約束のあの場所で。
『またね』
そう言って別れた彼女はその日、家に帰らなかったのだという。
通学路に残されていた学生鞄を拾ったのは、彼女と同じ道を使って通勤していたサラリーマンだった。
道の真ん中にぽつりと落とされた黒い学生鞄。
投げ捨てられたというよりは、ただ、上から落ちたという感じで置かれていたのだという。
なぜこんなところに学生鞄が落ちているのだろうと不審に思い、周囲を見回したけれど人影すらなく、彼は鞄の校章とふたの裏に記載されていた学校名から電話番号を調べて、中学校に直接連絡を入れたそうだ。
ちょど夕日が落ちたばかりの時間帯、連絡を受けた担任が彼女の自宅に連絡をするが、両親共に働きに出ていた彼女の家にはまだ誰も帰っていなかったそうで。
彼女の母親が学校からの電話を受けたのは、夜の7時過ぎだった。
仕事を終えて自宅に帰ってきたところ、娘が帰っていないことに気づき、居場所を確認する為に彼女の携帯に電話を入れたところだったようだ。
いくら鳴らしても留守電にさえならないことに違和感と、微かな不安が過ぎる。
友人宅にでも居るのだろうと軽く考えていた母親は、そのすぐ後に学校から入った連絡に青冷めた。
学生鞄を道端に残して消えるなんて、どう考えてもおかしい。
実際、娘は自宅に帰って来ていないではないか。
携帯電話が発見されるのはそれから更に数日経過してのことだった。
彼女の学生鞄が落ちていた道の、数メートル先の茂みに落ちていたそうだ。
マナーモードになっていたそれを、たまたまその付近で遊んでいた近所の小学生が拾い、保護者から警察に届けられたのだという。
―――――僕はあの頃、そうやって、彼女の足取りを一つ一つ追っていた。
土曜日に遊園地にでも行こうかと彼女を誘ったのは僕だった。
声を掛けたときには一見冷静を装っていたけれど、その実、心臓が破裂してしまいそうなほどに緊張していた。それでも、チケットが余っているからなんて常套句、中学生の自分によく言えたものだと関心する。きっとテレビドラマの影響でも受けたのだろう。
本当は、小学生の頃から彼女のことが好きだったのだ。
明らかに頬を紅潮させて肯いてくれた彼女を見たときは、涙が滲んだ。
それを悟られまいと、必死に堪えて。だけど、嬉しそうに笑う彼女のことをしっかりと見ておきたくて瞬きすることさえ躊躇われた。
誘ったのは月曜日で。
僕はその週、ずっとそわそわと落ち着かない気分で過ごした。
あのとき一緒に行くはずだった遊園地には、未だに、行くことができない。
金曜日に学校を欠席した彼女のことを案じながら何通かメールを送ったけれど、返ってこなかった。
きっと風邪でも引いて眠っているのだろうと安易に考えていた自分を殴ってやりたい。
その頃、彼女の家では既に、彼女の不在が大事件へと発展していたのだ。
待ち合わせ場所を決めておいて良かったと思っていた。
中止にしたいとか、延期したいとか、そういった連絡がこなかったから、きっと彼女はあのバス停に来るのだろうとそう思い込んでいた。
僕は、それほど浮かれていたのだ。
少し離れたところにあるその遊園地までは電車を乗り継がないといけないからと、朝8時に待ち合わせをした。午前中に着いたらたくさん遊べるねと笑い合ったのを覚えている。
その日に着る洋服は、火曜日には準備していた。
だけど当日になって、やっぱり別のものが良いかもしれないと箪笥の中を引っ掻き回して、それを眺めていた一つ上の姉に、男の子も大変なんだねと苦笑されたのを覚えている。
思えば、あの日、待ち合わせ場所に行くまでの時間が僕の人生で一番幸福なときだったのかもしれない。
結論を言えば、彼女はその日、来なかった。
待ち合わせから一時間を経過した頃、やっとその不自然さに気づいた僕は、携帯から彼女へ電話をした。
長く長くコールをするけれど、出ない電話。
あまり電話をしすぎるとしつこいと思われるかもしれないと、彼女が来ることを祈りながら、もしも来なかったら30分後に改めて電話をすることに決めて。何通かメールを送った。
僕は、昼過ぎまで彼女が来るのを待っていた。
何かあったのかもしれないと自宅まで行こうかと思ったけれど、住所を知っているわけでもないし、さすがにそこまでするのは変かもしれないと躊躇われた。
ただ単に振られてしまったのだと思ったのだ。
恥ずかしさと惨めさに、少し泣きながら、だけど悲しんでいることは悟られないように家へ帰った。
