所感。
人と意思の疎通を図るのが苦手だ。
個人的に、自己分析したところによると、己は過度に論理的であることを求めすぎて融通が利かないのだ。言葉に対するこだわりも強い。極端な話、明確にイエスノーのある質問にしか答えを出せない。いや、場合によってはイエスノーの問いにも答えられない。曖昧な言葉で問われると、何を答えればいいかわからなくなる。この場合、曖昧な言葉とは、話している双方の間で明確な定義の合意を得ていない言葉のことである。
世の人は曖昧な言葉を使いすぎだと私は思う。言葉の定義が明確になっていないことに対して無頓着というか。自他の感覚の不一致に対して無理解というか。
私は己の感覚が他者とずれているというか、偏執的なところのあることを自覚している。本当に相互理解をするということが困難であることを日々理解させられている。生きることがしんどい。
念のために言っておくと、この生きるのがしんどいというのは、文字通り、生きているだけで身体的にしんどいという意味で、死にたいという意味ではない。生きているとしんどいので、死んでしまえば楽なんじゃないかとは思うが、死にたいと思ったことはない。積極的に死にたいわけではない。でもまあ、死んでも構わないっちゃ構わないかもしれない。やりたいことは残っているが。
そもそも、何がしんどいかといえば、常に体調が悪いのだ。不調にひっぱられて活動ができなくなる、我慢が出来ない、というわけではないだけで、常に怠かったり痛かったり苦しかったりするところがある。生きているだけでえらい。ゲームで言うなら、常に毒とか呪いとかのバッドステータスが乗っている状態で行動しているようなものだ。そこに生理だの風邪だの下痢だの喘息だの、他の明確なバステが重なって活動困難になって薬を飲んだり医者にかかったりするわけである。言ってみれば、常に活動限界の周辺をふわふわしている、下の上くらいの体調なのを、明確な病などが重なって下の下になったのを体調が悪くなった、と言っているのである。要するに、訴える病状は常に最後の藁、His the last straw that breaks the camel's back.であって、それがしんどいかといえば、常にしんどいのだ。だから、どれくらいしんどいかと問われても困る。例えば、毒で毎秒HP1減少だったのが更に毒が重複して毎秒HP2減少になったとして、それが悪い、拙いことになったのはわかっても、どう拙いのか説明できるかという話である。ゲームならHP減少値は作品によるが、少なくとも己の最大HPや現在HPはわかるが、現実ではわからない。
体調が悪いかと問われれば、常にイエスと答えざるをえない身の上である。我慢できないか、鎮痛剤など必要か、と問われればそれはその時による。体調が良いという定義が、不調が一つもないという意味ならイエスと言えることはない。不調部分はあるが活動できないほどではない、意識から外すことができる、というのが私の"体調が良い"状態だ。
私は多分、健康であったことがない。苦痛に耐えることが常態になっているため、苦痛に耐えるという苦痛に鈍感である。苦痛には耐えるか、それを緩和する対処をして治まるのを待つしかないという承知をしている。医者にかかろうが服薬しようが、結局効果が出るまで時間がいる。苦痛はなくならない。生きているだけでえらい。
苦痛のあることが日常すぎて、いつあったかなど覚えていられない。いつずれた眼鏡を直したとか、頭をかいたとか、背伸びをしたとか、そんなこと明確に全部覚えている人なんてそうそういないだろう。興味を持って記録を取らねば無理だ。だから私も基本的に覚えてない。何かい鼻をかんだとか、頭痛がしたとか、腹痛がしたとか。服薬頻度は一応覚えている。その日の内くらいは。
医者の言う、胃がムカつく、とかそういう表現がよくわからない。内臓的な痛みで私がわかるのは、例えば、刺すような痛みとか、締め付けるような痛みとか、ズキズキするとか。あと、全部腹の中のもん出せば収まるタイプの腹痛と吐き気だな、とか。気持ち悪い、気分が悪い、吐き気がする、吐きそう、吐いた、は同一の感覚ではない。説明は難しいが、吐き気なく嘔吐して気分が悪い、という状況はある。あった。
私が身体感覚を精神から切り離しがちだというのもあるかもしれない。良くも悪くも客観的に見れるというか。




