後編
アークリバーを拾ったのは本当に単なる気まぐれだった。
鎖にぐるぐる巻きにされていたあの子が可哀想だったのか、それとも、この世界では珍しい黒髪黒目に喪失した故郷を思い出したのか。
理由が何だったのかはよく分からない。
ただ、一人よりは二人のほうが楽しく過ごせるかもしれないと、そう思ったのだ。
アークはその頃「ナナイ」と呼ばれていたようだ。
そう、「名、無い」である。
この世界には、そういう子は少なくない。
娼館で産まれてから、ずっとそう呼ばれていたのだという。
母親はアークを産んですぐに亡くなったそうで、彼は母親が居た娼館の主人に育てられていたようだ。見目麗しかった母親の美貌を受け継いだ彼は、ゆくゆくは男娼となり、母親が残した借金と自分のために使われたお金を返すことになっていたらしい。
しかし、その予定は、彼が膨大な魔力を発現させたことにより無為に帰す。
それは、ある日突然やってきたのだと彼は語った。
元々は白金に近かった髪と、琥珀色の瞳が、一晩で真っ黒に変わっていたのだと。
そして、そんな彼を持て余した主に、即刻売られてしまったのだと鼻で笑った。
「―――――酷いと思います……!そんなの…だって、アークリバーさんはご主人のこと、本当のお父さんのように思っていたんですもんね……!」
院長室からいただいた果物を詰め込んでパンパンになったバックを肩から提げて、やっと家に帰れるとふらふら歩いていたら唐突に耳に飛び込んできた、我が子の名前。
きんきんと響くその声のほうに視線を向ければ、学院の女生徒とおぼしき人物と向き合っているアークリバーの姿があった。
手入れの行き届いた薔薇園の休憩所という視線の集中しやすい場所で、教えを請うている研究員の過去を大声で暴露するという不敬極まりない言動をしている女生徒。
それをたまたま目撃することになった通りかかりの人間や、その場で談笑していた者たち全員の眉が寄る。
アークの近くに居た他の研究員が、女生徒を諌めようと間に割り込もうとするが、そうさせまいとするように女生徒はアークのほうに一歩距離を詰めた。
私からすると、アークは明らかに嫌がっている。
しかし、眉さえ動かさない秀麗な顔は精巧な仮面のようで、他の誰から見ても不快に思っているようには見えない。むしろ、何も感じていないのではないかと思わせる、無機質な相貌だ。
そこに感情があるのかさえ疑わしい。
「アーク、」
声を張り上げたつもりはないが、私が最後まで言い切らない内に彼の目がこちらに動く。
「ニカ」
心底安心したような、あるいは縋るような眼差しを向けてくるアークに苦笑を浮かべながら近づけば、
「……誰?」と、女生徒が呟く。
「っげ、ニカさん……!」
よく見れば、アークの近くに立っていたのは昔馴染みの男だ。
アークの友人でもあり、彼と同じ研究員でもある。
研究員はつまり、学院においては教員と同義であり、魔術や他の分野を研究しながら空いた時間に教鞭をとっている。生徒を教えることが主体なのではなく、研究に重きを置いているため、彼らは一様に研究員と呼ばれているのだ。
「よぉ、ユワン。久しぶりだな」
「イワンです! 相変わらず、お若くていらっしゃる……どう見ても学院生にしか見えませんけど…一体おいくつに……。
い、いや、やっぱり良いです……!女性に年齢を聞くなんて失礼ですよね……!」
ユワンもといイワンは、なぜか私を見ると、僅かに上半身を後ろに倒す。
逃げ腰というやつだ。
恐れているのだということは分かるが、私には覚えのないことなので、そんなあからさまに怯えられるのは不愉快だ。双眸を細めて、その姿を眺めていればますますその身を強張らせるイワン。
見るからに硬質な印象を与えるアークとは違い、見るからにふにゃふにゃしているイワンは、甘ったるい顔立ちで性格も軟派なため女性には大変人気があるらしい。
「ニカ」
何でこんな男がもてるのだろうと食い入るように見つめていたら、思考を遮るように心地良い低音が響く。その声には僅かに非難の色が滲んでいた。
「こんな奴のことは視界に入れなくても良いんですよ」
イワンのことを押しのけて身を翻すような動作でこちらに向かってくるアークリバー。
優雅な仕草が貴公子然としている。研究員というよりは、どこぞの貴族のようだ。
