「緊張と弛緩」(1)
グラスホーン・パトリックノーマンマクヘネシーは、「血の気の引く音」をはっきり聞いた。勿論己のものである。さああ、と耳の奥で血の流れが渦巻く音を聞いた。いやだ、失いたくない。血液の抗議だった。血液には、肉体には、自我などない筈だったが、彼は確かに己の肉体があげる悲鳴を聞いた。
切断される己の九本の手指の、その断面を肉体は予感した。葡萄酒の瓶から零れるように血が失われることを、肉体が予感したのだ。それは濃密な痛みの予感だった。
目の前では、軽装の女性がふんふん鼻歌を歌いながらナイフを研いでいる。脱いだ上着が無造作にのところで縛られている。袖のない水着のようなインナーウェアは、深い朱色だった。
彼女はもう、彼に興味を失ったようにこちらを見向きもしない。最後に聞いたつめたい声を思い出した。その表情は逆光でよく見えなかったが、ぞっとするような声だった。
それまでの、親しげで軽妙な口調の全てが地獄に突き落とすための前振りだったのではと思わせるような、つめたい声だった。
彼は後ろ手に縛られている両方の掌を握ったり、開いたりした。親指、人差し指、中指、薬指、小指。まだ、ついている。切り落とされるなんて、信じられない。どうにかして状況を打開する方法はないものか。掌には、じっとりと汗をかいている。
こちらを一瞥もせずに、女が朗らかな声を出した。
「そうそう、皆、そうやって自分の指と最後のお別れを楽しむんだ。ぐ、ぱ、ぐ、ぱ、って。握りこぶしを作れるのもあと何分かだからね」
指を動かすのに、音なんて立たなかった筈だ。
縛られている手は彼の身体の影で、彼女からは見えない筈でもあった。
「ンフ。君が何を考えているか当ててあげようか」
女の声からはさっきの冷たさが消えている。その朗らかさが逆に怖い。
「何を差し出したら助けてもらえるんだろう。この気違い女に言葉は通じるんだろうか。そんなところかな。失礼な話だよな。言葉通じるよ。立場が違うだけの話だ」
作業が終わったのか、彼女は左手にナイフを持ったまま向き直った。
ベッドの上に縛られたまま、彼は改めて女の姿を見る。
窓から差し込む月明りに半分だけ照らされて、彼女は彼を見下ろしている。やや緑がかった髪。肩くらいまであるだろうか。髪飾りのように、頭頂から逆向きに生えている角は黒い。
左目の下に、ふたつ、縦に並んだ黒子がある。下の黒子のほうが少しだけ大きい。つるんとした頬。愛嬌のある顔だが、いまひとつ表情が読めない。
「現実逃避をしているね」
見透かしたように女は口元だけで微笑んだ。魅力的な表情だった。目が合って、彼は自分の運命を理解した。どうやっても避けられない。
彼女は彼のことを、もう人間として見てはいない。これから切り分ける予定の肉塊に向ける目の方がまだ感情を籠めるのではないかというくらい、何も映っていない目だった。そして、そんな彼女に少し見とれてしまう自分がいた。蛙が、蛇を見つめて動かなくなる理由が解った。
途端に鼓動が早くなった。
痛いのは嫌だ、痛いのは嫌だ。喉がカラカラに乾いた。相変わらず浅い呼吸をしながら、自分がまだ生命にしがみ付こうとしているのを不思議に思ったが、一本一本指を落とされる痛みを想像すると同時に吐きそうになった。
「大きな、声を」
彼が絞り出すように話し掛けると、彼女は少し目を丸くした。
「なんだって?」
「大きな声を、出そう、と、思う」
それは意外な言葉だったようで、彼女は少し興味を持ったようだった。