其の五
『佐倉柚葉はある朝、卵を産んでしまいました。
可愛いヒナ鳥が出てくると思って孵化を見守っていたら、白いヘビの子供が出てきました。
子ヘビは、ミッドガルド皇国なるマングース人の国の次期皇帝陛下でした。
そして、現在のミッドガルド皇帝ナーガは、卵を孵化させた柚葉に、次代の養育義務と皇帝の地位を押し付けると言い出しました。』
「むっ……むりむりむりむりっ! 何言ってんの? 馬鹿ですか? お馬鹿さんですか? そんなの無理に決まっているでしょっ!!」
ナーガの申し出を柚葉が断るのは当然だった。
学生時代も生徒会役員どころかクラス委員もしたことがない彼女に、見知らぬ一国のトップに立てだなんて。
第一、いきなりやってきた異世界の女が皇帝になるなんて、マングース人達だって納得すまい。
それなのに、ナーガは「案ずることはない」とのんきに答えた。
「何も、そなたに実際にこの国を治めよと言う気はない。あくまで表向きの譲位であって、余が摂政となって政治を動かす」
「ふむふむ、女帝というのもなかなかよろしいですな」
にやりと呟くマングース侍従長ヘレットは無視し、柚葉はブンブンと首を横に振った。
「いや、絶対無理だから! 肩書きだけだったとしても、私が皇帝なんてあり得ないからっ!!」
「どうしても、嫌なのか」
「あったりまえでしょ!」
彼女の意思が固いと知ったナーガは、少しだけ困った顔をして顎に片手を当てた。
柚葉はそれを睨み上げつつも、二の腕に巻き付いている大五郎の存在を確かめる。
その正体が判明し、本来の養育者たるナーガやヘレット達が現れたということは、やはり大五郎は彼らの元に返さねばならないのだろうか。
せっかく名前まで付けて、直接触れられるほどに情が移ってしまったというのに、柚葉は大五郎を手放さなければならないのだろうか。
(そんなの、いやだ……)
皇帝の地位とセットなのは困るが、養育権は欲しい。
大五郎を、絶対に渡したくないと思った。
柚葉は、己の中で激しく主張する母性に戸惑う。
そんな彼女に向かい、しばし考え込んでいたナーガがまた、とんでもないことを言い出した。
「では、特例中の特例ではあるが仕方あるまい。──ユズ、余の伴侶となれ」
「……は?」
「卵を孵化させたそなたが、皇帝たる余の伴侶となり次代を養育する。これで万事、うまく収まる」
「うまく……収まる……?」
はんりょとは何ぞや? と一瞬考えた柚葉だったが、それが配偶者──つまり、ナーガに嫁入りしろと言われたのだとすぐに理解した。
次の瞬間──ふつふつと、腹の奥から凄まじい怒りがわき上がってくる。
「絶っっ対に嫌だっ! ばかっ!!」
こちらの都合など何にも考えず、勝手なことばかりで、さすがにキレた。
こんなに大きな声が出せたんだ、と自分でもびっくりするほどの声で叫ぶと、柚葉はくるりと回れ右をする。
「もう、帰る!」
「待て待て、まだ話は済んではいない」
「知るか! こっちは明日仕事なの! ちゃんと寝なきゃ、朝起きれないじゃない!」
「しかし……」
「うるさい! とにかく、今日はもう帰って寝る! 以上!」
柚葉は一方的にそう宣言すると、扉を蹴り開けた。
先ほどヘレットに引っ張り込まれてくぐった扉が、まだそのままの場所にあったのだ。
もちろん、その向こうは柚葉の洋服がかかったクローゼットであり、彼女の私室である。
柚葉の威勢にナーガが一瞬怯んだ隙に扉を閉め、クローゼットからも飛び出した。
クローゼットの扉に鍵はついていない。
そのため、観音開きの左右の取手の隙間に、とっさに目に入ったクーラーのリモコンを挟んだ。
それがちょうど閂の役目を果たし、クローゼットの扉は開かなくなる。
「おい、ユズよ……」
トントン、とクローゼットが中からノックされるという異様な事態だが、柚葉はそれを無視してベッドに飛び込んだ。
腕に巻き付いていた大五郎は、慌てて自分の寝床であるカゴに戻ろうとする。
柚葉はそれを引き止めた。
