「緊張と弛緩」(2)
女は、グラスホーンを見下ろしたまま、顔を傾けて肩を竦める。
「どうしてそう思うんだい。理由、ちょっと聞いてみたいな」
「そうしたら、あなたは、大きな声を出す前に、僕を殺すだろ」
切れ切れに、苦しそうに話す彼を前に女は黙っている。
「僕は、痛みに弱い。たぶん、順番に、指を、切り落とされるのに、耐えられない」
女は目をぐるりと回して、口をへの字に曲げる。不満そうな顔ではない。
続きを促す視線に押されるように、彼は続けた。犬の呼吸だ。浅く、一言ずつ区切って、囁くような声で彼は続けた。
「さっき、あなたは、僕を、殺すと、言った。だから、本当は、指を落とすなら、僕を殺してからやってくれ、と、言いたい」
自分で言いながら、滅茶苦茶な状況だな、と他人事のように彼は思う。最後に喋ることが、自分に対しての殺し方の注文なんて、数時間前まで思いもしなかった。
「だけど、あなたに、僕の要望を、聞く義理は、ない。だから、あなたが、素早く、僕を、殺さなければ、ならない、状況を」
遮って女が柔らかく笑い出した。
嘲るような笑いではない、親密な、友人同士にかけるような笑い声だった。
「君、矛盾してるよ」
彼女はナイフの柄の、端に近い所を人差し指と中指で掴んだ。弄ぶように切っ先を振る。小さな動作だったが、ひゅ、と風を切る音がした。
「だってさ、そんな手の内を晒してしまったら、わたしは君の喉を裂けばいいだけじゃないか。それは君が息を吸い終わる前に終わる。予告する意味がないよ。痛みがひとつ、増えるだけだ。わざわざわたしに伝える意味がない」
「……それは」
彼は口ごもり、そして息を吐いた。
「それは、なんだい?」
「確かに、そう、だな」
言いながら、急速に瞼が重たくなってくるのを感じた。
相手は、おそらくは達人なのだ。喉を裂かれても、冷静に考えれば即死はしない。殺さず、声だけを奪うのは彼女にとっては造作の無いことだったのだ。人の喉を裂くとどうなるかなんて、考えたことがなかった。
なぜ自分は、わざわざ事前に伝えようとしたのだろう。
それを聞いて、彼女の気が変わることを期待したのだろうか。
言われてみると、あらゆる意味において、無予告で叫んでおくべきだった。億分の一の確率でも、ロイヤルガードが来れば命だけは助かる可能性があった。来なくても、最後の運命は変わらない。殺されるだけだ。ほんの毛筋ほどでも、自分が助かる目があるとしたら、さっき、大声を出しておくことだけが可能性の全てだったのだ。
「あなたの、言う通りだ」
自分が、どれだけ死から遠い人生を送って来たのかを彼は考えた。
目をつぶりたい。倒れて楽になりたい。さっきからどんどん死の予感が濃くなってきていたが、たった今、完全に幕が下りたことを理解した。彼は、自分からその幕を下ろしてしまった。
どうあっても自分は助からない。
確かに女の言う通りだった。咄嗟に、自分の命を人質にして交渉したつもりだったが、そもそも自分には初めから交渉できる材料などなかったのだ。
心が折れる、というのはこういう状況か、と彼は不思議に思った。
これから指を一本ずつ落とされ、苦痛の中、自分は死ぬのだ。
絶望は、眠気に似ていた。もう返事をするのも面倒だった。彼は力なく首を振り、頷いて俯いた。もう、好きなようにやってくれ。
そして彼は、自分の命を完全に諦めた。