホーンは聞き耳を立てる。
隣の房からはもう何も聞こえてこない。呼び掛ける声も、しばらく彼の返答がなかったせいか止んでいた。
「まだ、居るか?」
声を掛けると、ふっと笑う声がした。
「用心深いんですね」
少女の声ではあったがさっきとは少し違う。若干の悪意か、嘲笑か、とにかく好意的でないものを含んだ声色だった。すぐに返事をしなかったことで気分を害したのか。それとも、"拘束されている自分"に用事があったのか。どちらだろうと考えながらグラスホーンは壁にもたれかかる。
「すまないね。どうも今日ばかりは、周りのものを信用する気になれなくて……。初めて会う相手については特にね」
「ククッ。……そっちも誰かにハメられた口なの?」
可憐な少女の声ではあるが、やはり声色に棘がある。最初に呼び掛けられた時の声には感じられなかったものだ。少し考えたが、話に付き合うことにした。相手が誰だかは判らないが、時間だけはたっぷりあるのだ。
そもそも、説明できるほど自分の状況をしっかり理解していないというのもあったが、それを抜きにしても自分のことを話すのには抵抗があった。素性の分からない相手である。
他人のことを言えない立場だが、牢に入るということは、罪に手を染めていたり、何らかの異常性のある相手であるはずである。
「“そっちも”というと、あなたも何か無実の罪で投獄されているのかな」
「もちろんです!」
「も」を強調してやると、壁の向こうの声が嬉しそうになる。足音。とと、と相手が彼が凭れ掛かっている壁の向こう側に走り寄って来た感覚があった。
エルフ族は長耳のせいもあって気配察知に優れていると言われるが、特に彼は鋭敏な方だった。特に、目が悪いのも影響しているのかもしれない。愛用の眼鏡は入牢時に一旦没収されていた。眼鏡がないと、世界の輪郭がぼやけるせいか言葉尻のひとつひとつに神経が向く。
「あなた、なんて恥ずかしいな。声の感じからするとたぶん、あなたの方が年上でしょ。私はソフィア。ソフィア・ウェステンラ。哲学を愛するようにつけてもらったの。フィリア・フィリオシス・フィリオフィリア。知によって智を愛で、哲学を為すべし。私の好きな言葉なの。ねえ、同じ境遇のよしみじゃない。気軽にソフィって呼んで」
「…あまり、ご婦人をファーストネームで呼ぶのに慣れてないんだ。レディ・ウェステンラとお呼びしても?」
きゃあきゃあ、と壁の向こうで嬌声が聞こえた。
「レディ、なんて言われるの生まれて初めて!嬉しい!紳士の方なのね!」
グラスホーンは、予想外に強い反応にたじろぎながら返事する。酒場の娘の振りまく愛想よりも強い。だが、ここでは自分をおだてても何も出ないはずだ。一足飛びに距離を詰めてくる感じに怯んでしまうのは、臆病なのだろうかということをすこしだけ考える。
「そんなジェントルマンのお名前を伺っても?」
「……ダグラスホーン。家名は、パトリックでもガウェインでも、マクスウェル、マクヘネシー、スタンドリーフ、どれでも構わない。好きに呼んでくれていいよ。昨日までは、ここで契約魔術の研究をしていた。明日からは、うん、どうなるんだろうな」
咄嗟に彼は小さな嘘をついた。自分でも、どうしてそうしたのかは分からない。
ダグラスホーンとは、偽名を使う必要があるときの名前だった。後で訂正が必要になったとき、相手の聞き間違えだろうと言い張れるラインである。
家名については、嘘でもないが本当でもない。それは一部のエルフにとっての合言葉のようなものだ。エルフは本当の家名の他に、通り名を持つ。正式なフルネームを名乗り合うことはよほどあらたまった場でない限り控えるのが習慣なのだ。
「ダグラスホーンさんね。素敵なお名前。エルフさんなのね」
そして相手もエルフ族の習慣については承知しているようだった。
「わたしは、ヒューマン。ヒューマンのつまらない女よ」
グラスホーンの中で何かが引っかかっていた。ソフィア・ウェステンラ。どこかで聞いたような気もするが思い出せない。
「お言葉に甘えて、マクヘネシーさんってお呼びすることにするわね。……合ってるかしら?」
何気ない声だったが、すこしぎくりとした。名乗った中に、幾つかダミーの名前を混ぜてある。一般に、通名を使うのは社会的にもそれほど無礼なことではなかったが、ぐいっと踏み込まれたような感じがしたのだ。返事できずにいると、ソフィはまた声の調子を変えた。
「マクヘネシーさんは、誰に逆らってここに落とされたの?」
さらに踏み込んだ一歩。
「私はね、あの忌々しい鉄の魔女に罠にかけられたのよ」
ソフィの声が一段低くなった。




