初めまして、僕
彼の口にしたエミとは僕の苗字である恵美に違いなく、エミはルッツ曰く会心の出来の人形らしい。つまり、そういうことだ。
「……ちょっと意味わからないですね?」
正確に言えば、意味を分かりたくないのだけど。
ルッツが僕の横たわっていたベッドとも作業台とも言える台の上に腰を掛けて肩を抱いてきた。年寄りにしてはちょっと体温が高いようで少し暑苦しい。
「なに、すぐに理解せずともいい。キミは言わば生まれたての赤子のようなものだ」
ルッツは僕の肩をぽんぽんと叩き、まさに赤ちゃんをあやすような声色で続ける。
「必要な事はいずれ分かるものだ。ただ、知る事を望むと言うのなら儂やリタに聞いてくれていい。出来る範囲で何にでも答えよう」
何か質問は? ――と尋ねんばかりにジェスチャーを交えて迫ってくる。距離が近い。でもせっかくルッツと名乗る老人が促してくるのだ。ここは好意に甘えさせてもらおう。
「……あの、ここに鏡はありますか? ちょっと自分の恰好を客観的に見たいので」
そう。ルッツの言葉通りなら僕は人形という事になる。どういうことか分からないけど。自分の身体を見た限り、記憶にある僕自身よりも細身に思える。元々、痩せ気味の中肉中背だったがそれよりもいくらか。
「鏡かい? 鏡は……なかった、ような……」
ルッツが顎鬚に触れながら、視線を左上に向ける。思い当らなかったみたいでアトリエを見渡していたが、僕がその視線の先を追っても光を反すのは針ぐらいなものだった。
「私の寝室に姿見があるよ。じっちゃんは自分の恰好なんて気にはしないからね。エミちゃん、ついてきて」
「あっ、はい」
リタを先頭に僕とルッツが続いてアトリエを出る。床に足を下ろすと、滑らかな石の冷たさを感じた。壁に備え付けられた棚やキャビネット等の収納の辺りは雑然としていたが、意外に通路はしっかりと片付けられているのに驚く。
リタの寝室はアトリエを出て階段を上がった所にあった。どうやら家の広い一部屋をアトリエとしているようだ。
「どうぞ、ちょっと散らかってるけど勘弁してね」
リタの部屋に入ると、脱ぎ捨てただろうネグリジェやスカートが散乱している。乱雑さで言えばアトリエの方が上だったが、こちらの方が汚いという印象を受けた。リタの使っている姿見はベッドの隣にあり、干乾びたタオルが掛けられていた。
「すまんなエミ。リタは片付けが苦手なのだよ」
ルッツの方を振り向くと、床に落ちていたジャケットを手近なハンガーに掛けていた。寝間着や下着を抱えているのはおそらく後で洗うためだろう。
「そんなのやらなくていいよ、じっちゃん。別に誰に見せるわけでもないし」
「儂が見苦しいのをみたくないだけだ」
「そう? じゃあこれもお願いしていい?」
リタは姿見に掛かっていたタオルで埃を被っていた鏡面を乾拭きすると、それをそのままルッツに放り投げた。ルッツはタオルを受けると、深く溜め息を吐いた。この祖父と孫の関係が少し見えた気がする。
「ほら、こっちおいでよ」
リタが姿見に手を掛けながら僕を招いている。リタは足で落ちているものを払い除けて足場を作ってくれたけど、一人分のスペースが空いた絨毯には飲み物をこぼしたような茶色の毛羽立ちがある。ああ、あんまり踏みたくない……。だがしかし、嫌悪感を抑えて足を踏み出し姿見の前に立つ。
鏡の中には一人の線の細い少女がいた。何処となく冷たさを感じさせる少女だ。「潤んだ」というよりも「煌めく」と表現した方がよさそうな眼、縁を飾る睫毛やその上に乗っかる眉毛はあまりにも揃いすぎている。ただ毛髪はなく、つるりとした皮膚が頭を覆っていた。
「どうだい、美しいものだろう」
汚れ物を抱えたルッツが後ろに立つのが鏡に映った。美しい。とても美しいがそれはある種の畏怖を覚える美しさだ。生身の人では辿り着けない永遠性を持つ人工の美がそこにはあった。
シミの一つもなく、計算された泣きぼくろが左目にある。左目の瞳は深い青だというのに、右目の瞳は燃え上がるような赤のオッドアイ。桜色の唇はまるでグロスを塗ったかのように艶めかしいのに、指先でなぞると乾いている。指先で感じた触り心地は人の肌のようだった。
「エミ、キミは儂の傑作の人形だ。生涯を振り返ってもキミ程の美しさの人形は作れなかった。更に言えば、これから先キミ以上の人形を生み出せないと思ってしまう程だ」
ルッツとリタが少女を挟むようにして立つ。どちらもとてもいい顔で笑い、楽しくて仕方がない様子だった。真ん中の少女である僕は、心の中では唖然としていただけなのだけれど、凛々しさを感じる表情を顔に張り付けているようだった。
「私としても、これ程の魔法は二度と起こせる気がしないもの。じっちゃんは老い先短いからいいけど私なんか大変よ?」
僕の左右で、何やら不穏な会話が飛び交う。だけどそんな事は今はどうでもいい。僕は登校中に何か落ちてくるものに潰されて死んでから、何故か分からないが人形になっていた。それも思わず息を呑んでしまうような少女の人形に。なら、確認することがある。
鏡の中の少女は桜色の裂溝から手を下ろしていき、着せられている白のシャツの胸元から腹部へ、更にロングパンツの股間へと伸びていく。緩慢で淫猥な動きの結果、分かったことがある。山も棒も玉も無かった。