「緊張と弛緩」(7)
グラスホーンは、少年騎士が殺されたという日のことを思いだしていた。
午後に一度、天気雨が降った日のことだったと思う。何故覚えているかというと、ちょうど事件の起きた直前、そこを通ったからだ。
庭園は水を撒いたように濡れ、空はぽっかりと晴れていた。当たり前だが、彼はなにも感知しなかった。ただ、天気雨が降った跡だけがあり、彼はそれを庭園の脇のアーチから眺めた。
その後、変死体が見つかったという庭園の騒ぎは執務室に戻った彼のところまで聞こえて来たが、勿論騒ぎの前に、争った物音などを聞いた覚えはない。奇妙なのは、宮廷内に変死体が出た、という方ではなかった。
むしろ、少し異常なくらい“話題にならなかった”という方なのだ。
勿論、中庭の庭園で変死した騎士が居たらしい、という話はひと時の間、話題にはなった。龍の国の特色、宮廷内での争いはそれほど珍しいことではないと言っても、勿論さすがに死人が出るような事件についてはそれなりに騒ぎになる。
ただ、今回に限っては一週間もしないうちに誰も話題にしなくなった。どこかの派閥が意図的に消火させようとした気配もない。隠蔽された痕跡もない。
不思議なほど“話題に上らなくなった”のだ。
龍の王が治めるこの国では、宮廷会議の面々は天覧試合によって選出される。
選挙や、世襲、推薦や試験ではない。ただ第一に、その腕前によってのみ選抜され、そのあとは話し合いによって大臣の地位や近衛長の地位に就く。結果、人格に問題のある人物が権力を握ることもある。
それらを是正、あるいは排除、時には助長する仕組みが「決闘」であった。
奇妙なことに「一定のルールさえ守れば」という括弧がつくが、この国において宮廷内での私闘は、基本的には咎められることはないのだ。
事実、グラスホーンは議場内で行われた、三対三の決闘を目撃したことがある。うち、二人が死に、一人は後遺症の残る怪我をして宮廷会議からの引退を余儀なくされたが、決闘に臨んだ誰に対しても咎めはなかった。
正当な手順を踏んで行われた決闘は、その結果についてだけは一切の罪を問われない。まさに、強ければそれでいいのだ。
しかし少年騎士が変死した事件については、そのルールに沿ったものではないはずなのに、奇妙なほど話題に上らなかった。
暗殺者が称賛したように、この国ではルールとは別にマナーがある。自己救済を良しとする文化もあるが、弱者は、常に虐げられている訳ではない。むしろ弱者を虐げる者は強く糾弾される傾向にある。
それは特に貴族層に顕著で、小さな事件であっても、謀略の影を声高に叫び、宮廷会議の中で罪を擦り付けあう派閥がある。宮廷会議の内部では、常に争いが絶えない。
だというのに、まだ二週間しか経たない今、すでに誰もが、少年騎士のことを“忘れつつある”と言っても良かった。
事実、彼自身も暗殺者の侵入と、庭園の事件をたった今まで結びつけて考えようとはしなかった。普通に考えれば、同じ賊なのではないかということを真っ先に疑うべきではある。
そして、彼は思う。自分も含め、宮廷内の人々の思考には何かが起こっている。この殺人の陰には何かがある。
「ミス・ハニカムウォーカー。僕はあなたを見込んで依頼したい。今の宮廷会議にはたぶん"掃除"が必要だ」
グラスホーンが静かに告げると、一瞬、暗殺者の目が泳いだ。
「……?…どうした?」
「いや、結構話が大きくなりそうだな、と思ってさ」
「最終的には、そういうことになるだろ」
「わたしとしては、あの子をやった犯人を殺せれば、それだけでよかったんだけど」
「待って欲しい。犯人の殺害は依頼の中には含めないよ。それを依頼するわけにはいかない」
「えっ」
グラスホーンの返事に、暗殺者は虚を突かれたような表情になった。しばらく絶句して、ぱくぱく口を開ける。
「だ、だって、今、流れ的には、あの子の仇討ちを依頼する流れだっただろ」
「確かに雰囲気としてはそんな流れの気もするが、僕は、そんなに気軽に人を殺してくれなんて依頼はしたくない」
「えっ」
「この国にだって法はある。暗殺だって、露見すれば罪に問われる」
「でもあの子は」
「だから、彼を殺した犯人は罪に問われるべきだ、と言ってるんだ」
うぐ、とハニカムウォーカーは黙った。数分前とはまったく立場が逆転したようだった。
単純な力関係でいえば、グラスホーンはいつ殺されてもおかしくはない立場ではある。丸腰というのもあったが、仮にレガシィクラスのアイテムを持っていたとしてもおそらくかなわなかっただろう。魔法は、その間合いによっては拳に劣る。相手が刃物となれば尚更だ。
しかし、彼は毅然と胸を張っていた。
恐怖がない、といえば嘘になるが、彼自身、対峙するメアリ・ハニカムウォーカーを信用するような気分になっていた。目の前の女性は、少なくともある程度理知的であり、自身の論理には忠実だった。少なくとも、彼女の論理に対して、筋の通らないことはしないはずだ。
思い通りの返答が返ってこなかったからと言って、八つ当たりで彼を殺すことはないだろう。彼女は、少なくとも「今夜は」彼を殺さないと誓っていた。
「犯人を探す。そのために僕もできる限りのことはしよう。ただ、犯人を殺すことを目的にはできない。結果、そいつが死罪になるとしてもそれは王の裁きを受けさせてからだ」
暗殺者は何かを言いたげに口を開け、そして閉じた。鼻から息を吐いて、観念したように目を軽くつぶる。