其の六
会社の昼休み。
母の作ってくれた弁当を食べた後、同僚の美沙と一緒に飲み物を買いに出た柚葉は、ついでに会社の向かいにあるペットショップを覗いた。
「ユズちゃん、何かペット飼い始めたの?」
「うーん……ペット、かな?」
美沙は同期入社の営業で、柚葉の高校の同級生でもある。
二人は別々の短大に進学したのだが、入社式で再会してお互い運命を感じ、以来プライベートでもよく遊ぶようになっていた。
今まで見向きもしなかった近所のペットショップに、急に柚葉が入って行っても笑顔で付き合い、さらに彼女が店員に熱心に蛇の飼い方について尋ね始めても訝しく思わない、おっとりとした性格のいい友達である。
午前中、営業担当の美沙はマイバイクで外回りに出ていたのだが、ホームセンターで買い物を一つ頼まれてくれた。
柚葉が頼んだのは特大サイズの南京錠。
もちろん、今は閂代わりにクーラーのリモコンを突っ込んでいる、クローゼットの扉に付けるためのものだ。
美沙は、店内の蛇のケースを熱心に覗く柚葉の後ろ姿を眺めながら、自分が買ってきてやった特大南京錠を思い出す。
そして、「ユズちゃんったら、きっとすごい大蛇を飼い始めたのね」と呟き、多くを尋ねようとはしなかった。
それでも、彼女はその後ペットショップの隣の雑貨屋にも付き合い、柚葉が蛇のぬいぐるみを買う姿を温かく見守ってくれた。
この日は週の始め。
残業もなく定時の夕方五時半に退社した柚葉は、自転車で爆走して暗くなる前に自宅に帰り着いた。
晩ご飯の準備でキッチンにいる母に「ただいまー」とだけ叫び、荷物を持って階段を駆け上がると、朝と同じように部屋から出てきた哲太と鉢合わせた。
今日は大学は休講日だったのか、ラフな部屋着姿。
哲太は柚葉に気づくと「おう」と片手を上げたが、彼女の荷物に目を留めたとたん毛を逆立てた。
「――なんだ、それはっ! 俺に対する嫌がらせかっ!?」
「え?」
急に叫び出した弟に、何ごとかと首を傾げた柚葉だったが、自分が鞄と一緒に持っていたものに気づいて合点がいった。
昼休みに雑貨屋で買った蛇のぬいぐるみ。
ペットショップでは蛇用のおもちゃはないと言われたので、せめて大五郎の相棒にと買ってきたにょろにょろ系ふかふかだ。
まったくリアルな作りではないし、大五郎と出会う前の柚葉でも「まあまあ可愛い」と思えそうなぬいぐるみだったが、筋金入りのにょろにょろ恐怖症の哲太はアレルギー反応を起こしたようだ。
顔を真っ青にして後ずさり、ベタリと壁に背中で張り付いた。
それを見た柚葉はにやりと人の悪い笑みを浮かべて、怯える弟の前にぬいぐるみをちらつかせる。
「ほれほれ、朝の仕返しだよ~」
「やっ、やめろ!」
「“あの時は失礼なことを言って申し訳ありませんでした、お姉様”と、言え」
「誰が言うか、馬鹿!」
「なにおう、生意気なやつめ」
むっとしたので、ぬいぐるみを投げつけてやる。
すると哲太は朝のスリッパを避けたような余裕もなく、ここ数年聞いたことのないような悲鳴を上げて自室に逃げ帰ってしまった。
「いやあ、ゆかいゆかい」
教育的指導を終えて満足した柚葉は、今度こそ自室に帰還した。
扉を開いたとたん、そんな彼女をキラキラと目を輝かせて出迎えたのは、可愛い我が子。
「おかあさま、おつとめごくろうさまです!」
「うむ、苦しゅうない」
大五郎はお土産のぬいぐるみを気に入ったのか、それにぐるぐる巻き付いて遊び始めた。
みしみしと締め上げているようにも見えるが、気のせいだろう。
ペットショップでは、蛇用の餌としてマウス百パーセントのソーセージが売っていたので買ってきた。
取り寄せで、冷凍ひな鳥や冷凍マウスも購入できるそうだが、柚葉にはさすがにそれを注文する勇気はなかった。