自宅で休日を満喫していた姉に、初恋は実らないって言うしね。と励まされて、だけど連絡もくれないなんて酷い子だねと苦笑されて。
確かにそうだと、少しばかりの怒りも覚えて。
月曜日になったら文句の一つでも言ってやろうと思っていたのだ。
来ないなら来ないで、メールでもしてくれれば良かったのにと。
だけど、彼女は、その日もまた欠席だった。
彼女が行方不明になっているのだと聞いたのは、火曜日のことだ。
月曜日に拾われた携帯に残された着信とメールの履歴から、警察に事情聴取を受けた。
まだ、公開捜査になる前のことだ。
警察とは別に我が家を訪れた、彼女の両親からも問い詰められた。
何か知っているのではないかと。
僕は、うまく話すこともできなくて。ぶるぶる震えながら首を振った。
知っていれば、こんなに電話をしたりメールを送ったりしないと反論してくれたのはその場に同席していた姉だった。
ただ、怯えていた。
身近な誰かが消息を絶つ。それが、こんなにも恐ろしいことだとは思わなかった。
いや、僕だけじゃない。
公開捜査に切り替わってからは、僕だけじゃなく、彼女に関わりの無かったクラスメイトさえ少し顔色を悪くしていた。
明るかった教室は陰惨さを含み、学校だけでなく街全体がどこか落ちつかない雰囲気になった。
あちこちで彼女を捜索する警察の姿を見かけるようになれば、それも仕方ないことだろう。
川の中を浚う様子を見かけたときは、絶叫しそうになった。
そんなところに居るわけがない。
もしも、そんなところに居るのだとすれば。
彼女は、
彼女は―――――
だから僕は、毎週土曜日、あのバス停で彼女がやってくるのを待っていた。
そんなことをするのは良くないと、姉は悲しげに首を振る。
両親はそれで僕の気が済むならと、したいようにさせてくれた。
何が良くて何が悪いのか分からなかったけれど、僕は、彼女の足取りを追いながら彼女を待つことを選んだのだ。
*
*
毎週土曜日にあの場所で待っていたのは、中学を卒業するまで。
高校に入学したときから、月に一度に変わった。
もういい加減に止めたほうが良いと言う両親の顔をたてた結果のことだ。
口にはしなかったけれど、彼女の肉親以外の誰もが、彼女はもう戻ってこないだろうと結論付けていた。
実際、あれほどテレビで騒がれていたにも関わらず、世間はすっかり彼女の存在を忘れ去っていたのだ。
その一方で、僕はいつだって彼女のことを思い出していた。
古い携帯をいつまでも使い続ける僕のことを友人たちは馬鹿にした。
新しいものに興味を示さない、独特の感覚で生きている古風な人間だと揶揄されることもあった。
だけど、どうしても変えることができなかった。
いつかのときにやり取りをしたメールが消えてしまうのが怖かった。
新しい携帯に変えてしまったら、彼女からのメールが返ってこないような気がした。
電話がかかってくるなら、きっとこの携帯にかかってくるだろうと根拠もなく信じていたのだ。
あの待ち合わせのバス停では、携帯を握り締めて古びたベンチに腰掛けていた。
新しい携帯であればゲームでもやって時間を潰すことができたのに、僕の持っているそれでは駄目だった。
だから、ただひたすらぼんやりと彼女を待っていた。
待ち合わせの時間になっても、その時間を過ぎても、お昼を回っても夕方になっても。
あの日は昼過ぎまでしか待たなかったから、今日はもう一時間待ってみよう、次はもう一時間と、だんだん時間が延びていって結局、一日中待つことになった。
道の向こうを見据えれば、彼女が走ってくるような気がして。
携帯で時間を確認しながら、彼女の声を思い出していた。
『またね』
そう言った彼女の声を。
あの日、最後に言葉を交わしたあのとき、校門を出て行く彼女の後ろ姿を見ていた。
途中まで一緒に帰りたかったけれど、クラスメイトの目を気にしてそれを提案することができなかった。
どうせ明日も顔を合わせるのだからと、自分に言い訳をして彼女を見送ったのだ。
幼かった僕は周囲の目を気にして。
それは彼女も同じで。
そんなくだらないことで、だけど当時の僕たちにはとても重要なことで、彼女と過ごすことができたはずの時間を失った。
高校生になってから、彼氏や彼女と当たり前のように登下校する友人たちを見て思った。
僕と彼女ももしかしたら、あんな風に手を繋いで歩いたりしたのだろうかと。
