「緊張と弛緩」(9)
「なぜ、君を選んだかって?」
メアリ・ハニカムウォーカーは、彼の疑問を交渉の一環だと思ったようで、脚をぶらぶらと揺らした。
彼女が乗っている卓の奥には月明り差し込む窓がある。窓と彼女を結んだ線上に、グラスホーンのベッドがある。ベッドの横には、おそらくは居室に通じる扉がある。それほど薄い扉には見えない。
寝室だけあって、それほど広くはないが、作り付けの本棚はここが城の中だというのを感じさせるのに十分だった。足音を吸う絨毯、調度品はそれほど豪華ではないが、しっかりした造りを感じさせる。
ハニカムウォーカーは、卓の上にある獅子をかたどった文鎮をそっと摘み上げた。
「そりゃさ、この宮廷の中では割と"まとも"だと思ったからさ。あとは、比較的お金を持ってそうだし」
「よその国の人からはいろんなことを言われるが、ここは別に悪の王国って訳じゃない。探せばまともな人は沢山いるだろう」
彼女は薄く笑い、答えずに目を伏せる。
「まあ、実際のところは別に、特別、絶対に君がいい、君じゃなきゃ嫌だ、と思って選んだ訳ではないんだ。成り行き上、こういうことになったけどさ」
「?」
「ヴァレイの仇をどうしたものかと悩んでぶらぶらしていたとき、宮廷内に忍び込める依頼が舞い込んで来た。しかも脅かす相手は君だっていうじゃないか。仕事のついでにどんなやつなのか、しっかり確認してみようかと思ったんだよね」
「やっぱり、以前から僕のことを知っていたみたいだ」
「ううん、そりゃ、まあ」
少々歯切れの悪い返事である。
「ミス・ハニカムウォーカー、君は何か、隠してるみたいだ」
「なにも隠し事のない女なんて、ぜんぜん魅力的ではないと思わないかい」
「そういうことを言ってるんじゃない」
「何も隠してないとは言わないが、ヴァレイの件に関しては隠し事をしないと約束するよ。それじゃ駄目かな」
「駄目とは…言わないが」
すこし遠回りしたが、聞きたかったことに話題が戻ってきた。
「逆に、なぜ僕を信用できると思ったんだ」
「ん?君は、信用できないのかい?」
「そういうわけじゃないが……あなたの判断基準がよく判らない。急に信用されても、その、少し気持ちが悪い」
「ずいぶんはっきり言うね」
「気を悪くしたらすまない。ただ、以前に僕の覚えていない所で何かあったというのならそれはそれでいいんだが……いや、やはり、据わりが悪いな」
暗殺者は顎に手を当てて少し思案していたようだったが、グラスホーンの疑問も、もっともだと思ったようだった。うん、と小さく頷いて卓に座りなおした。
「グラスホーン。君が心配しているのはわたしが、君のことをまだ容疑者のリストに入れたままなんじゃないか、ということかな?」
あんまり単刀直入に聞き返されたせいか、返答に窮した。どうやって失礼に聞こえないような尋ね方をしようかと考えていたうちの、どの型にも当てはまらなかったのだ。咄嗟には、そうだ、と答えることが出来ずにグラスホーンは何かを飲み込み損ねたような顔になった。
「まあ、いいよ。本来、信頼は時間をかけて築くものであるべきだが、一応の解説はしておこう。わたしは、わたしが嘘を見破る能力を持っている、とは説明していないと思う。本当はそう説明しておく方が便利な能力なんだ。そこをきちんと端折らず説明している辺りにわたしの誠実さというものを感じてもらいたいとは思うんだが」
話しながら不意に卓から猫のように飛び降り、暗殺者は絨毯にしゃがみ込んだ。しゃがみ込んだのは、前転しながら跳ぶための予備動作だった。止まらず、そのまま流れるように、まるでバネが弾けるように回転しながら暗殺者の爪先がグラスホーンへ吸い込まれるように迫った。
息を吸う間も、避ける間も身構える間もなかった。もっというと、何故、と思う間すらもなかった。撃ち抜かれた胴体に穴があく、というイメージが脳裏に走ったが実際は胴体ではなく顎先に強い衝撃を感じ、彼はそのままベッドに倒れた。ぐらんぐらんと脳が揺れていた。
あまりにも動作が早すぎて、倒れた彼には何ひとつ認識できなかったが、暗殺者は卓から降りた後、グラスホーンを沈める一動作の中で複数の行動をしてのけた。前転から繋がる跳躍で体を伸ばし、彼女はグラスホーンの顎先を蹴りぬいた。脳が揺れるのに十分な力である。そして同時に逆方向、窓に向けてさっきいじっていた文鎮を投擲している。
グラスホーンがベッドに倒れ込むより少し早く、窓の砕ける音が室内に響いた。
彼の顎を蹴り抜いた後の着地で留まること無く、曲芸の様な動きで彼女は角度を変えてもう一度跳んだ。恐るべきしなやかさで彼女は部屋の隅の天井に、もともとそこに貼りついていたかのように納まった。
入口から見て、窓と逆の隅である。
窓が砕ける音以外、無音であった。
暗殺者が天井隅に貼り付いた直後、ベッド横の扉のノブが吹き飛ばされ、薄青く発光する魔法鎧が飛び込んで来た。
グラスホーンは脳の揺れる不快感の中、辛うじて侵入者の姿を見た。それは、数分前であれば彼にとっての救世主となったはずのロイヤルガードの姿であった。声を出そうとしたが、呻き声のようなものが漏れただけだ。何が起こっているのか、彼はまだ理解が出来ていない。鎧の主が誰であるかも彼には判らない。視界も揺れている。
倒れている彼に目もくれず、まっすぐ窓の方へ駆けてゆく魔法鎧を天井の隅からハニカムウォーカーは見下ろしている。魔法鎧は部屋の主の安否を確認するのではなく、外へ逃亡したであろう「何者か」だけを追う動きを見せていた。片手を自由にした状態で貼り付いていた彼女が、壁面を蹴って背後から魔法鎧に組み付いた。
決着は一瞬で着いた。
重力を感じさせない動きでハニカムウォーカーが魔法鎧の頭に着地し、そのまま首をへし折ったのだ。兜ごと首がありえない角度に回転し、巨体の倒れる、どう、という音が響いた。




