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其の九



 皇帝陛下の結婚と言っても、別に国を挙げての式典やお披露目会をするわけではないらしい。

 ミッドガルドの皇帝は自ら次代を成さない。

 ゆえに、皇帝の伴侶が次代の親となることもないので、責務が無い代わりに権限も無い。

 国民たるマングース人間達にとって、皇帝の伴侶とは、あくまで次代を養育するための補助。

 あるいは、敬愛する皇帝を慰めるためだけの存在。

 彼らは柚葉がナーガの伴侶となることを歓迎するだろうが、皇妃と敬うことはないだろう。

 それは、一般人たる柚葉にとってはかえってありがたいことだった。


「だが、ユズが次代の卵を孵したことは、民達もすでに知るところだからな。さっそく嬉々として、城の中庭にそなたの銅像を作り始めているぞ」

「なっ、なにそれっ……」

「ヘレットがそなたを“ご母堂様”と呼び、率先している」

「いやあ~、やめさせてよぉ」


 結婚式や披露宴はないが、契約書にはサインをする必要があるらしい。

 そういえば、明らかに柚葉の世界と違うこのミッドガルドで言葉が通じるのは何故だろうと、今さら疑問に思った。

 ナーガがどこからか出してきた書類の文字も、見たことがないはずなのに何故か読める。


「頭で理解しているわけではない。ユズは子宮に次代の卵を宿したゆえ、その時殻からわずかな遺伝子が染みだし、そなたの細胞に浸透したのだろう」

「い、遺伝子? 細胞に、浸透!?」

「ミッドガルドで生活するのに必要な能力を“細菌”と例え、そなたはそれに“感染した”と考えれば話が早かろう」

「うえ……」


 ミッドガルドの次代は生まれながら文字の知識を持っており、すぐに話ができるのだという。

 大五郎がまだ少し言葉が拙いのは、唇と舌が未発達で人語を話すのに適していないから。

 はからずもその遺伝子を受け入れた形になった柚葉にも、ミッドガルドの文字を理解するスキルが身に付いていた。

 便利といえば便利だが、細胞レベルの話をされると、大五郎には悪いがとても気持ちが悪い。


 一方、契約書の内容は、“甲と乙を夫婦としてここに記す”という実に簡単なものだった。

 ところが、何故かナーガがそこにさらさらと文章を書き足す。


 “契約期間を一年と定める”


 これは、今し方柚葉とナーガの間で合意したことなので、問題ない。

 問題なのは、それにさらに続いた一文だった。


 “ただし、期間満了一月前までに甲乙いずれかから文書をもって終了する旨の通知がない場合、契約は永遠に自動更新されることとする”


