「鉄血」(6)
扉が開くと、まるで中から何か、吹き出したものに当てられたかのようにフランチェスカがよろめいた。その表情は驚きに近い。発作だろうか。左手が、再び震えるように眼帯を押さえている。一転して表情はつよく、きつく、手洗いの扉に向けられている。
回転して踏み留まり、彼女は刀を逆手に持ち替えた。右側を前にしての体当たり。死体の一つを突き飛ばしながら斬り、彼女はハニカムウォーカーを追う。
雑音が消えた。
吸い寄せられるようにハニカムウォーカーは手洗いの中に足を踏み入れた。
血塗れの店内とまた違う、奇妙な静けさが手洗いに満ちている。それほど衛生的とは言えない床、壁。薄暗い。ぺた、と足音が響く。
奥の壁に、誰かがまるでそこにしつらえたオブジェのように、年若いエルフが座り込んでいた。ハニカムウォーカーはまるで魅入られたように、ぺた、ぺたと近づく。彼女は一言も声を発さない。
エルフの片耳は過去の戦闘か、あるいは追放の印か、随分昔に欠けたようだった。彼の身体は血に汚れていた。グラスホーンではない。勿論店主でもない。ハニカムウォーカーが会ったことのないエルフだ。どこかで見た記憶もない。まだ年若く見える、軽装のエルフ。魔術職ではない。レンジャーかなにか。軽鎧だ。肩の紐がひとつ、ちぎれて下がっている。
足を投げ出し、便器の横の壁にもたれている。その鎧の隙間を突いた攻撃でであろう幾つかの傷跡。綺麗なままの左手と対照的に、折られて、めちゃくちゃになった右手の指。
うつろだったエルフの瞳が、僅かに動いた。視界に、彼女のつま先が入ったのだ。彼は、僅かに視線を上げ、そして微かにゆっくり、まばたきをした。
死体たちは、生命の匂いを鋭敏に感じ取る。体温に群がる。外で戸をひっかいていた指たちは、この微かな、消えかけている生命を求めていたのだ。
エルフは顔を上げようとした。喉の傷が見えた。どう見ても致命傷だった。横に平たく、裂くように突き刺した特徴的な傷。それは剣によるものではない。
傷を見て、息を呑むようにハニカムウォーカーは彼に手を伸ばしかけ、そして止めた。
「誰だ」
掠れるような声で、ハニカムウォーカーは唇を震わせる。
「誰にやられた」
それは不意に訪れた激情の色だ。さっきまでの軽口からは想像できない、猛烈な怒りの色が彼女の目にあった。
さらに一歩、近寄ろうとすると、最後、ゆっくりとしたまばたきの途中でエルフは事切れた。もう、その目には光がない。白いまつ毛は動かない。
「クソッ!」
ハニカムウォーカーは傍の扉を強く殴りつけた。
遅れてフランチェスカが足を踏み入れる。立ち尽くす暗殺者と、事切れたばかりのエルフを見て彼女も動きを止めた。左目の眼帯を押さえていた手がゆっくりと降りる。
「…彼に見覚えは?」
絞り出すような声での問いかけ。
死んだエルフに近寄り、しゃがみ込んで傷を調べていたハニカムウォーカーは、ないよ、と冷たい声で背中越しに返す。
しばらくの沈黙。躊躇うような間があり、彼女は再び口を開いた。
「表にいる連中の中にも、似た傷をつけられたやつがいた」
音なく立ち上がり、肩を落とした彼女の背中には形容し難い凄みがある。タイルの壁をもう一度、どん、と殴り、ハニカムウォーカーは天井を仰ぐ。
「わたしは、この傷をつけたやつを、探さないといけない」
一瞬だけ垣間見せた感情の爆発は、彼女の意志の力によるものか、完全に蓋をされていた。それはなんの感情も感じさせない、ささやきのような声だ。
「追っているのと同じ傷だ」
ハニカムウォーカーは振り返る。静かな表情だった。
それは彼女の記憶から決して消えない傷だ。屈託なく笑う少年。汚れた弟の頬を拭う、騎士試験を受けた少年の姿。窓から、通りを眺める彼女に手を振った姿。