幸せそうに顔を寄せる彼らを見て、なぜ彼女はここにいないのだろうかと考えたりもした。
誰かに誘拐されたのだろうか、何か事件に巻き込まれたのだろうか、もしかしたら日本ではなく外国にいるのかもしれない。家出したなんてことはありえるのだろうか。
答えなんて出るはずのない問いを、何度も何度も頭の中で繰り返した。
肩の上で揺れる黒い髪。大きな二重の目。色白の肌。ふわりと漂うような柔らかな声音。
面立ちの似ている子を見かけては、彼女の姿を重ねて、それとなく交際してみたりもした。
いつまでもそのままでいたら駄目よ、という姉の言葉に触発されたのもあった。
だけど、どうしても駄目だった。
月に一度ではあったけれど、「どこへ」とも「誰と」とも告げずに姿を消す僕に不信感を募らせて、浮気をしているのではないかと疑われて半年と続かなかった。
理由を話せば納得してくれたかもしれない。
だけど、うまく説明できる気もしなかった。
付き合っていたわけではない。ましてや、はっきりと告白したわけでも、彼女の気持ちを知っていたわけでもない。関係性としては、ただのクラスメイトであり、友人だ。
たったそれだけの関係なのに。
僕は、狂おしいまでに、彼女の帰還を信じていた。
それを、どうやって説明すれば良いのだろうか。
それは、大学生になるまで続けられて。
そして、バス停へ通う回数を減らしながらもその後、7年間続いた。
―――――長いのか短いのか判断できない。だけど、それは、一つの区切りだったのかもしれない。
ある日、一人で住んでいたアパートに彼女の母親が訪ねてきた。
「小山内君、今まで、本当にありがとう」
その人は、綺麗に包装された菓子折りを差し出して、きっちりと纏められた頭を深く、深く下げた。
「貴方が、あの子と待ち合わせしていたバス停に通ってくれていること、ずっと知っていました。
貴方は子供だったし、その内諦めるだろうと……いえ、飽きるだろうと思っていました。
中学生の、思春期の子供なんてそんなものだと、私は貴方のことを軽んじていたのかもしれません」
まるで、大人に話すような口ぶりだった。
実際、僕はいつの間にか成人していて、世間では当然、大人として扱われる年代だった。
学生結婚をした同級生もいて、クラスメイトの一人は既に子供を産んで家族を持っていた。
それほどに、年月が経過していた。
「だから、貴方が今でもあのバス停に通っていると聞いて、正直、このままでは良くないと思ったの」
あの頃よりも幾分か年老いて、やつれた様子を見せる彼女の母親はこんなときまで美しかった。
皺の増えた細い指先がハンカチを握り締めて声を震わせる。
痩せた頬が、彼女のここ数年の心労を思わせた。
「貴方はまだ若くて、これから先、たくさんの出会いが待っています。
それを、あの子の為に無駄にしてほしくはないの」
瞳から零れる涙がほろほろと頬を伝っていく。
それを、まるでテレビドラマのワンシーンのように眺めていた。
ちょうど、あのときと同じように。
彼女の失踪を大々的に報じるニュースを、呆然と眺めていたあのときと、同じように。
「先へ進むべきだわ。……貴方は、十分、あの子を待ってくれたもの……」
嗚咽の混じる声で、あの子を待ち続けるのは親の役目ですとその身を小さく震わせた。
「あの子のことを忘れないでいてくれて本当にありがとう。だけど、もう、いいのよ……」
何がもういいのか分からずに、身動き一つできない。
誰かを待ち続けることに、もう十分だなんて言葉が通用するのだろうか。
「……あの子を好きになってくれて、ありがとう」
こちらを見上げた彼女の母親の潤んだ眼差しに、何て返事をすれば良いのかも分からなかった。
待ち続けているのは、他でもない僕自身なのに。
なぜ、その終わりを勝手に決められなければならないのか。そんな憤りさえ覚えて。
だけど、僕なんかよりもずっとずっと深い悲しみを抱えているはずの彼女の母親に、そんなことを言うのは躊躇われて。
結局、言葉を失ったのだ。
最後に、もう会うことはないでしょうからと、一枚の写真を渡された。
「ようやく、あの子の部屋を整理する気になって、引き出しを開けたらこれが入っていたの。
良かったら、もらってあげて下さい」
文化祭のときに並んで撮った写真だった。
僕と彼女が中心に並んで、周囲には同級生も居た。
それは、たくさんある内の一枚で、学校側が手配したプロのカメラマンが撮ったものだった。
