「鉄血(10)」
フェザーグラップ・アンデレックは自分の奥歯を噛み割ろうとしているような、わかりやすい「怒りの表情」を見せた。
「交渉だと?」
「そうだよ。貴方と、貴方の傭兵団は割合、話が通じるよなって感じてるんだ。アマブルーダのアサシンギルドより一千倍マシ。ああ、ゼロには何をかけてもゼロだから、こういう時はなんて言えばいいのかな」
「舐めるな」
低く、傭兵団の当主が息を吐く。シンプルな怒りの色から、声が硬く、冷たく変わる。
「いいか、俺が条件を出す。お前はそれを聞く。それ以外の選択肢はねえんだ」
「ンッフ!マッチョだなあ!」
ハニカムウォーカーは愉快そうに笑って彼から目線を外す。
人質の喉に、また少し刃が食い込んだ。
「まあ、確かにミスタ・ザーグ、貴方がこの人を見捨てるとしたらわたしの勝ち目は多分ゼロだ。わたしと貴方は、ちょっと、あんまりにも相性が悪い。わたしだって弱いわけじゃあないが、今、現時点に関しては、たしかに対等の関係とは言えないね」
「分かってるじゃねえか」
「でも、わたしはどうにかして話を聞いてほしいんだよ」
「知ったこっちゃねえな」
「オーケー。じゃあ、こうしよう」
不意に手を離し、暗殺者は人質を解放した。
よろけて、膝をつきかけた人質はなんとか踏みとどまり、折れた肋骨の痛みに顔をしかめた。全員の目が彼に向いた瞬間、ハニカムウォーカーは再び姿を消す。ザーグですら一瞬、彼女を見失った。
暗殺者の行方に全員の意識が奪われた瞬間、声はザーグの死角から聞こえてきた。
「一発だけだよ、モー」
言い終わるのを待たなかった。
ザーグの脇腹にベティ・モーの渾身の拳がめり込む。めぎ、と太い繊維が軋むような音がする。モーはそのまま振り抜くつもりだったが、ザーグの異常な体幹がそれを阻んだ。モーは拳の軸を僅かにずらし、自ら回転することで手首が折れるのを防いだ。
傍目からはとうとう一撃を喰らわせたモーが、反撃を避けて離脱したように見えたかもしれないが、当事者である二人にだけはわかる。不意打ちは成功したし、それなりの手応えもあったが、深いダメージを負わせるまでには至っていない。むしろ、その異様なタフネスが次の一手の選択肢を奪う。どう攻めるべきか。
体勢を立て直そうとしたモーの方に向き直り、ザーグが両手を広げた。
「小さいのに、やるな、お前」
その表情は嘲りではない。凄烈な、純粋戦士のそれだ。不意打ちを喰わされた怒りはそこにない。闘争の沸き立つ喜びもない。相手の膂力と技術を認め、そしてそれを上回る己への信頼が、瞬きの間にまるで彼を何歳も若返ったように見せた。
それは歴戦の戦士の凄みだ。
小さく身震いしてベティ・モーは再び拳を構えた。片側を下げ、ナックルを水平にして相手に向ける。彼女の唇の端にも、少しだけ笑みが浮かんでいた。
彼女も長らく、本当の闘争に身を投じていなかった。自分より弱いもの、覚悟のないものを相手にするのはただの蹂躙だ。決して闘争ではない。圧倒的な暴力のもたらす、恐怖や畏敬といった副次効果を狙って振るうのは、到底闘争と呼べるものではない。
彼女が好きなのは蹂躙ではない。ただ、それが最も得意なことだったから暴力の世界に身を置いただけだ。彼女がはたして何を本当に「好き」なのかは彼女以外の誰にも分からない。
両手の届く範囲、蹴りの届く範囲。構えから形成される「武の領域」が少しずつ輪郭を持ち、そしてザーグが応えるように構える。
二人それぞれの領域がじりじりと広がってゆき、張り詰め、触れそうになる刹那、不思議なほど平静な声でザーグはモーを見た。
「さっきは指さして悪かったな。俺は今から」
「二人とも、やめろ!」
今度は、フランチェスカがよく通る声で割って入った。
それは怒声ではない。単純に地声が大きいだけだ。どんな場面でも一切の空気を読まない。おそろしく通る声が二人の緊張を破った。彼女は自分の介入が二人の戦闘気配を消散させたことを確認し、首を振った。
