被監禁日記(9)
フードの下で、ソフィアの口元がくしゃっと歪んだ。
「私、悪くないでしょ…ッ」
殺し合い直前の台詞としてはまったく珍しくはない。誰もが、自分は正しいと、攻撃するだけの名分があると信じて他人に剣を向ける。グラスホーンはよろけるように2人の間に割り込み、そして正面からソフィアの肩を掴んだ。
「そうだ、そうだよ、君は悪くない」
咄嗟ではあったが、存外に力強い声が出た。こうなったら残っているのは勢いしかない。
「君は悪くないが、その重量物を人に投げつけるのは良くないことだ。君が、話を聞けるだけの余地があると信じているから君のことを止めている。君が、悪いから止めているんじゃあない」
「私、悪くない」
「そう、でもその手に持っているのは置くんだ。地面に。そう、そっと置くんだ。いいかい、話をしよう。会話だ。話し合いをするんだ」
ソフィアが石畳を壁面に投げつけた。びたん、という、硬いものが立てるとは思えない音。つづいて、ごとん、という自身の反動を抑え込む重力の音。かろうじてグラスホーンは瞬きするのを堪えた。
短い口笛。振り返るとダークエルフが唇を舐めながらニヤニヤしていた。
「これ以上煽らないでくれ」
「そこのヒュームが悪くないってことは、つまり、私が悪いってことですかァ?」
「僕はこれ以上、争いを見たくない。いいか、二人とも冷静になってくれ、ミス・グレイ・グー。僕はあなたのやり方に文句をつけるつもりはない。そもそも事情も知らない。この人の主張とあなたの要求と、どっちが正しいかのジャッジをするつもりもない。だが、とにかくここで、少なくとも僕の目の届くところで傷つけあうのはやめてほしい」
「なんも知らないなら、経緯、最初から説明しましょうかァ」
ダークエルフが笑う。
暴力の予兆が膨れ上がるのが、掴んだソフィアの肩からしっかりと伝わってきた。コントロールできそうな予感は一切しない。グラスホーンだって龍の国の民だ。綿と鉄の違いくらい、触ればわかる。
ダークエルフを怒鳴りつけてやりたいという欲求が自分の中でも急激に高まるのが分かる。しかし、それもまた、「正しい行為」ではない。
彼は自分自身の手綱を掴み直す。
「聞かない」
グラスホーンは短く答える。
「僕は、決してジャッジしない。そういう立場にない。どちらにも肩入れはしないし、とにかく今、ここで起きる殺し合いを止めたいと思っているだけだ」
「私たちエルダーが、たかが力の強いだけの短命種ごときに殺される可能性があるとでも?」
「やめるんだ」
ソフィアは不気味なほどに静かに黙っている。フードの下の表情は読めない。しばらくの沈黙があり、フゥ、と彼女が息をつく音がおそろしく静かに響いた。
「その通り。ここは殺し合いをする場所ではないですよね」
「表に出ろってことですかァ?ここ、地下ですけどォ」
「場所を変えようって言ったんです。この狭くてつまらない部屋より、その穴の下に広がるどぶの方がお好きでしょ」
「やめろ、二人とも」
グラスホーンが制止する間もなく、ダークエルフが叫んで飛び退いた。
「思い出した!」
グレイ・グーは箱を小脇に抱え、グラスホーンを指差して侵入してきた穴の脇に低く構える。
「昨日の宮廷会議で話題に出ていた、森エルフサマ」
彼女はグラスホーンを指している。その表情は、喜色であった。ほとんど飛び跳ねるようにして、次に彼女はソフィアを指差した。
「クリーンな貴女が、そんな汚れエルフなんかと一緒に居るの、宮廷会議の皆さんは、知ってるのかしらァ?」
宮廷会議、という単語を聞いたせいか、ソフィアの気配がまた変わった。消えたように感じたと言ってもよいかもしれない。それはおそろしく冷たく、暗い気配だ。見える姿勢は少しも変わらない。彼女はフードの下、やや俯いて両手をだらりと垂らしている。
それなのにグラスホーンは思わずソフィアの肩を掴んでいた手を離してしまった。この二人を繋ぐ直線上に立っていてはいけない、という根源的な警告が彼の生存本能から強く発せられ、彼はほとんど反射的に道を開けた。濃密な死の予感が、ソフィアからグレイ・グーまでを繋ぐ。ほとんど無意識にその線を避けてしまってから、彼は再びそれを遮ろうとした。彼は自身に正しくあろうとした。
だが、その矜持は彼を押し除けて一歩前に出たソフィアによって、さらに脇にやられてしまった。
「どうして」
ソフィアの声はむしろ静かだった。何に対しての問いかけなのかすら判然としない。グラスホーンは得体のしれない圧力に飲まれ、声すら出せない状態だったが、グレイ・グーは違った。
「ビィンゴォ!」
彼女は2本指でソフィアを指し直す。その明るい声は、殺気に満ちた空間ながら、空虚には響かなかった。こちらにはこちらの、場の主導権を引き戻すねっとりとした悪意が溢れている。
「その反応、これは秘密のデートなんだって感じ、ひしひし来てます。ここは、プライドを捨てて、必死になって、私に口止めを“お願い”するところなのではァ?」
グレイ・グーは好戦的な台詞とは裏腹に、まるでにじるように後ずさった。まるで長い髪を翻すように、外套を肩から払う。
「このスクープ、誰に伝えるのが一番、キくのかなァ」
彼女はフフン、と鼻を鳴らしながら、独り言のように名前をつぶやいてゆく。
「微睡のマルスクエア?…だめだめ。あんなポンコツ、まるであてにならない」
「ミス・グレイ」
「それとも“大臣”バンブーシガー?…でもあのヒューム、短命種の癖に腹立つ物言いしかしないしなァ」
「待ってほしい」
「あ、レディ・リィンなんてどうだろう。…でも彼女の場合、そこの汚れエルフさんにご執着みたいだから、ちょっと違うのかなァ」
ダークエルフはグラスホーンの問いかけを無視して、楽しげに顎に手を当てる。
「あ、思いついた」
悪意の塊のような表情、それは、はち切れんばかりの笑顔だった。
「鉄仮面の魔女、グラジット・ミームマルゴー」
ソフィアが俯いていた顔を上げた。
何かが放射されたような圧があった。それは怒りか、憎しみか、正体はわからない。グラスホーンは物理的によろめき、そしてソフィアに対峙していたダークエルフはそよ風を受けるような表情で流した。
再び2本の指をソフィアに向ける。美しいまでの悪意を込めた笑顔のままダークエルフは笑った。芝居がかった独白から打って変わって低い声。
「本日ふたつ目の、ビンゴォ」
声だけを残し、ダークエルフは箱を抱えたまま登場してきた地下への穴に飛び込んだ。飛びつく暇もなかった。
殺さなきゃ、と小さく呟いてソフィアが踏み出す。会話ができる気配ではない。青褪めた冷たいエネルギーの塊が、自動で動くゴーレムのように一歩、止めようのない一歩を踏み出した。
それが正しいかどうかなにひとつ分からなかったが、間違いなく取り返しのつかないことになる予感だけがした。
咄嗟にグラスホーンはソフィアの背中から、彼女を押さえようとした。それは、期せずして抱きしめる形になる。