文化祭の後、教室の後ろに、そのとき撮ったたくさんの写真が張り出されて、希望者は写真に付けられた番号を書き出せば購入できる仕組みだった。
僕もこの写真が欲しかったけれど、誰に知られるわけでもないのに恥ずかしさが先にたって、どうしても購入することができなかったのだ。
彼女は、こちらを見て微笑んでいる。
文化祭という特別な、だけど何でもない日常のひとこまだ。
「……仁科?」
呼びかけてみても、返事は無い。
*
*
彼女の両親は、彼女が失踪したちょうど一年後に離婚した。
彼女を失ってから、争いが絶えなかったのだという。
お互いに自分自身を責め続け、そして相手を責め続けた。
なぜもっと早く家に帰らなかったのか、とか。
なぜ仕事を優先したのか、とか。
もっとできることがあったのではないか、とか。
彼女の身に起こった異変に気づかなかったのか、とか。
それだけに留まらず、ほんの些細なことさえ許すことができなくなっていたのだという。
その彼女の父親は、数年前に再婚して、ついこの間赤ちゃんが産まれたのだと聞いた。
彼女の母親を、僕の元へと突き動かしたのはその出来事がきっかけだったのかもしれない。
先へ進んで、というのは、自分自身にも宛てた言葉だったのだろう。
僕はその週末、やはり、あのバス停に来ていた。
古びた携帯は、バッテリーが切れて使えなくなっている。電源さえ入らない。
携帯会社のサービス提供も終わっているのだろう。
真っ黒になった画面を眺めながら、何か奇跡的なことが起こって彼女から連絡が入るのではないかという淡い期待を捨てきれずにいる。有り得ないことだと知っていたけれど、夢を見るように願い続ける。
それは、いつだって同じだった。
「―――――っあの!」
下を向いて座っていた僕の視界の隅に映る白いスニーカー。
中学生がよく履いているそれだった。
そして、頭上から降ってくる甲高く幼い女の子の声。
心臓が大きく音をたてた。
「いつも、ここに座ってらっしゃいますよね?
……突然、すみません。でも、あの、私……すぐそこの家に住んでて……!」
これ、この間忘れてました。と差し出される見覚えのある紺色のハンカチ。
見上げて、しっかりと顔を見れば、耳の下で髪を結んだ少女がこちらを見ていた。
―――――彼女じゃ、ない。
「……あの……?」
嗚咽が漏れて、どうしようもなくなっていた。
本当は大声を上げて泣き出したい気分だった。
だけど、僕はもう、そんな年ではない。
中学生らしき少女を前にして、みっともなく声を上げて泣くなんてことはできなかった。
ハンカチをひったくるようにしてお礼を言いながら、顔を強く抑える。
彼女の母親に、写真を渡されたとき。
思ったのだ。
彼女は、こんな顔をしていただろうかと。
中学校の卒業アルバムに載せられた彼女の個人写真は、入学式のものだった。
集合写真には、申し訳程度に、やはり入学式に撮ったものが切り抜かれて張られていた。
だから、それを見るのは嫌だった。
彼女の不在を、突きつけられているような気がして。
いつも、いつも、記憶の中を探っていた。
彼女の輪郭をなぞりながら、その姿を思い出しながら。
指の形を覚えている。ピアノを習っているのだと言っていたその爪は短く、丸く整えられていた。
こちらを見上げる瞳は大きく、風に揺れる黒髪はさらさらと解けて美しく、華奢な体は折れそうだった。
そうだと知っているのに。
写真に写っていた彼女と、僕の記憶の中の彼女はどこか違っていた。
先へ進むべきだと言った彼女の母親。
僕は、ずっと立ち止まっているつもりだった。
この場所で、ずっと同じ風景を見ながら、彼女がやってくるのをずっとずっと待っているつもりだった。
だけど、違ったのだ。
時間は容赦なく進んで、時を刻み、季節を巡らせた。
彼女が生きて、この国のどこかで呼吸をしているとして、だけど、街中ですれ違ったところで僕はもう彼女に気づくことができないだろう。
少女は、大人へと変貌を遂げ、もしかしたらあの頃の面影さえ残していないかもしれない。
現に今、目の前の中学生を見て思うのだ。
14歳というのは、こんなにも小さかっただろうかと。
「―――――あのっ、大丈夫ですか?」
幼い声にただ首を振る。
大丈夫なんかではない。
僕は、失ったのだ。
彼女を、永遠に失った。
待っても、来ない。
あの頃の彼女は、もう、来ないのだ。
「――――――仁科、っごめん、な……ごめん、仁科、ごめん……っ」
僕はもう、君を待たない。