被監禁日誌(7)
甘い香りは、香木というよりはもっと観念的な匂いのように感じた。それは、おそらく「毒」という概念に近い。清冽な死ではなく、爛れさせ、腐らせてゆく死だ。
先ほどソフィアが開いた床穴の縁に、ぐずぐずとした黒い塊が蠢く。目を凝らしてもその正体が分からない。眼鏡があったとしてもおそらく分からなかっただろう。グラスホーンが目をすがめていると、どん、とソフィアが足を踏み鳴らした。
あっという間に塊はぺしゃんこに潰れて消える。同時に離れた部屋の隅で何かが立ち上がった
「ちゃんと入ってこられないんですか」
凛とした声でソフィアが再びフードを被り、部屋の隅の人影は、ちちち、と舌を鳴らすような音を立てた。
「そりゃあ、まあ、品物の受け渡しの時が一番、気を遣わなきゃいけないからねえ」
狩人のようにまとめた銀の髪、浅黒い肌、尖った耳に真っ赤な瞳。ダークエルフだ。厚手の外套を肩からかけて、人の顔より大きな箱を小脇に抱えている。外套の下は、ほとんど裸のような軽装だ。戦闘職には見えないが、呪術師のようにも見える。
垂れた前髪を払いのけ、2人を見つめる目がすっと細められた。
「あれェ?なぁんか約束が、違う気がするなァ」
彼女がわざとらしく天井に向けて放言し、胸をそらせる。青と白の、布の少ない縞の胸当てが見える。なめらかな腹筋。
「私が聞いたのはぁ、“誰にも見られるな”、だったと思うんですけどぉ」
「……事情が変わりましたので」
「いやいや、そちらの事情なんか知りませんけど。私は、“誰にも見られないで済む”って聞いたからあの金額で仕事を請けた訳で、こうやって知らないどっかの貴族様に顔を見られるリスクとか、聞いてないんですけどォ」
ソフィアがフードの下で大きく息を吸った。目を瞑ったであろうことが背中からでも分かった。
「人に見られたら困るようなことを、私があなたに頼みましたか?」
「ン……?」
「あなたはまさか、法に触れることをしでかして戻ってきたとでもいうつもりですか?私が頼んだ、完全に合法なお願いをやり遂げるために、何か龍の国の法に言えないようなことを?」
「……」
「それとも、あなた、まさかすでにこの国でも誰かに追われている身だとか、そういうことです?」
ソフィアの詰問は剣呑だ。嘲りの中に、慇懃に相手の弱みや瑕疵を突きつけ合うやりとり。これこそ龍の国の正式な作法なのだというジョークがある。宮廷会議でもたびたび目にする対立の進め方。
甘い毒の匂いが濃くなった。
やりとりの風景に対する既視感だけでなく、侵入してきたダークエルフの顔にグラスホーンは見覚えがあった。
彼女はいわゆる「問題児」だ。すでにテクニカギルドからは指名手配扱いをされている。他国でもグラスホーンが知るだけで二つ、龍の国でも同じく二つのトラブルを起こしている人物だ。確か、本名はジーン・ハッシュ・エッジハット。もっとも、最近はニックネームの「グレイ・グー」の方が通りがいいはずだ。
彼女の正体については、気付かなかったふりが成功したかには自信がない。彼女は「どっかの貴族様」と自分を呼んだ。ソフィアの無邪気な誤解と違って、それが森エルフに対する当て擦りであることは明らかだ。事実、彼は貴族階級ではないし、身につけているものにもそう思わせるものは何もないはずだ。グレイ・グーに「グラスホーン・パトリックノーマンマクヘネシー」が認識されている可能性は低い。ソフィアが貴族扱いをするのと、ダークエルフが軽い憎しみを込めて呼ぶのは違う。
彼女に対する嫌悪感を表面に出さないようにすることだけはできただろうとは思う。歴史的に見て、森エルフとダークエルフの対立は深刻だ。
彼自身にはそれほど根深い差別意識はないつもりだったが、グラスホーンの出自では、それが「その人物自体に対する嫌悪」だったとしてもダークエルフに対する差別と受け取られてしまう可能性があった。それはエルフたちにとって一際、気を遣う問題だ。
「返事が、よく聞こえません」
ソフィアが犬を躾けるようにぴしゃりと言うと、わざとらしいくらいゆっくりと、足元に箱を置いてダークエルフは両手を広げてみせた。
「まあ…文句を言いにきたわけじゃないんで、いいですけど」
「不法な行為がなかったのなら、安心しました」
何か言いたげなグレイ・グーは、口を開きかけて首を振った。
「相手がノームだろうと、もちろんヒューム相手だったとしても私たちダークエルフは、契約を守るもの。それが私たちの誇りだからね」
「すばらしいことです。古のもの」
「で、そこの貴族様が見てる前でこれ、渡しちゃっていいの」
「構いません。後ろめたいことは何もないですから」
フン、と鼻で笑ってダークエルフは外套に手を入れ、小さな瓶をソフィアに手渡す。受け取った彼女は、封を確かめてから懐に入れる。グラスホーンからは手の中にあるものがよく見えない。
「こんどの気高い貴族様は、下等なヒュームも平等に扱ってくださるの?」
向かう先のわからない悪意と共に、ダークエルフの赤い舌が覗いた。ぺろり、と唇を舐める肉感的な仕草。森エルフの基準からするとそれは、「きわめて下品」だ。
何かをゆっくりと練るような、濃密でとても長い一瞬があった。
「私の客を、それ以上侮辱したら殺します」
静かを装っているが、ソフィアの気配は爪を剥き出した獣だ。
「私にも、私の安全を保障する権利がある。私も顔を見られている。そのエルダーがどこの誰なのかは知っておきたいんですけどォ」
ダークエルフは怯む気配がない。むしろ一歩、ソフィアの方に踏み込む。
「お名前をお聞きするくらい、許されますよねェ」
ダークエルフの目がグラスホーンを捉えた。
ソフィアが自分の胸に手を当てる。苦しそうな表情だ。その目がグラスホーンに何を求めているのか全く読み取れない。答えを促すようにも、相手をするなというふうにも、どちらにも見える。グレイ・グーは感情の読めない目を逸らさない。ぺろ、ともう一度唇を舐めた。
「ダグラスホーン」
諦めてグラスホーンは、もう一度偽名を名乗った。