「鉄血」(9)
ザーグ・アンデレックの構えは奇妙だ。
少し腰を落としてはいるが、両の踵も接地しているし、ただ無造作に半身になっただけのようにも見える。正面の右手は開いたまま、ゆるく握った左拳だけが平時と違う。
彼の戦闘スタイルは基本的に無手、つまり武器を持たずに始めることが多いが、それは相手の初撃を待ってから始めることを意味しない。超攻撃的。彼の戦闘を目撃したものは誰しもが「攻撃的」という言葉の定義を再編する。
大きな顎の、頑固そうな口元がへの字に曲がる。ふ、と息を吐く音と共に一歩、たった一歩踏み出すとハニカムウォーカーとベティ・モーが大きく飛び退いた。
「黒ツノォ!」
ザーグが大声で呼ぶ。びりびりと床が鳴るようだ。
大声を受けたせいか、珍しくよろけてからハニカムウォーカーが口元だけを笑顔の形につくる。表情は決して愉快そうではない。
「失礼だけど、名前も聞かずに女殴りそうな顔してる」
「一度も言われたこと、ねえなァ!」
二歩目はまるで瞬間移動のようだった。少し遠い間合い、開いた右手を前にした構えだったはずが、次の瞬間には目の前に居て、しかも左の拳が当たっている。
一拍遅れて、ど、とハニカムウォーカーが壁際に飛んだ。壁の血が、当たった肩の形に伸びる。ずる、という音と共に彼女は、乱れた髪の合間からザーグを見る。実質的なダメージはそれほどないようだが、何か言いたげな表情だ。
「訂正、男女差別なしの、ごほっ、真のジェンダーレス時代が待ち望んでいたクソの化石だ。他に形容詞が見つからない。ああ、褒めてるんだよ、これ」
「そりゃ、どうも」
二撃目。ザーグはまた瞬時に距離を詰め、今度は暗殺者の髪を掴んだ。
モーが止めようと腕を掴んだが、振りほどくというよりは弾かれるような音がして、尻餅をつかされる。
「一度にひとりずつだ、大人しくそこで待ってろ。後で相手してやる」
暗殺者の髪を掴んだまま、太い人差し指を突きつけるとモーの目の色が変わった。
「今、私のこと、指さしました?」
口調こそ丁寧だが、モーから放たれるゾッとするような殺気。
その隙を突くように、掴まれた自分の髪ごと斬り落とす勢いでハニカムウォーカーの短剣が走った。掴んでいた手が離れ、何本かの毛筋がぱらぱらと舞った。掴んでいた手こそ離したがザーグはすぐには避けない。ハニカムウォーカーが逆手から順手に短剣を持ち替えて、初めて少し距離を取る。
「おじさんさ、あんまり血が昇ってるなら、ちょっと血を流した方が話聞けるようになるかな」
「あんまりナメられてるのもムカつきますしね」
モーが立ち上がり、ハニカムウォーカーが正面に短剣を構える。ハニカムウォーカーの表情は相変わらず読めないが、モーの目には明らかな殺気が見える。
「フラ子ォ!」
ザーグが吠えると、後ろで渋い顔をしていたフランチェスカはその顔のまま首を振った。
「個人的には、ザーグ。冷静になるべき、という彼女の意見に賛成だ。腹が立つとは思うが彼女らの話を聞いてやってほしい」
「うるせェ!てめえは、今すぐその足を退けろ!」
「これか?」
フランチェスカがとんとんと扉の下敷きになっている傭兵を刀の先で差した。
「あんまり意地悪するんじゃねえ、そいつは宮廷からの借りもんだ。怪我するのは勝手だが、死なれると後で面倒く」
言い終わる前に、その正面にモーが飛び込んだ。
「うおっ」
ザーグはその初撃をいなすが、そのままラッシュだ。モーの勢いも止まらない。
「おい、人が話してる途中だろうが」
「うるっせえです」
「後で相手してやるって言って」