「おいしい? 大五郎」
「うーん」
「魚肉ソーセージと、どっちがおいしい?」
「ぎょにく!」
魚肉ソーセージばかりの片寄った食事は良くないかと思っての策だったが、ネズミソーセージは大五郎の口には合わないようだ。
ナーガやヘレットに、子蛇に何を与えて育てるのがいいのかくらい聞いておけば良かったと、少しだけ後悔する。
クローゼットの奥の世界から、この日はまだ一切接触はない。
柚葉の留守中も、向こうからは物音一つしなかったと大五郎が証言した。
とりあえず、閂代わりのリモコンを、美沙に買ってきてもらった特大南京錠と交代させる。
まったく、今日はいろいろと散財した。
昨日だって、大量の魚肉ソーセージと運転手兼荷物運び役の哲太の餌代に随分と出費がかさんだ。
(子育てとは、大変お金がかかるのです)
そう神妙な顔で一人頷いた柚葉は、ここまで自分を育ててくれた両親に感謝を新たにした。
その夜は、柚葉は大五郎と一緒に風呂に入った。
生まれて初めてのボディーソープで泡だらけになり、床でつるつる滑って慌てる我が子は実に微笑ましい。
ついでに、蛇が意外に泳ぐのがうまいということも知った。
次に入るだろう哲太は、まさか大嫌いな蛇が浸かったお湯などとは思うまい。
夕飯時、向かいの席から睨んできた弟を思い出し、柚葉は「うひひ」と悪人面でほくそ笑んだ。
そして、昨夜と同じように大五郎をベッドに入れてやり、仲良く就寝。
「あれ? 大五郎?」
ところが、灯りを豆電球にしようと思った矢先、柚葉はある異変に気づいた。
「ど、どうしたの? 目が……」
大五郎のルビーのように赤く透き通った瞳。
それが、上に膜がかかったようになって、白く濁り始めていたのだ。
「おかあさま……よく、みえないの……それと、からだがへん……」
そう言ったきりぐったりとしてしまった大五郎に、柚葉は慌てた。
どうしたの?
どうしよう!?
ぴくりとも動かなくなった身体を抱き上げ、柚葉はとにかくベッドを飛び降りた。
いつも困った時に頼る相手は哲太なのだが、蛇恐怖症の彼に大五郎を診せるのはさすがに無理だ。
母が爬虫類に詳しいとも思えないし、家長たる父は今夜はまだ帰宅していない。
どこか近くに動物病院があっただろうかと考えたが、今までペットを飼ったことがない柚葉の記憶に情報はない。
どうしよう! どうしようっ!
おろおろする柚葉の腕の中で、大五郎の身体がだんだんとひんやりし始めた。
「だっ、大五郎! しっかりしてっ……!」
いよいよパニックに陥ろうとした彼女の目に、その時特大南京錠が飛び込んできた。
うんともすんとも言わなくなったクローゼットの奥は、昨夜は確かに大五郎の故郷に繋がっていたのだ。
白い世界に白い人とマングースの姿をした人間。
大五郎を育てるはずだった、ミッドガルドの皇帝ナーガ。
あれは夢でも幻でもないと、柚葉だってちゃんと分かっている。
柚葉は震える手で南京錠を外すと、藁をもすがる思いでクローゼットの扉を一気に左右に開いた。
「――あった!」
するとその奥に、昨夜と同じ扉が存在していたのだ。
柚葉は大五郎をしっかりと抱えてクローゼットの中に飛び込むと、そのままの勢いで片足を振り上げた。
と同時に、“かちゃり”と取手が回ったような気がしたが、もう遅い。
柚葉側からすると押し戸の扉が薄く開いた瞬間、彼女の突き出した足がヒットし、ガチャン! と、一気にそれを蹴り開けた。
――ごちんっ
「――っ……」
鈍い音と低い呻き声が聞こえたが、柚葉はそれにかまっている余裕などなかった。
開き切った扉の向こうには、昨夜と同じ白く繋ぎ目のない床が広がっている。
柚葉は今夜は自らの意志で、パジャマ姿のまま白い世界へと飛び込んで行った。