それは世界から永遠に失われた微笑みだ。
天気雨が降った日の午後。冷たく、床を見つめる虚な目。
両足を投げ出した姿勢、喉に残された特徴的な傷。
たった今死んだエルフと同じ姿勢だった。宮廷で殺された少年騎士、ヴァレイ。彼の背中にも傷はなかった。エルフの身体を詳しく調べるまでもない。同じ傷だ。おそらくは、貫手か、棒状の何か。ある程度弄び、そして最後に付けられた、とどめの傷。
「チェッカが誰の死体を探しているのか知らないけど、わたしはわたしで、この傷をつけたやつを探している」
普段の、掴みどころのない笑顔ではない。彼女はフランチェスカに顔を向けているが、本当の意味では彼女を見てはいない。その瞳は過去に、過ぎ去ったものを見ている。
「こいつは見つけ次第殺す。必ずだ」
乾いた、涙の跡のような声。
そしたらチェッカ、わたしを捕まえるかい。ハニカムウォーカーは無感動に付け足した。答えを待つ声ではなかった。途方もない空間に置き捨てるように彼女は呟いた。
いいよ、その時は捕まってあげる。
フランチェスカは何も言わない。
彼女の位置からも、倒れているエルフの姿は見えた。フランチェスカもまた、その座ったまま死んでいる姿に見覚えがあった。
彼女は少年騎士とハニカムウォーカーの関係を知らないが、彼女の所属する赤襟傭兵一族は宮廷内で起きた殺人を追う立場でもある。少年騎士、ヴァレイを殺した犯人はまだ捕まっていない。
衝撃的な事件だった。
まだ年若い騎士を、大胆にも龍の宮廷の中で誰かが殺した。
いつもであれば真っ先に声高に誰かの責任を糾弾するリィン・スチュワートキャニオンスクラムキルグラスハートヨルスクリームは、完全に無関心、我関せずの姿勢を貫いている。ただ、犯人は彼女ではない。根拠を示せば長くなるが、彼女ではないことは確かだった。
彼女は、いや、宮廷会議の面々は、今、それどころではないのだ。
フランチェスカは頭を振る。
宮廷の連中のことは関係なかった。
この、死体が無秩序に蠢いては破壊されてゆく酒場にあって彼女を責め立てているのは、任務の情報でも、暴力への嫌悪でもなかった。彼女の脳の内側で彼女を責める彼女自身の声。彼女であって彼女でない声。煮えるような憎しみ、怒り、絶望。
他のことを考えて押さえ込み、その声に耳を貸さないようにするのももはや限界だった。
フランチェスカの脳に響く声。
彼女のものではなく、それでいて紛れもない彼女の記憶。
それは眼帯の下の左眼が見た、過去の景色だ。
彼女は死んだエルフの姿に見覚えがあるのではない。その傷をつけた「誰か」を知っているのだ。正確には、彼女の中にある記憶の主が、その「誰か」を知っているのだ。
彼女は涙を流す。フランチェスカはヴァレイの死骸が置かれていた現場も見た。同じように、彼女の中にいるアスタミラ・チェイニーも、ただ彼女を絶望させるためだけに殺される妹を見た。
同じ姿勢、同じ傷。
胸を押さえ、フランチェスカは大きく息を吐いた。これは本当の記憶なのか。身体が竦むほどの悍ましい記憶。嫌悪感。痛み。発作のような耐え難い恐怖。それはおそらく、死霊術師の痕跡に連動している。ここには、たしかに死霊術師の残穢が満ちている。
アスタミラは死霊術師への復讐を望むのか。
分からない。
フランチェスカは、仇と対峙した時、立っていられるのか。
分からない。
確かなのは、アスタミラを苛んで殺した死霊術師は、フランチェスカ自身にとっても仇でもあり、そしてハニカムウォーカーにとっても同じだということだ。
「メアリ」
フランチェスカはハニカムウォーカーを呼んだ。
「私は…その女を探す手伝いが出来るかも知れない」