「もう帰るんでしたら、一緒に帰りましょう」
にこりと笑んだその顔に、周囲がさざめくようにざわつく。
アークどうやら、私の前でだけ表情豊かになるようだ。
彼を拾ったときは、私の前でさえ能面を被っているような感じだったので、それからするとだいぶマシになったと言える。
「帰るのは良いが、お前は自分の家へ帰れよ。せっかくお前の為に部屋を借りたのに、我が家に入り浸っていれば意味がない」
「……だから言ったじゃないですか。部屋を借りる必要なんてないって」
「子供というのは、いつか巣立つものだろう?」
「貴女の子供じゃありませんので」
「お前なぁ、そんな実も蓋も無い言い方するなよ。育ての親に向かって。傷つくぞ」
「はいはい」
さ、行きますよ。と私の背中を押してくる男に隠れるようにして歩き出せば、
「ちょ、ちょっと待ってよ……!誰なのよ、ソレ!こんなのシナリオにない……!」
きゃんきゃんと吼えるような声が追いかけてくる。
「っあ、駄目だよ……!」イワンの制止するような声に思わず振り返れば、女生徒の細い指が今にもアークの腕を掴みそうな動きをしていた。
あー、それはまずいな。そう思ったときには、既に遅く。
ガァンッと、鉄鍋をコンクリートに打ち付けたような盛大な音と共に、アークの魔法陣が展開していた。四方に向かって足元に広がるそれは、目を開けていらいれないほどに眩しく、発光しながら勢いよく回転している。
「き、あっぁっ」
満足に叫ぶこともできないまま、女生徒は魔法陣を避けるように仰け反りながら倒れこんだ。
アークはそもそも、許可なく他人に触れられることを良しとしない。
いや、彼だけではなく、大抵の人間がそうだろうと思う。
赤の他人に突然触れられたら、驚いたり拒否反応を示すものだ。
しかし、アークリバーの場合はそれの比ではない。無意識に魔術を展開してしまうほどに、過剰とも言える反応を示す。しかもそれが自己防衛として作用するものだから、相手を殺傷するほどの勢いで魔力が放出されてしまうのだ。
「ニカ、ニカさんっ!ヤバいですよ!」
イワンが私のほうに駆け寄ろうとしているが、案ずることはないと首を振る。
もしも本当に、アークが、誰かに触れられただけで魔術を展開するのであれば、道端で誰かとぶつかっただけで無作為に他人を攻撃するというとんでもない事態になってしまう。
その為、私が、彼の魔術に上書きするという形でそれを防いでいるのだ。
つまりどういうことかというと。
アークが、よっぽど不快に思わない限り魔術は発動しないようになっている。
現状は、発動する一歩手前で停止して合図を待っている段階、という感じだろうか。
「アークリバー、止めなさい」
「なぜ」
「そのまま発動させる気か?人が死ぬぞ」
「……それが、何か?」
よっぽど腹がたっているのか、無造作に右手を振り上げるアークリバー。
周囲の人間もさすがに危険だと察したのか、ぎゃぁっと悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすようにして逃げ去っていく。
動けないでいるのは、無様に尻餅をついている名前も知らない女生徒と、その生徒に袖を引っ張られているイワン、そして私とアークリバーだ。
「な、なななんでよぉっ!わ、私がっ助けてあげるって言ってるのにっ!」
未だに展開している魔法陣をちらちら気にしながら、半泣きで声を上げる女生徒。
「……お前、何か困っているのか?」
アークリバーの右手をさり気無く元の位置に戻しながら尋ねれば「…はぁ?」と気の抜けた返事をする。
「助けてやるって言ってるぞ」
「はぁ?困っていることなんて何一つありませんが。それよりも早く帰りましょう」
さあさあと背中を押されるが「おい!その前にこれを消していけ!」とイワンが掠れた声で悲鳴を上げた。
「大丈夫です、それ勝手に消えるので」
自分で展開した魔術なのに、放置してそのまま帰ろうとしているアークリバー。
「いや、それは駄目だろ。お前、仮にも教師だろ。きちんと後始末しろ」
私の脇に両手を差し込んで、今にも抱き上げそうな体勢を取っていたアークに渋面を向ければ、いかにも不本意そうに女生徒と魔法陣の方に向き直る。