「大五郎、いいよ。一緒に寝よ」
「……いーの?」
賢い子ヘビは、自分の存在が柚葉に災難を招いたことを理解しているのだろう。
ひどく申し訳なさそうな様子で、首を下げてしゅんとしている。
しかし、柚葉とて大五郎が悪いのではないと分かっているし、生まれてしまったものは仕方がないと思っている。
なにより、彼のことを愛おしく感じているのを自覚してしまった。
「ナーガの言う通りなら、生まれ方は不本意だけど、君は私がお腹を痛めて産んで孵した子だよ。……私は、君の〝おかあさん〟だ」
「おかあさま……」
「だから君は、子供らしく私に甘えていいの。私なりに、ちゃんと育てるつもりだから」
その柚葉の言葉を聞いたとたん、大五郎の大きな赤い瞳にみるみる内に涙があふれ、それがぽろんぽろんとシーツの上に零れた。
えっえっえっ……としゃくりあげる声は、愛らしい幼子そのもの。
柚葉はそっと涙を拭ってやりながら、まさかヘビを慰める日がくるとは思っていなかったと苦笑する。
タオルケットを持ち上げて誘うと、彼は嬉しそうに飛び込んできて、柚葉の肩の横あたりでとぐろを巻いた。
もう、にょろにょろが怖いとか気持ちが悪いとか、そんな思いは柚葉の中から消え去った。
母は強し、である。
彼女の温もりに安堵したらしい大五郎は、すぐにプープーと寝息を立て始めた。
いつの間にか、クローゼットの中から柚葉を呼ぶ声も、トントンと扉を叩く音も収まっていた。
そう簡単に大事な次代とやらを諦めるとも思えないので、事態が収まったわけではないだろう。
ただ、その気になればクローゼットの扉など簡単にぶち破れるであろうに、ナーガ達がそれをせずに引いたことを思うと、一方的に無理を通そうとするような野蛮な輩ではないのかもしれない。
柚葉は涙が残っていた目元をごしごしと擦ると、そっと大五郎の脇に手を添えて瞼を閉じた。
翌朝──この日は月曜日。
柚葉は、大五郎の頭を撫でてベットを出たところで、しまった、と呟いた。
金曜の夜に洗濯した会社の制服を、クローゼットに入れたままだったのだ。
制服がないことには、出勤できない。
仕方なく、柚葉は大五郎をベッドの下に隠すと、昨夜閂代わりに突っ込んだクーラーのリモコンを外す。
そうして、恐る恐る扉を開けたのだが……
「あれ……?」
昨夜はあったはずの奥の扉は、跡形もなく消えてしまっていた。
「まさか、あれって夢だったのかな?」
柚葉の呟きに、ベッドの下から顔を出した大五郎が首を振る。
扉がなくなっていたことにひとまずほっとした柚葉は、制服を畳んで鞄に詰め込むと、念のためリモコンを取手の間に再度突っ込んだ。
それから、パジャマのままキッチンに下り、忙しく朝食とお弁当を作る母の背後でトーストを齧りながら、カップにミルクを注いで自室に戻る。
もちろん、大五郎に与えるためのミルクだ。
途中、階段を挟んで向かいの部屋から出てきた哲太と鉢合わせする。
彼は大欠伸を一つかました後、柚葉の手元をじろじろと見ながら言った。
「……お前、一昨日からやたらと牛乳飲むのな」
「せ、背が伸びるかなと、思って……」
確かに、柚葉は昔からさほど牛乳を飲む方ではない。
突然の指摘に慌てて返した言い訳に、哲太は一瞬目を丸くしてパジャマ姿の姉を見下ろす。
しかし、次の瞬間「はっ」と鼻で笑った。
「今さら、手遅れだろ」
そう馬鹿にしたように吐き捨てて階段を降りていく弟に、柚葉は怒りのあまりスリッパを投げつける。
哲太はひょいとそれをかわすと、小さく肩を竦めた。
「馬鹿やってないで、早く用意しないと遅刻するぞ」
弟の忠告に我に返った柚葉は急いで自室に戻り、大五郎にミルクと魚肉ソーセージを与える。
そしてバタバタと身支度を整えると、白い腹をぽんぽこにして幸せそうな子ヘビを振り返って言った。
「じゃあ大五郎、行ってきます。いい子にしててね」
「はい、おかあさま!」
可愛い子ヘビに見送られ、新米母となった柚葉は部屋を出た。