其の七
柚葉が飛び込んだ扉を、ちょうどその時ナーガは向こう側から引いて開けようとしていたようだ。
彼女が容赦なく蹴り開けたそれに顔面を強打したらしい彼は、高い鼻を片手で抑えて呻いた。
その姿を見つけたとたん、柚葉はナーガの白いローブの胸ぐらを引っ掴んで叫んだ。
「ナーガっ! 大五郎が、大五郎がっ!!」
大五郎は、柚葉の腕の中でぐったりとしてしまい、呼吸をしているのかさえも分からない。
柚葉はぼろぼろと涙を零し、「どうしよう! どうしようっ!」と白い男を揺すった。
そんな彼女にナーガは鼻を抑えたまま目を丸くし、次いで腕に抱いている子蛇に視線をやった。
そして、「……なんだ」と呟くと、鼻から手を離して柚葉の頭をぽんぽんと優しく叩いた。
「落ち着け、ユズ。大丈夫、ただの脱皮だ」
「え……?」
ひくひくとしゃくり上げる柚葉を宥めるように、ナーガはそっと髪を撫でてやりながら続けた。
「ミッドガルドの皇帝は、蛇の姿をしている間は脱皮によって成長する。それを繰り返すごとに手足が生え、毛髪が生え、鱗が滑らかな皮膚になり、やがて人間の姿へと近づいていくのだ」
「……脱皮……」
蛇が脱皮をするのは有名な話である。
その抜け殻を財布に入れておけばお金が貯まると言う迷信があるほどだ。
通常一週間ほど前から兆候が現れ、口から剥がれ始めて靴下を裏返すように古い皮を脱ぐ。
ミッドガルド皇帝の幼少期は、その姿通り蛇の習性を持っているらしい。
だいたい一日かけて脱皮するのだが、それは彼らが一代前の皇帝の保護下にあることを大前提とする。
脱皮中というのは実に無防備なので、マングースな国民達に簡単に食べられてしまうからだ。
大五郎は柚葉を母と認識し、彼女の保護下にあることを安全と判断した細胞の活性により、脱皮に至ったと思われる。
「しっかりと養育してくれているようだな。感謝する、ユズ」
とりあえず、病気などではないと分かり、柚葉はほっとした。
落ち着いてよくよく観察してみれば、大五郎の顔の先っちょにある小さな鼻の穴からは、プープーと呼吸する音が聞こえる。
「……」
安堵するのに引き換え、柚葉は昨夜自分が一方的に飛び出した場に、今度は自ら戻ってきてしまったことに気まずくなった。
相変わらず白く広い場所は、皇帝陛下の謁見の間なのだという。
確かに、ナーガの背後に見える広間の突き当たりには、いわゆる玉座のような豪勢な椅子がある。
マングース人間達の姿は一人も見当たらない。
柚葉と大五郎が警戒するだろうからと、最後まで渋った侍従長ヘレットさえも下がらせて、今夜はナーガ一人で話し合うつもりで扉を開けようとしたところだったらしい。
「扉……今朝見たときは消えてたけど?」
「そなたが、昼間は仕事だと言っていたからな。とにかく時を改めて、お互い落ち着いて話し合いをせねばと思ったので、一度扉は閉じさせたのだ」
柚葉の部屋のクローゼットと、このミッドガルド皇帝謁見の間とを繋いだのは、ナーガではなくあの灰色の侍従長なのだという。
彼はマングース人間の最長老で、ナーガの前の皇帝にも仕えたほど長く生きているらしい。
その間に、普通のマングース人にはないような様々な特殊能力を持つようになったというのだから、驚きだ。
長く生きた猫が妖怪になるという、日本の伝承にある猫又みたいなものだろうか。
ナーガはせっかくだから少し話をしようと言って、柚葉を奥へと誘った。
玉座の後ろ、幾重にも垂れた白いカーテンの先が、歴代のミッドガルド皇帝の私室に繋がっているらしい。
柚葉の方も、大五郎の食事のことや習性をもっと知っておかなければと思ったので、彼を抱いたままナーガについて行った。
皇帝の私室というからには、どれほど豪華絢爛なのだろうと思っていたが、柚葉が案内されたそれは意外にこじんまりとしていて質素な部屋だった。
城の天辺にある大木のうろに作られているのだから、木の幹の中だと思えばとんでもなく広いに違いない。
ただし、床は謁見の間のようにのっぺりと冷たい白い石ではなく、温かみにある木でできている。
テーブルや椅子に始まりあらゆる調度品が全て木製で、聞けばそれらは皆皇帝の卵を輩出する木の枝から作られているらしい。
ナーガは自ら湯を沸かし、柚葉にお茶を淹れてくれた。
紅茶ではなく、香ばしい匂いのする豆茶。
口に広がるほんのりとした甘味にほっとして、柚葉はようやく落ち着いた。
ナーガも同じ物をカップに注ぎ、向かいの席に腰を下ろす。
彼には皇帝陛下のような政治的な役職よりも、薬草を煎じたり研究する魔術師、あるいは司祭が似合うと思ってしまうのは、身に着けている白いローブのせいだろうか。
どちらにせよ、やはり現代日本人の認識からすると、ファンタジーの登場人物にしか見えない風貌である。
それでも豆茶の香りに癒されて、柚葉はナーガと向かい合い、しばし子蛇の飼育方法について話をした。
食事は、それほど偏りを気にしなくてもいいらしい。