ご丁寧に、わざわざ「はぁ、」と大仰に息を落としたのは、私に対する無言の抗議であり抵抗だ。
しかし、このままにして立ち去れば、アーク本人ではなくその保護者である私に非難の目が向けられることになる。学院長は、そういう奴なのだ。
そのこと事態は、さして痛くも痒くもないのだが、後々面倒なことになるのは目に見えている。
弱みを握ったつもりで、あれやこれやといらん指図をしてくるに決まっているからだ。
「早くしろ」とアークを急かせば、可愛らしくも唇を尖らせて、その細い指をパチンッと鳴らした。
たったそれだけの仕草で、途端に魔法陣は霧散する。
それなのに無駄に長引かせたのは、女生徒を怖がらせる意味もあったのだろう。
今度こそ帰路に着こうと歩き出そうとすれば、何ですか、この重いバックは。と、さりげなく私の荷物を受け取るアークリバー。
「……院長に食べ物をもらってはいけませんって言ったでしょ」とバックを開けてもいないのに、中に何が入っているのかを察した様子だ。
「……無視しないでよっ!だから、誰なのよ、その女!!さてはあんたも転生者ね!」
アークの苦情に耳を塞いでいれば耳に飛び込む、奇妙な単語。
思わず振り仰げば、魔法陣が消えて立ち直ったのか、仁王立ちして私を睨み付けている女生徒が怒りに震えていた。
「……テンセイシャとは?」
首を傾げば、「はぁ?!しらばっくれないでよね!あんたなんて所詮モブのくせに!」
再び響く、妙に耳に残る単語を口の中で復唱してみる。
「もぶ…?」初めて聞いたはずの単語なのに、なぜか聞いたことがあるような気もする。
「もう良いから行きますよ」
これは一体どういうことかと、右に左に首を傾いでいれば、子供を抱き上げるように片腕に乗せられた。
私が十代であれば羞恥心に顔を背けるところではあるが、それほど若くもないし、何よりも楽チンなので乗せられたままイワンに別れを告げる。
「っえ!行っちゃうんですか?!この状態で?!このまま、ここに僕とこの子を置き去りにして?!」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ…!アークリバーさんは騙されても、私は騙されないんだからね!一体どんな弱みを握ってるのよ!」
置き去りにするなと言いつつも、人の良いイワンは、女生徒がアークの後を追ってこないように魔術で彼女の足を拘束している。「離しなさいよーっ!」と叫ぶ声なんてまるで聞こえないかのように歩調を速めるアーク。
一刻も早くこの場から立ち去りたいのが透けて見えている。
「院長に相談したらどうだ?」
最近、アークリバーを煩わせているという女生徒は彼女で間違いないだろう。
先ほどまでは、直接話しを聞くつもりでいたが、実際関わるとなると厄介そうなので学院長に丸投げすることにした。
「なぁ、アーク」
「……」
返事をしないアークリバーにじれて、薄いけれど華奢というほどではない肩に頬を寄せれば、ふん、と鼻を鳴らされる。
顔を見なくても、彼が眉間に皺を寄せたのが分かった。
「……彼とは話が合わないようなので、遠慮しておきます」
「……そうか。……お前が良いなら、私は別に構わないが」
「構わないことはありませんが、私の過去が暴露されようと何であろうと実質的な被害がきているわけではありませんので、別にどうでも良いです」
「過去を暴露されるのは、実質的な被害には入らないのか?」
「……私の、ああいう過去があるから貴女に拾われたのだと思えば、どんな過去でも愛しく思えるものですよ」
普通の人間が聞いていれば赤面してしまいそうなセリフであるが、アークがこれを冗談なんかではなく至極真面目な顔で言っているだろうことは想像がつく。
彼の首に顔を埋める形で全体重を預けているので表情こそ見えないが、彼をここまで育てたと言っても過言ではない私がそう思うのだから間違いない。
実際、彼が娼館の主のことを、父親のように慕っていたわけではないということを知っている。
もしも私に出会わずに、あのまま森の中に置き去りにされていたならば、拘束されていたことも相まって彼を拾った人間にどういう扱いを受けたか分からない。魔力過多の奴隷が行く先など、目に見えている。
兵士として戦場で捨て駒にされるか、実験体として施設に送られるか、もしくは、魔力が暴走することを危惧されて永久にどこかへ封印されるか。
