始まりは突然に
これまでの人生はあまりにも平凡だった。人によって評価が変わるかもしれないが、彼女こそいないものの友人には恵まれていたし、そう悪くはない人生だったように自分では思う。赤点は取らないわけじゃないけど少しだったし、運動神経もとりあえず五○メートル走で八秒は切ってた。
平均を少し上回ったり下回ったりしながらきた僕の世界は、おおよそ人並でない原因によって一七年で幕を閉じた。それは衣替えの時期を過ぎて、秋を少しづつ感じるようになってきていた日の事だ。
その日は秋晴れで、肌寒さを覚えるも心地良い天気だった。僕の家がある住宅地から高校までの間にはちょっとした田園地帯がある。頭を垂れた稲穂の海原を割ったような生活道路は舗装されてはいるものの、雨の日には罠になるような穴が開いていたりする。僕の登下校中の景色の半分は田圃であり、そこを携帯音楽プレーヤで流行から少し遅れた曲を掛けながら自転車で行くのだ。いつものように、ひび割れてがたがたのアスファルトを自転車から伝わる振動で感じながら登校していた時にそれは来た。
突然、暗雲が立ち込めたかのように周囲を影が飲み込んだのだ。陽の光が差さなくなって寒くなったのか、それともその後の出来事を本能で悟ったのか、僕の背筋に悪寒が走った。空を仰いで見れば、逆光で真っ黒に見える巨大な物体が僕を間違いなく巻き込むように落下してきていた。今となってはそれが航空機なのか、それともヘリコプターなのか、はたまたUFOだったのかを知る術はない。
「ちょっと痛いですよー」
僕の記憶は何者かの言葉の後に連続性を失った。
僕の意識が覚醒した時、まず感じたのは眩しさだった。瞼が下りていてなお眩しい光。血潮の鮮烈な赤。強い刺激から逃れるように、腕を持ち上げて影を作ると楽になった。
薄目をあけると天井が見えた。煤けて黒くなった板張りの天井だ。眩しいと感じたのは天井から下がっている簡素なシャンデリアのようだ。
「魂寄せの儀は上手くいったようだね」
バリトンボイスが耳朶を叩く。この見覚えのない天井の部屋には僕以外の人がいるようだ。声が聞こえた頭の方を見ると、屋内だというのに飴色のグラスを掛けた老年の男がいた。汚れだらけでもはや白くない白衣を羽織り、その内にはアースカラーの上下を着こんでいる。ボサボサの白髪は顎鬚と繋がっていて、飴色のグラスと相俟って怪しくてしょうがない風貌だ。爺さんは僕の方は見ておらず、隣に侍っていた家政婦然とした妙齢の女性に話しかけたようだった。
女性もまた汚れた白衣を着ていた。これまたアースカラーのシャツを着て、下半身に黒のロングスカートを穿いている。何かを記録しているのか、キャンバスを手に羽根ペンを走らせている。顔はキャンバスに隠れて見えない。しかし羽根ペンの実物なんて初めて見た。
僕の視界に入るものはどれも色合いが地味だな。
「気分はどうだい、キミ」
飴色のグラス越しに爺さんと僕の目が合う。強面とのギャップがある柔らかい声色だった。
「あ、大丈夫、です」
身体に違和感はない。気持ち悪さや怠さといったものも感じていない。ちょっとシャンデリアの光が眩しかったぐらいだ。ただ喉の調子が悪いのか、声の調子がおかしい。
「それなら良かった。自分の名前はわかるかい?」
「恵美喜祐です」
「エミ・キスケか。いい名だ」
うん? 爺さんが僕の名前を復唱するけど、どうも発音が怪しいような気がする。アジア系の顔つきじゃないし、そういうものなのだろう。
「儂の名はルッツ・ランドゥルフ・ウーヴェ・ヴィーラント・ヴィルダーロッターだ。ルッツでいい」
……長い名前だ。爺さん、ルッツの言葉に甘えさせてもらうことにしよう。
「わかりました、ルッツ」
「それでこっちの無愛想なのは孫のリタだ」
「じっちゃん、無愛想は余計だよ」
キャンバスを下げて、女性と目が合う。色素の薄い茶色の瞳だ。
「えへへ、リタです。じっちゃんの助手やってます」
「リタですね。助手とはいったい……? というかそもそも此処は何処でしょう」
「助手っていうのはですね、じっちゃんが人形師なんてものをやってまして。それで此処はそのじっちゃんのアトリエですね」
「はあ、ルッツは人形師なんですか」
影を作ってた腕を退けて、上半身を起こす。それから部屋の壁を見てみると、恐怖感を覚える。そこには恐らくは人形のものと思われるパーツが所狭しと並んでいたのだ。棚には眼球が無造作に置かれ、渡した梁から腕や脚がぶら下がり、壁に打ち付けられた鋲には髪の束が掛けられている。心の準備が無かったのもあって、身体が竦んでしまった。
「ちょっと気味悪いですね、これ」
「まあねえ。でも人間も一つ一つの部位を見たらこんなもんだよ」
「だが、組み合わせればエミみたいな美しい芸術品になるのだ」
尻の穴が引き締まった。ルッツの方を見ると、僕の方を見て嫌らしくは感じない笑みを浮かべている。ちょっと僕の方に男色の趣味はないです。
「儂の人形の中でもエミは会心の出来だ。動いてるのを見ると魂寄せの儀を行った甲斐もあったというものだな、リタ」
「そうだね、じっちゃん」
「……えっ?」