「もうやめろ。腕試しをしたいなら次の機会にしてくれ。ザーグ、了承を取った上で彼女の連絡先を教える、何か問題は?」
「……こういうタイプの人に連絡先とか、教えたくないんですけど」
「モー。先に手を出したのはそちらだし、今、フェザーグラップ・アンデレックは珍しく自身の無礼について詫びたぞ。それでも続けるのか。身軽の民の社会人は、そういうのでいいのか」
「でもこの人」
「今、一発殴っただろう。それも見逃すと言っているのだ。それだけでは足りないというのか」
「だって」
「ザーグ!」
「なんだよ」
「ほかに何か問題は?」
こちらも完全に気が削がれている。しばらくの沈黙があり、頭を掻いて彼は、ばそぼそと何かを呟いた。フランチェスカが余計に大きな声を張り上げる。
「モー。彼はそれでいいそうだ。二人は後ほど、連絡先を交換しておけ」
見ると、ハニカムウォーカーはこのやり取りの中、入り口のそばに移動していた。
「メアリ!」
一段大きい声だった。
「私とモーを置いて、一人で逃げるのか。君の友情というのは、その程度のものだったのか」
降参、というふうに両手を上げて、ハニカムウォーカーは困ったように笑った。
「そう言われちゃうと弱いね」
「だったらこっちに戻ってこい」
「チェッカがこっちにおいでよ。わたしは蛮族の隣より、出口に近い席の方が落ち着く。それに、なんていうかそっちの床、汚れてるしさ」
「大丈夫だ。フェザーグラップは野蛮だが話がわかる。借りは必ず返す。そういう男だ。君はダイスを殺せるのに殺さずに解放した。経緯はどうであれ、これは彼にとって大きな借りだ」
「おい」
「今のが借りではないというんですか。私の知るフェザーグラップ・アンデレックは、なによりも名誉と」
「もういい、やめろやめろ」
彼は心底嫌そうにフランチェスカを遮り、血に汚れていないスツールを引いてどかっと座った。不機嫌そうに、ハニカムウォーカーを斜めに睨み、横柄に足を組む。一拍おいて、口を開く。
「フラ子がそれだけ庇うということは、つまり、そういうことなん」
「ザーグ!私の足元で動き出した奴がいる。この感触、団員ではないな。この人物をどうしたらいいのか教えてほしい。私はここからどいた方がいいのか」
「……女どもは、人の話をぜんぜん最後まで聞かねえな!」
赤襟の当主は心底うんざりしたように再び立ち上がり、馬鹿野郎、言われなくてもどけ、とフランチェスカを大きく手を振って追い払った。
踏んづけた感触で仲間を判別するんじゃねえよ、と続けて小さく呟く。案外、丁寧な性格のようだった。
不明瞭な悪態を吐きながらドアの残骸の下から這い出そうとする“宮廷からの借り物”を背中に、彼は再度、ハニカムウォーカーの方を見た。
残りの傭兵の一人は両の肋骨を折られた仲間に肩を貸し、もう一人はドアから這い出す手助けに入った。気勢を削がれたベティ・モーも、手持ち無沙汰になって手洗いの方を見ている。
一瞬前まで破裂寸前だった空気が弛緩していた。
「黒ツノ、こっちに来い」
「え」
「え、じゃねえ。条件を出すのは俺だ。お前はそれを聞く。そのことに変わりはねえ」
「……やだな」
「わざわざ聞こえる声で言うんじゃねえよ。いいか、その程度の距離は、十分“届く”んだからな」
ハニカムウォーカーは観念したように肩をすくめ、ゆっくりと店の奥に向かって踏み出す。
「お前たちは好きなところに行け。見逃してやる。そのかわり」
呼びつけたザーグは威圧する声ではない。むしろ親しみのもてる声色といってもいい。不機嫌を装っているが、既に怒りも、疑念もそこからは消えていた。そこにあるのは、冷静な戦士の落ち着き、そして。
「聞かせてもらうぞ、うちの倅のこと。……お前、何か知っているだろう」
一人の父親の声に、ハニカムウォーカーの足が、ぴた、と止まった。