そういった過酷な状況でなら、娼館の主のことを、まるで父親のように優しかったと回想することもあったかもしれない。
しかし、私と出会ったことにより、アークはもう一つの人生を手に入れた。
私は、彼を魔術師として育て上げることにしたのだ。
魔力過多とは言っても、私が持っている魔力よりはずいぶんと小さい。
この世界基準で言えば、それでも、周囲の人間が恐れ慄き、ひれ伏すほどの魔力量ではあるが。
とにかく、その魔力を制御する方法から有効に使える方法まで、ありとあらゆる知識を彼に分け与えた。
この世界の人間には、それほどのことはできなかっただろう。
全ては、私が異世界から来た人間だからこそできたことなのだ。
何せ、私の頭の中には魔術に関する膨大な知識が眠っており、何かの折に零れるようにして溢れるそれは、この世界の人間がまだ辿り着くことのできない境地にまで至っているのだから。
私だって全てを扱いきれるわけではなく、だいたいにして、自分自身がとんでもなく追い詰められたときにしか出てきてはくれないのだけれど、アークを魔術師にするには十分すぎるほどの知識だった。
「ところでニカ。貴女、町長から依頼された魔道具、ちゃんと作りました?」
「……いや、」
「期限はとっくに切れているはずですが」
「まぁな。向こうも何も言ってこないから、まだ大丈夫なんだろう」
「ニカ……何で貴女はそんなに適当なんですか。この間、期日内に仕上がらなかったからと安値で買い取られたこと忘れたんですか?絶対、それ狙ってるんですよ」
「……あー、まぁな……」
魔道具に関しては製作を始めて売り出したのがここ数年であるから、そもそも相場がどのくらいなのかが分からない。生まれ育った場所で培った価値観というのはなかなか消えないものである。
魔道具自体が存在しない場所で生きてきたのだ。どのようなものが値打ちのあるものなのかがいまいち分からない。
それに、魔道具とは、大抵、魔力の少ない人間が使うものであるから、私にとっては今も昔も無価値で無用なものであると言っていい。
そんな人間がなぜ、魔道具を作り始めたかというと。
ただ単に、金銭が必要だったからである。
自分にとっては無価値ではあるが、他の誰かにとっては価値のあるものだということは知っていた。
アークを拾ったとき、私は牢屋から出てきたばかりで無一文も同然だった。
達者に暮らせと、恩赦の一環なのか小銭程度は分け与えられたが、仕事を紹介してくれたわけでもなく住処を提供してくれたわけでもなかった。あのとき解放された受刑者のほとんどが、数日も生き延びることができなかったと聞いている。罪人に仕事を与えるような奇特な人間はいなかったし、食べ物を得る為に新たな罪を犯して、結局、首を刎ねられた者もいる。刑を受ける前の己の行いで報復を受けた者もいるし、自ら命を絶った者もいた。
恩赦とは本当に名ばかりの、あれはある意味、処刑に等しい処遇だったのかもしれない。
その為、アークという庇護すべき人間を得た私は、生活する為に一刻も早く金銭を得る必要があった。
しかし、戦争と牢屋しか知らなかった私にはその術がなかった。
唯一の頼りである私の魔術はと言えば、人を殺す為のものであり、逆に言えばそれだけしかできないものだった。
頭の中を巡る膨大な知識は、本当に必要なときには、何一つ有効活用できない。
国一つを殲滅する大魔術は浮かんでも、今日、食べ物を得る為の方法は全く浮かんでこなかった。
だから私は、再び戦場に立つことを決めたのだ。
戦争で成果を上げれば報奨金が出る。
アークとはしばらくの間離れ離れになるだろうが、報酬は、全てアークに渡るように手続きしておけば良い。彼だって幼子というわけではないのだから、お金さえあれば何とかなるだろう。
そう思って、それをそのまま彼に告げたら、
泣かれた。
それはそれは、盛大に。
行かないでとか、独りにしないでとか、ニカが行くなら自分も行くとか、置き去りにするなら今ここで死ぬとか、絶叫とも言える声で泣き喚きながら私に縋り付いてきた。
アークを育てることに決めて、傍においてからはたった数日。
彼は、こちらを警戒しているのか話しかければ返事をするが、それ以外はほとんど喋らなかった。
