其の八
カップには二杯目の豆茶が注がれ、お茶請けにクッキーが出てきた。
意外に所帯染みている皇帝陛下に向かい、柚葉は「ところで」と口を開く。
「大五郎とナーガが皇帝交代するまで百年ってことは……もしかしてもしかしなくても、私が生きてる間に大五郎は大人にならないんじゃないの?」
こっちは人生八十年よと告げると、ナーガは随分儚いのだなと驚いて、哀れむような目で柚葉を見た。
さらに彼女が今の年を教えると、「ユズよ、そなたの方もまだ幼子であったか」と、自分の時間の感覚とごちゃまぜにして、子供をあやすように頭をなでなでしてきた。
それは非常に鬱陶しかったので、柚葉は頭を振って彼の手を拒む。
「乗りかかった舟だから、大五郎の面倒は今後もちゃんとみるつもりだけど、百年は無理だよ?」
「そなたの養育が特に必要なのは、次代が蛇から人型になるまで。それは我々からすると一瞬……おおよそ一年ほどの間だけだ」
「……まあ、百年をわずかと表現するナーガからすると、一年は瞬きほどよね」
「蛇の姿さえ脱すれば、少なくともミッドガルドの国民に食われる心配はなくなる」
さらに、ナーガのように人型の大人の姿に成長するまでは、十数年。
それは柚葉の世界の人間の成長速度とそう大きく変わらないようだ。
大五郎はナーガの寿命が尽きる時まで彼に師事し、その補佐をしつつ跡継として必要な知識を身につけていくのだという。
とりあえず、ナーガは大五郎が蛇の姿をしている間は柚葉の部屋で養育することに合意した。
お互いの連絡を密にするため、クローゼットに繋がる扉を開いておくことを柚葉の方も了承した。
ただし大五郎の安全面を考慮して、扉が繋がる場所は今のように謁見の間ではなく、このナーガの私室に変更すると決まった。
皇帝陛下の私室には、基本マングース人間達は立ち入りできないことになっている。
柚葉も、見知らぬマングース人達に私室にぞろぞろとやってこられると困るので同意したが、ナーガの私室と自分の私室が直通というのも少々複雑な気分だ。
「それで、ユズ。皇帝に就く気にはなったのか?」
「なるわけないでしょうが」
「では、やはり余の伴侶に……」
「その二択、いい加減にして」
“卵を孵したものが次代を養育し、すなわちそれが皇帝である”という決まりを、ナーガはまだ引きずっているらしい。
白蛇の幼生の存在を、昨夜マングース人間達が目撃した以上、大五郎を側に置いていないとナーガの皇帝としての権威に影響があるのだろうか。
だからこそ、その養育者となった柚葉を皇帝として立たせ、自分は摂政に回るという茶番を提案してくるのか。
柚葉には仮にでも玉座に座る度胸はないので当然お断りだが、その代案として差し出された“皇帝の伴侶”の立場にも、そうやすやすと頷けるはずもない。
しかしながら、昨夜のように「あんた達の事情なんか、知るかっ!」と突っぱねられるほど薄情でもない。
お茶を飲みながらゆっくり話してみると、ナーガはその見た目と地位のわりには素朴な人物であり、どこか憎めない相手だった。
彼の立場と事情に少し同情を感じ始めた柚葉は、テーブルの上で脱皮に奮闘する大五郎に視線を落としたまま、逡巡しながら口を開いた。
「……ねえ、皇帝の伴侶って、つまりどういう状態になるわけ? その……一般の夫婦とは違うよね?」
「ああ。そもそもミッドガルドの皇帝は生殖によって跡継を成さぬゆえ、性交渉をする必要がない」
「……」
生々しい話に頬を染める柚葉をよそに、ナーガは淡々と続ける。
「条件は一つ。“マングース人間ではないこと”だ。皇帝の伴侶は次代とも親密に関わることになるからな。蛇肉に目のないマングース人は論外」
「まあ、そりゃそうよね」