受け止められた拳を起点に、浴びせるようなモーの蹴りがザーグの肩口を掠める。び、とドレスシャツが破れた。ザーグは掴んだ拳ごと、モーを振り回して床に叩きつけた。びたん、と痛そうな音がしたが、モーはすぐに起き上がって距離を取った。片手で鼻血を拭く。
「もう一人は」
見回すザーグの視界の端で、肋を折られた部下が見えた。背後に、影のようにハニカムウォーカーが忍び寄っている。警告の声を発する間もなかった。
がっ、と動物が吠えるような音がするのと同時に暗殺者は傭兵の片手をねじり上げ、喉元に短剣をしっかりと当てていた。
「おじさん」
暗殺者の静かな声。
「この人、やっぱり肋折れてるよ。念のために今、反対側も折った。もう折れてないなんて言わせない」
ザーグは動かない。モーとハニカムウォーカーは、ほとんどザーグを挟んで対角線上にいる。警棒の傭兵二人が予備動作のように大きく息を吸ったが、ザーグが制した。拘束された傭兵の苦しそうな咳。
「すぐに殺さねえのは、理由があるよな」
「思ったより話がわかる人で嬉しい」
「俺もだ」
ハニカムウォーカーは、拘束した相手の喉に薄く刃物を食い込ませた。呻き声。
「わたしは今からここから出てゆくし、おじさんの部下もひとり、連れてくけど、にこやかに見送ってほしい。あと、モーにもひとこと謝ってほしい」
「メアリ!」
フランチェスカが大きな声を出した。彼女はまだ戸板から動いてはいない。ザーグがフランチェスカも手で制する。
「黒ツノ、どうして俺に人質が効くと思った」
「知ってるよ」
ハニカムウォーカーは微かに笑顔を見せた。少し悲しそうな笑顔だ。
「赤襟には、弟が入団してるんだ」
「……嘘だろ」
「ンフ。そうだよ。たしかにそれは嘘なんだけど、赤襟の傭兵たちの死亡率とか離職率の低さは知ってる。赤襟は蛮族みたいに見えるかもしれないけど、メイドから番犬まで全員が家族なんだって、羨ましいって、そこのチェッカが泣きながら寝言で言ってた」
「言ってない」
「ああ、ああ、そうだ。ごめん。言ってなかったっけ。でも、無駄にメンバーを死なせるような組織じゃないってのは本当でしょ。血が繋がってなくても、家族みたいな傭兵団。ねえ、フェザーグラップ・アンデレック」
ぐう、とザーグは唸る。
その顔に浮かぶのは怒りか含羞か、彼は複雑な表情を見せる。
「別に貴方たちは、元々このわたしを追ってきたわけじゃない。そうだね」
返事はない。ハニカムウォーカーが急に真面目な顔を見せた。
「だったらこんなところで意地張って喧嘩して死ぬのなんて、まさに無駄死にだ。わたし相手に手加減してみせた貴方が、部下にそんなことを許す訳がない。足し算引き算は出来るし、拾える命なら拾う方でしょ、分かってんだ。それに、信じてもらえないかもしれないけどわたしたちが来た時にはすでに半分くらいこんな感じになってた」
くい、と人質の顎をあげさせる。刃物から滲む血が、彼の喉を伝う。
「貴方、野蛮人みたいだけど馬鹿じゃない。あんな暴君みたいなこと言っておいて、合図して彼だけ後ろに下げたの、わたし見てたよ」
ハニカムウォーカーは、にっと唇の端を吊り上げた。
「まあ、見てたからこの人襲ったんだけど」
「黒ツノ、てめえ」
「ハニカムウォーカー。ハニカムウォーカーだよ。おじさん。よく知らない男性からあんまり親しげに呼ばれたいとは思わないけど、どうしてもって言うなら、メアリさん、って呼んでもらっても構わない」
暗殺者はようやく親しげに微笑む。
「ミスタ・ザーグ。交渉を、始めようか」