表情なんて無いに等しかったので、意思の疎通ができていたとは到底思えないのに、彼は私がいなくなるかもしれないと考えただけで無表情ではいられないほどに動揺した。
それは、見ているこちらが泣き出しそうになるほどに、可哀想な姿だった。
その頃はまだ、私のほうが体格が大きかったので、立ち上がることさえできなくなったアークを膝に上げて何時間もあやすはめになった。
だから、私の服を小さな手でぎゅっと握り締めるアークを抱きしめて、もう二度と、戦争には行かないと誓ったのだ。
「……そもそも私の魔道具が本当に役にたっているのかなんて分からないからなぁ」
思わず呟けば、「貴女は本当に……困った人ですね……」と、いつものように舌打ちされた。
魔道具の引渡しには私も付いていきますからね!と断言され、しぶしぶ肯く。
アークをそういった場に連れて行くと、必ずと言って良いほど相手方と険悪な雰囲気になるので、できれば連れて行きたくないのだが、何せ有言実行の男であるから何を言っても無駄なことも分かっている。
「せめてもう少しやる気を出して、せめて期日内に仕上げてください」
「……ああ、はいはい」
「ニカ……」
相変わらず抱き上げられたままに歩いているので、その心地良い振動が眠気を誘う。
こいつも大きくなったものだと何だか感慨深い。
この世界に落ちてきてから、夢か幻か、ただの想像の産物なのかも判別できないまま、境界線の曖昧な現実を生きてきた私は、未だにそういう気分になることがある。
ここで生きる覚悟をしておいてもなお、元の世界を捨て去ることができないでいる。
例えば、このまま目を閉じていたら、この世界に落ちてきたあの日に戻れるのではないかとか、そんなことを思ったりするのだ。
『仁科』
あるいは、いつかのあの日のように。
私は教室でうたた寝でもしているのではないかと、そんな気さえするのだ。
だから、私をゆすり起こすのはかつてのクラスメイトであり、週末に遊園地へ行く約束をしていた彼かもしれないという想いが過ぎる。
この世界に落ちたのは、確か木曜日だった。
急にいなくなった私を、両親は捜しただろう。警察にも連絡がいったはずだが、金曜日はまだ伏せられていたかもしれない。実は家出か何かで、金曜日には家に帰って来るという可能性も捨て切れなかっただろう。
学校に知らせが入るのはいつ頃だろうか。
もしかしたら、テレビでニュースになるほうが早いかもしれない。
噂が広まるのは、月曜日の午後か火曜日あたりか。
だとしたら、彼はきっと、土曜日に待ち合わせていたバス停に向かっただろう。
人通りの少ないあのバス停を選んだのは、もしもクラスメイトに見つかったら厄介なことになると踏んだからだ。からかわれるかもしれないし、囃し立てられて笑われるかもしれない。
私も彼も、それほどに若く、幼かった。
いつまで、待ってただろう。
どのくらいの時間、待ってただろう。
すぐに帰ったのだろうか。それとも、一日中待っていたなんてこともあるんだろうか。
携帯を握り締めて、何度も画面を見つめて、私の名前を確認して。
バス停の横に、ぽつりと置かれた小さなベンチに座っている彼の姿が見えるような気がする。
何度も電話しただろう。何通もメールを送っただろう。
答えない私を、どう思っただろうか。
―――――この世界に落ちてきてから幾度となく繰り返してきたその問いを、飽きもせず、ここには存在しない彼に投げかける。
答えは、いまだ、返らない。
「ニカ?寝ちゃったんですか?」
「ねぇニカ。今日話しかけてきたあの生徒、やっぱりどこかおかしいのでしょうかね……?」
「私が孤独だなんて、そんな妄想」
「だけど、彼女の言っていることも分からないでもないんですよ」
ぽつりぽつりと呟く声が遠くに聞こえる。
「貴女のことを、夢か幻のように思うのは、きっと私たちが同じ時間を生きていないからでしょう。
出会ったときから、全く年を取らない貴女を見ていると……何だか不安になるんですよ。
もしかしたら、私の妄想が産んだただの幻覚なんじゃないかって」
だから、私、頑張りますね。
もっと研究を頑張って、貴女と同じ時間を生きていけるように、自分を変えてみせます。
だから、安心してくださいね。
ずっと、ずっと一緒にいますから。