被監禁日誌(5)
時間は少し遡る。
グラスホーン・パトリックノーマンマクヘネシーとソフィア・ウェステンラの逃避行は順調だったと言ってもいい。龍の宮廷の地下牢から脱出した二人は、地上へ出ることなく地下迷宮へと潜った。ソフィアは脱出経路をあらかじめ知っていたようだった。
「カフス」によって両手足を拘束された上、目隠しまでされたグラスホーンは細身の、ヒュームの少女に軽々と担がれて運搬されている。
ソフィアは、大きな段差を跳ぶ時や一度地面に下ろすとき、要所要所でグラスホーンに声をかけた。その声は冷静で、むしろ他愛ない会話をしている時と違って、思慮深くも聞こえる。地下迷宮の水道にソフィアの声はくぐもって響いた。
「眼鏡がさ」
荷袋のように担がれたグラスホーンが呟くと、ソフィアが朗らかな声を出した。
「なんですって?」
「眼鏡だよ」
「メガネ」
「そう。視力を良くする道具さ。いや、違うな。正確には視力は良くならない。目が悪いままでも、細かいものが見えるようになる道具のことで、つまり」
「メガネくらい、ヒュームの世界にもありますけど」
「……知ってる」
ソフィアに息切れする様子はない。
「牢に入る時に没収されたままだ。どうせなら返してもらってから逃げ出せばよかったなと思ってさ。まあ、今のところはこの目隠しのおかげで何も見えないから不自由はないんだけどね」
「ご不自由な思いをさせてしまって、申し訳ないとは思ってるのですわ」
「ああ、いや、今のは別に嫌味じゃないんだ」
本当だよ、と小さく呟く。担ぎ直した肩が脇腹に減り込み、グラスホーンは呻いた。
「レディ、何処に向かっているのか、僕は知らない方がいいという配慮だと思っているけれど、それで合ってるかな」
「やだ、痺れちゃう、もう一回言ってもらっても?」
「……レディ?」
身震いして、ソフィアはまた担ぎ直す。
「ご賢察のとおりですわ、ハイネス」
「よしてくれ」
「いいえ、光栄なの。子供の頃から物語で見ていたハイエルフの貴族の方と、こうして肩を並べて共に戦えるなんて」
「肩は…確かにすごく近い位置にあるけど、僕は貴族でもないし別に争いに身を」
「私、きっとマクヘネシーさんの無実を証明してみせますからね!」
グラスホーンは黙る。
歌うような様子の時のソフィアは、全く人の話を聞かない。明らかに「様子が変わる」のだ。そのトリガーが何処にあるのか、いまだに掴みかねている。振り返ってみても、何かがあったような気はする。憎しみだろうか。怒りだろうか。
ほんの少しの違和感のようなものが、耳の奥で何かを囁いている。ハニカムウォーカーと相対した時と同じだ。行動が、言葉がヒントになって、自分は答えに辿り着いている。その予感だけがする。だが今は予感だけだ。あとひとつ、何かが足りない。
跳躍。
ソフィアが歌うように言う。
「私の生まれたところは貧しい村で、みんな仕事で忙しくて、誰もエルフさんなんてみたこともなかったんです」
何かを蹴ったような軽い衝撃。ネズミか何かだろうか。キュ、という断末魔の鳴き声が聞こえた気がした。
「きっと物語と私の人生は、繋がってないんだろうなって、ずっとそう思って暮らしてました」
ソフィアは立ち止まり、彼女の声は地下水道の天井に反射して夜のように響いた。
「おかしいですよね、誰も見たことがないのに。エルフの物語だけはみんな知ってるんです。銀の弓の魔法、蔦の森の都、星海紋の賢者、命の吐息の立てる音」
「星海紋は…もう失われて、どこにも残ってないよ」
「なんてこと!やっぱり物語は繋がってるのね。教えてくださって本当に嬉しい。私が語り継ぐ時にはちゃんと訂正しておかなくちゃ。永遠に失われた星海紋の賢者」
グラスホーンは居心地の悪さを感じている。思わず口を挟んでしまったが、エルフの世界ではさして珍しくない事柄を、憧れの英雄譚のように語られると、まるで自分が偉くなってしまったかのように誤解してしまいそうになる。
まるで魅了の魔法のようだが、ソフィアからは一切の魔素を感じない。欠片も、ほんの少しの欠片さえも。
「君は、そういえば、聖職についているんだったっけね」
ふとグラスホーンが口にした途端、ソフィアの手が腰に回された。ぐるん、と重力が回転し、足先が地面に着く。
「着いたわ」
頬に触れた手が、しゅ、と目隠しを取り去る。
あたりはそれほど明るくない。眩しさはなかった。
グラスホーンの前にあったのは、焼け焦げた扉の残骸。火事の跡が残る洞穴のような横穴への入口だった。よく見ると、護法封が小動物などの侵入を防いでいる。
ソフィアが中空を引き裂くようにして護法封を破った。
「しばらくは、ここで人を待つの」