塔の人─あるいは、老人とその弟子の話
全てフィクションです!
また、『性善説』の概念に通じるような作中の台詞があります。
───それを運命だなどと呼ぶのでしょうか。
「また、こんなところで本を読んでいたのかね?」
「あ、先生。」
夕陽の差す塔の中。本を巡らす螺旋階段。一冊抱えた少年がひとり。上から細長い影が降った。
「もうすぐ夕食だ。下に降りよう。」
「そうだね。」
影の主はひとりの老人。たくさん髭を蓄えた、背筋の通ったおじいさん。
「何を難しい顔してるのよ?」
「さっき読んでた本が気に入らないの。」
塔の底には娘がひとり。鍋には白く湯気のたつスープ。
「気にいらないって、あんたねぇ。」
「なんなら、自分で書き直したらどうだね?」
木の机には三皿のスープ。娘は籠からパンを取り出す。
「そうしようかな。」
「何言ってんのよ。素人が書き換えたら面白くないに決まってる。」
三人の間には夕食の料理。少年は娘からパンを受け取った。
夜は明ける。三人の寝床はそれぞれの階。最初に底に降りたのは 、早起きの娘。
「あら、おはよう。」
「おはよう。」
続いて目をこする少年。
「おはよう、二人とも。」
「おはよう、先生。」
最後にいつものローブを纏った老人。娘は桶を片手に外へ出た。
真昼の太陽は塔の真上に。老人と少年はお仕事中。大きな紙の上顔を突き合わせる。
「まぁ、こんなもんだな。これはこのまま依頼者に返しなさい。」
「はい、先生。」
少年は、大きな紙をくるくる巻いて、糸をかける。
「ところで、気に入らない本の話はどうなったかね?」
「ああ、昨日の。やっぱり書き直せないよ。悪い奴がいなくなったらいいのかなって思ったんだけどね。そしたら物語が始まらないんだ。」
やがてかたんと腰掛ける。古い傾いだ丸い椅子。隣りに並んで二つ。
「なるほど。あれは確かに悪人だな。だけどなぁ、私はそれほど嫌いになれんのだよ。」
「え・・・。何言ってるの先生。すっごい悪い奴だよ。あんなのいない方がいいって。」
老人はその髪を、くしゃりくしゃりととかき回す。幼さを脱ぎ捨てる前の少年の、ところどころ絡まる髪。
「“根っからの悪人”という奴がこの世に本当におるのか、まだわからん。どうも、誰一人として根までは腐ってないように思えるのだよ。」
「根?悪いと知っていて、悪いことをしたら、みんな悪人だよ。」
少年の、顰められた眉。老人の、少年をみる優しい目。
「お前もいつかわかるのかね。それとも、私は私の望むように悪人の中に良心を見出しているのか。」
「先生、難しいこと言わないで。とりあえず僕はあの本を書き直せないよ。悪い奴もいないと話が面白くなくなっちゃう。」
かたんかたん。少年は安定しない椅子を面白がるように鳴らして俯く。
「そうかそうか。─さて、降りることにしよう。そろそろ昼食だろうから。」
「うん。」
それからいくつか月が巡って、季節が巡って、塔の少年は青年に、娘は母になった。老人だけが老人のまま。
「先生、今日の仕事はこのくらいで。」
「そうかい、間に合うならそれで構わんよ。」
昼過ぎの暖かな窓辺、二人だけが塔の中。娘は街で妻となり、母となった。
「私のいない塔にお前は一人でおるんだろうかね。」
「先生、どうしたんです急に。」
ぼんやりする老人。ゆるやかに曲がった背。
「いつか、お前は悪人のいない物語はつまらないはずだと言ったね。」
「はぁ、そうですか?」
青年は机上に散らばる筆を集める。
「悪人がこの世に必要だとして、その物語を楽しむのはきっと、この世をつくった者だろう。」
「神、とでも言いだしますか。本当にどうしたんです、先生。信心深いわけでもないでしょう。」
壁際の棚の本の背を、老人の細い指がなぞる。
「神がこの世を楽しむために悪人が必要なのかもしれない。この世界という物語を楽しむために。」
「・・・。」
青年は老人に顔を向けないで、薄い声に耳を澄ます。
「私はやはり、根っからの悪人をみつけることができなかった。」
「先生、何が言いたいんです。悪いことを、自分の意思でやったなら、悪い奴なんです。許されるべきではないんです。人でないもののせいになんてしないでください。」
少年であることを辞めた、あるいは幼さを捨ててしまったその男の背を、老人は宥めるように撫でた。
「お前の両親は確かに許されないことをしたが、おかげで私はお前を得た。一人で過ごす塔はつらいものだよ。お前に仕事を教えながら暮らしたこの十数年、私は幸せだった。」
「・・・あと十年は幸せに暮らせますよ。先生は、長生きします。歯も揃ってるし。足だって悪くないでしょう。」
青年の指が、無意識に乾いた筆の先を玩ぶ。
「どうだろうね。思い残すのは、お前が一人になることだけだが。」
「大丈夫ですよ、一人で。寂しくなったら弟子をとります。先生みたいに。」
老人は表情を綻ばせた。くしゃり、とでも音がしそうな皺がよる。
「そうしなさい。出来れば、早いうちに弟子を育てて、お前は時折街にでるといい。」
「街に、ですか?」
青年は老人の微笑みを見なかった。けれど、その声に滲む笑みを拾い上げる。
「きっと、優しいお嬢さんに出会えるよ。あぁ、もう出会っていたんだっけ?なんならお前の子を弟子にしてもいいね。」
「何を、言って・・・。」
自分の後ろに立つ老人を振り返ろうとして、青年は自分がずいぶんと大きくなったことを知った。
「お前自身は悪人ではない。何一つ恐れることはないよ。たとえこの世に悪人が必要で、世界が、環境が、状況が、お前を悪へと掻き立てても、お前はきっと屈しないだろう。」
「先生・・・。」
昼のぬるい風がさわさわと、机の上、折れた紙の端を揺らす。
「屈したとて、お前は私の可愛い弟子だ。」
それから三つ目の冬を来せなかった老人を、青年は看取った。母になった娘は、そのまた娘と共に、床につく老人を見舞った。
夜に沈む塔の中、冷たい塔の温かい灯。青年は一人、冷たい杯の温かい酒を煽る。老人の遺した一本の酒は青年の独り立ちへの餞だったのかもしれない。
よく人生は『謳歌』すると表現される。他者と声を合わせて歌うようによりそって生きる。あるいは、生きるよろこびを歌うように心のままに生きること。なるほど、私たちの生が、私たちを造った者の書く戯曲なら、その物語は歌うものだ。物語にはきっと、悪役だって必要なのだ。私たちはそれを割り切れないけれど、空から眺める誰かは面白がっているのかもしれない。私たちは筋書きに誘導されて。
───それを、運命だなどと呼ぶのでしょうか。
先生、僕は僕の思うように生きてみても、いいのですね。
悪役であるようにと誘導する筋書きがあったとしても、抗ってみせよう。筋書きは筋書きでしかない。演じるのは自分自身。
それからいくつかの春が過ぎて──
今日も塔は賑やかだ。
稚拙な作品にここまでお付き合いいただき、
ありがとうございます。
テーマは『人生は自分次第』です。
何となく背景になにかありそうな感じを漂わせつつ、あえてひとつも言及しません。老人と弟子の雰囲気を楽しんでいただければと思います。