「皇帝の伴侶はまた、次代の養育をも補佐することになる。とはいえ、そもそも皇帝は独り身を貫くことがほとんどなので、その立場が確立されているわけではない。だが、前例がないわけでもない」
ナーガの説明は実に回りくどくややこしいが、つまり皇帝の伴侶となったからといって大きな権力を得ることはないし、夫婦生活を強要されるわけでもないらしい。
それでいて、次代の養育の権利を与えられ、さらに元々の養育者たる皇帝の権威は保たれる。
大五郎を育てたいと思う柚葉と、彼を守りつつ国を動かさなければいけないナーガ。
そして、不測の事態で起こってしまった次代の誕生の歪みは、おそらく柚葉の何らかの譲歩がなければ直らない。
それを理解した彼女は、大きくひとつため息をつくとナーガに向かい合った。
「ナーガ、伴侶云々の件だけど……」
「うむ。了承してくれるのか?」
「い、いや、その……」
大五郎が蛇の姿を完全に脱し、マングース達に捕食される心配がなくなるまで、おおよそ一年。
柚葉は、今は恋人も好きな相手もいないので、今から一年以内に結婚を考えるようなこともないだろう。
「大五郎が人の姿になるまでの一年。その間だけの、期間限定なら……」
「余の伴侶になってくれるのか?」
「う……うん、まあ……はい」
「そうか。協力、感謝する」
あくまでかりそめ。
単なる利害の一致による偽装結婚だが、柚葉の返事を聞いたとたん、ナーガがあまりに嬉しそうな顔をしたので、彼女も少しどぎまぎしてしまった。
次いで、明らかに機嫌が良くなった様子のナーガは、頬を赤らめて豆茶をすする柚葉の顎を、すっと白い手を伸ばして掴んだ。
そのまま上向かされたと思ったら、赤い瞳以外に色を持たない秀麗な顔が近づいてきて、目を丸くする柚葉の唇に柔らかいものが押し当てられる。
それが唇だと気づいた時には、もうナーガは離れた後だった。
「な、ななな、何すんのっ……!」
かああっと顔を真っ赤にして、実に初心な反応をする柚葉をよそに、彼は今度は自らの顎に手を当て「ふむ」と頷いた。
「ユズは、確かに雌だな。では、余が雄になろう」
「……は?」
「何か、おかしなことを申したか? 女のそなたと夫婦になるには、余は男であらねばなるまい?」
今のキスは、唾液から遺伝子情報を読むためだったと彼は言う。
柚葉は性染色体がX二つだから、女性に間違いないとのこと。
そもそも、卵だった大五郎を子宮に宿した時点で女だと分かっていたはずであり、そんな今さらな事実は正直どうでもいい。
そんなことよりも、ナーガの口にした「雄になる」「男であらねば」という言葉に、柚葉は頭の上に疑問符をいっぱいに浮かべ、豆茶のカップを握り締めて詰め寄った。
「ちょ、ちょっと待って? それじゃあナーガは、今まで男じゃなかったって言うのっ!?」
「男でも、女でもなかった。ミッドガルドの皇帝は、両性持って生まれてくるのだ」
「りょ、両性っ――!?」
「ほとんどは、どちらの性にもならぬまま生を終えるのだが……」
いわれてみれば、確かにナーガは柚葉に再三「伴侶になれ」とは言ったが、「妻になれ」と言ったことは一度もなかった。
皇帝という重々しい肩書きと長身の印象で勝手に男だと思い込んでいたが、改めて見れば確かに顔立ちも中性的。
驚きに言葉を無くした柚葉の顎を、すっと伸びてきた白い手が再び掴んだ。
先ほど不意打ちで唇を奪われたばかりなので、さすがに柚葉も警戒する。
今度は一体なにするつもりだ——と、上目遣いにうかがう彼女に向かい、ナーガは婉然と微笑んで言った。
「そなたが余を男にしたのだぞ、ユズ」
ものすごく、誤解を生みそうな言葉。
もちろん直後、柚葉は激しく訂正を要求した。