大五郎が魚肉ソーセージが気に入ったならば、そればかり与えてもかまわないということだった。
実際、ナーガも幼生期は魚を好んで食べたらしい。
脱皮の頻度には個人差があるらしいが、それでも今後週に一度は行われると思っておくべきだという。
「こら、ユズ。脱皮を手助けしてはならんぞ」
テーブルの上に横たえた大五郎は、口の辺りから皮が剥がれ本当に脱皮が始まった。
あまりにゆったりとしたそれが歯痒く、ついつい手を出しそうになった柚葉を、ナーガがぴしゃりと叱る。
「過保護は禁物だ。己の皮さえ脱げぬ者が、将来国を治めることなど出来るものか」
彼はそう言って、「だって」と口を尖らせる柚葉に苦笑する。
陶器のように白い肌と赤いルビーをはめ込んだような瞳。
作りもののようにどこか冷たい顔のナーガだが、柚葉や大五郎に向ける表情は意外に柔らかい。
ミッドガルドの皇帝は、もれなく次代を養育することになるので、もしかしたら元々育児スキルが備わっているのかもしれない。
女性の社会進出が著しい昨今、イクメンはポイントが高い。
柚葉も将来結婚するならば、相手の男性は家事にも育児にも協力的な人がいいなと思った。
そんな彼女の思いを読んだのかどうかは分からないが、テーブルの上でじわりじわりと脱皮する子蛇を挟み、ナーガはじっと柚葉を見つめて口を開いた。
「ユズ……余の伴侶になってはくれんか」
「そ、それは嫌だって、昨日の夜に言ったでしょ」
名目だけの皇帝の打診ではなく、伴侶云々の話の方がいきなりきたので、柚葉は正直戸惑った。
理由はともあれ、一応はプロポーズ。
柚葉が生まれて初めてされた、プロポーズだ。
乙女としては、少しくらいドキドキしてしまうのは仕方ないだろう。
昨夜のように「嫌だ、馬鹿っ!」と怒鳴ることもできず、柚葉は相手から目を逸らして俯いた。
ふいに、ナーガの白い手が伸びてきて、カップを持っていた彼女の両手を包み込む。
「次代が育ち、玉座を譲るまでのかりそめでもよい」
「……」
彼が望んでいるのは、あくまで次代の養育者の体面を保つためだけの婚姻。
当然、柚葉に惚れたから求婚しているわけではないし、彼女だってそれを百も承知である。
しかし、何だか少し悔しく感じるのも事実。
柚葉もナーガに特別な感情を抱いているわけではないし、どちらかというと彼の事情に振り回されて迷惑している。
それなのに、愛情もなく求められることにがっかりしてしまうなんて――。
こんな自分はおかしいと首を振った柚葉は、胸に小さく燻ったものを誤魔化すように、少しだけ話題を逸らした。
「……大五郎に皇帝を譲ると、ナーガはどうなるの?」
皇帝以外の国民全てがマングースのミッドガルド。
次代を育て上げ、玉座を譲って引退した皇帝は、その後どうするのだろうか。
昔の日本なら、上皇という地位に就いて政治に茶々を入れる場合もあったようだが、ナーガはどこかでのんびり隠居生活でもするのだろうか。
柚葉はほんの軽い気持ちで尋ねたのだが、さらりと返された答えに一瞬言葉を失った。
「ダイゴロウが皇帝に立つのは、余が死ぬ時だ」
「え……?」
「次代が生まれるということは、すなわち余の寿命が近づいていることを意味する」
「そんな……」
次代に玉座を明け渡してやれやれお疲れ様ではなく、死によってやっと重責から解放されるだなんて……。
淡々と続けられるナーガの言葉に、柚葉は何と返していいのか分からなかった。
大五郎と同じルビーのような赤い瞳が、まっすぐに彼女に注がれる。
「おそらく、それほど時間は残されておらぬだろう。そのわずかな間だけでも、余の隣にいてはくれぬか、ユズ」
その言葉に、自分が本当に彼に望まれているように錯覚して、柚葉の胸は性懲りも無く高鳴った。
しかし同時に、彼の命のカウントダウンに関わるような気がして、ひどくせつなくなる。
二人で挟んだテーブルの上では、大五郎が自分の古い皮と格闘している。
彼に対して母性を自覚した柚葉にとって、その成長は楽しみなものだ。
それなのに、大五郎が大人に近づけば近づくほど、ナーガの死が近づく。
柚葉は震える声で尋ねた。
「それって……残された時間って、あとどのくらい……?」
ナーガに悲嘆した様子は少しもない。
ただ、すでに運命を受け入れているような穏やかな顔をして、「さあなぁ」と顎に手を当てた。
そして
「ざっと、百年くらいだろうか」
続いた言葉に、柚葉はまた別の意味で言葉を失った。
どうやら、ミッドガルドの皇帝陛下と柚葉とでは時間の感覚にずれがあるもよう。
彼女がおそるおそる「ナーガ、今いくつなの?」と聞くと、彼は「八千年ほど生きただろうか」と何でもないことのように答えた。
「――おバカっ! スケールが違い過ぎるわっ!!」
柚葉はぷんすか怒ってそう叫び、少し冷めた豆茶をぐびっと一気飲みした。
向かいでは、ナーガが何がいけなかったのか分からないという風に、不思議そうな顔をした。