「緊張と弛緩」(5)
口をとがらせて暗殺者は笑った。
「君の、さっきの申し出は面白かった。あの、”大声を出そうと思う”ってやつ。ちょっとシビれたよ。あんな追い詰められた状況であんなことを言えるのって、育ちがいいのかな、個人的には割と無条件で信用していいと感じている。君もわたしの腕についてはそれなりに信用してくれているみたいだし、お互い敬意を持った話し合いが出来そうじゃないか」
「答えは?」
「もちろんイエスさ。脅かしてすまなかった。もう胸いっぱいに深呼吸をして貰って構わないよ」
暗殺者に促されてグラスホーンは口を閉じ、そして、しばらくぶりに大きく息を吸おうとしてせき込んだ。まだ肉体は恐怖から抜け出せていない。肺と肋骨が、痙攣するようにひくひくと動いた。噎せて、あえぐように息を吸いこむ。平気かい、と暗殺者が背中をさすった。その手は思ったよりも冷たく、しかし優しかった。
「まあ、あえて命乞いをしない理由も解るよ。強盗みたいに、向こうから金を出せとか指輪を外せとか、親切に要求してくれるならどうしようかってものだけど、わたしみたいに特に何にも要求しないと、逆にまったく助けてもらえる気がしないとは思う。よく言われるよ」
「それに、口を塞がれていたから」
「ンフ!確かに!」
暗殺者は愉快そうに笑い、そして、首を振った。
「でも今は猿轡も取ったし、わたしは命乞いをして欲しいわけじゃない。本題に入ろう」
言いながら暗殺者は、彼の頬に手を伸ばし、親し気にぴとぴと叩いた。そしてまるで抱擁するように彼女の頬が近づいた。身構えそうになったが、近づいた髪からふわっと甘いような香りがして思わず力が抜けた。
同時に、後ろ手の拘束が解かれたのを感じて息を飲む。それはまったく意外な感触だった。きつく縛られた両手の行き場がなくなる。反射的に両手を動かすと、はらはらと肩に掛けられた縄も落ちた。
「ンフフ。わたしはね、仕事と同じくらいマナーも大事だと思っているんだ」
じゃあん、と身体を離した彼女は、両手をあげてひらひらと振った。縄を切ったはずのナイフは、またどこかへ消えていた。
「わたしたちは、もしかしたらこれから雇用主と労働者になるかもしれない訳だ。その契約を結ぶにあたって、雇われる側が自由で、雇う側がギチギチに縛られてるっていうのはちょっと歪だとわたしは思う。資本主義の構造と対立しちゃうよね」
「信用してもらえてうれしい、と言うべきなのかな。ええと」
「別に好きに呼んでもらって構わないよ。この国では、メアリさん、と呼ばれることが多いかな」
「ミス、ミス・ハニカムウォーカー」
グラスホーンは痺れた両手を揉みながら、暗殺者を見た。彼女は目を丸くして、少し恥ずかしそうな表情になった。
「僕は、あなたの考えていることがよく判らない」
「キミ、でいいよ」
「僕は、どこかであなたに何かをしただろうか。その、恨みを買うようなことを」
「ノン」
「では、逆に好感を持ってもらえるようなことを?」
「……ノン」
答えるまでに少しだけ間があったが、その間が何なのかもグラスホーンには分からない。まだ思考力が戻って来ていないというより、本当に判らないのだ。会話の内容を遡って、彼は考える。
縛りあげられてから耳にしたこと、ルール、マナー、掃除、リィン嬢の事、暴力について、そして、殺された少年騎士のこと。彼は腕組みをして、彼女を観る。暗殺者は、何の表情も浮かべずに見つめ返す。
「彼の、近衛騎士の子のことなんだね」
声に出すと、それは答えのように思えた。理由は判らないが、答えに辿り着いた確信だけがあった。