「ちょっ……ちょっと、ちょっと! 何よ、その不穏な一文はっ!?」


 一年の約束の偽装結婚が、まるでマンションの賃貸契約のように自動更新されるっていうのは、一体全体どういうことなのだ。

 詰め寄る柚葉に、ナーガは涼しい顔をして答える。


「一年後、我らが真実良い仲になっていた場合、再度契約書を交わす面倒が省ける」

「い、いやっ、そんな気回し必要ないからっ!」


 とにかく、自動更新云々の部分を削除させようと、柚葉はナーガの手からまずはペンを引ったくった。

 インクは鉛筆のように消しゴムでは消せないので、黒く塗り潰してやろうと思ったのだ。

 次いで、テーブルの上に置かれた契約書を引っ掴もうとしたのだが、逆にその手をナーガに掴まれてしまった。

 強い力に、成す術もなく彼の方へと引き寄せられる。

 ナーガは大きな白い手で柚葉の左手を掴み、それを己の口元へと持っていくと――


「つべこべ言わずに、さっさと判を押さぬか」


 そう言って、柚葉の親指の腹にかすかに牙を押し当てた。

 牙は、蛇のそれのように鋭く尖っている。


「――っ!? ぎゃあ、猟奇っ!」


 ちくりと、針で刺されたような痛みが走り、逃れようと手首を捩るが叶わない。

 柚葉の指先にぷくりと小さく血の玉が盛り上がったのを確認すると、ナーガはそれを強引に契約書へと押し付けた。

 あっけにとられている間に、ぐりぐりと容赦なく紙の上に血をなすり付けさせられる。

 はっと我に返った柚葉が「やめて!」と叫ぼうとした、その時。

 何か、白いロープのようなものが視界に飛び込んできた。


「――おかあさまっ!」


 それは、いまだ脱皮の真っ最中の大五郎だった。

 彼はいとけなくも勇ましい声で柚葉を呼ぶと、彼女の手首を掴むナーガの腕にぐるぐるっと巻き付いた。

 そして、血管が透けるほど白い肌に、がぶりっ! と牙をたてて噛み付いたのだ。

 ナーガが柚葉の指先を傷付けたのとは比べ物にならないほど、大五郎のそれは深々と皇帝陛下の腕へと突き刺さり、しかも巻き付いた身体で腕を締め上げているせいで、ぶしゅぶしゅと牙の脇から鮮血が溢れた。


「あわわわ、大五郎っ……猟奇、猟奇っ……」


 あまりのスプラッタな光景に、柚葉は大五郎が自分を助けようとしてくれていると分かっていても盛大に怯えた。

 一方、ぎりぎりと腕を締められ噛み付かれているナーガはというと、痛みを感じている素振りも、大五郎の反抗に腹を立てた様子もない。

 それどころか、「ふむ」と一つ頷いて、興味深そうな目で後継者たる子蛇を眺めた。


「脱皮中に他に気を回せるとは……。ダイゴロウは、よほどユズを大切に思っているようだな」


 ナーガは感心したようにそう言うと、半ば意識が朦朧としたまま噛み付いていた大五郎の頭を優しく掴み、腕に刺さっていた四本の牙をそっと抜いた。

 柚葉はその光景を直視できず、青い顔をして目を逸らす。

 彼女の手をようやく解放したナーガは、傷口から溢れた己の血を親指で掬い、それを柚葉に強引に押させた血判の隣に擦り付けた。

 つまりは、夫婦となる二人の捺印が済んでしまったわけで、血塗れの生々しい契約書が完成してしまったことになる。


「もおおっ、何でこんな強引に完成させちゃうのよっ!」

「何が問題なのだ? そなたは余の伴侶になることを了承したではないか」

「だから、契約期間についての文章がだね……」

「自動更新が困るのならば、期日までに契約終了の申し立てをすれば済む話ではないか」

「そうだけどっ! 面倒だし、忘れてたら大変だし……」


 文句を垂れる柚葉をよそに、ナーガはどこからか立派な木枠の額を取り出すと、その血判契約書をピンと伸ばしてはさみ込んだ。

 しかも、それを国民にも見える場所――玉座の脇に飾ると言う。

 何だかものすごくまずいことになったような気がして、伴侶になると了承してしまったことを後悔し始めた柚葉に向かい、正真正銘の男になったらしい皇帝陛下は思い出したように告げた。


「ああ、そうだ。契約の終了を望む場合は文書で申し立てよと記したが……先に言っておくが、これはもちろんミッドガルドの文字で書かねば無効であるから、そのつもりでな」

「……は?」

「期日までに、ユズもこちらの文字が書けるようになっておかねばならん」

「……へ?」

「次代との繋がりで文字を読むことは出来ようが、書くには相応の訓練が必要だからな」

「……え?」

「心しておくように」


 ……はめられたような気がする。


 そう顔を引きつらせた柚葉が声高にクーリングオフを要求したが、ナーガはそんな制度はミッドガルドにはないの一点張りで、取り合おうとはしなかった。

 


 彼女の手元で、大五郎の脱皮はようやく身体の真ん中辺りに差しかかった。

 柚葉はこれから我が子となった彼とともに、ミッドガルドの文字の書き取りに励まなければならないらしい。

 外国語の教科が一番苦手だった彼女にとっては憂鬱な話だ。

 しかしこの時はまだ、「いざとなったら、誰かに文書を代筆してもらおう」と、柚葉もいくらか我が身の行く末を楽観視していた。

 

 



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