其の三
──カタタン
築十年を迎える佐倉家が立っているのは、閑静な住宅街だった。
コンビニなどのような二十四時間営業の店舗からは少し離れていて、夜ともなれば実に静かなものだ。
そんな静寂の中、かすかに響いた不自然な物音に、ちょうど眠りが浅くなっていたらしい柚葉は目を覚ました。
彼女は真っ暗だと眠れない質のため、就寝中も豆電球は点けたままにしている。
この夜は、そんな習慣が吉と出た。
侵入者に、即座に気づくことができたのだ。
「──っ!?」
侵入者は、柚葉のベッドのすぐ側まで迫っていた。
しかし、それが見下ろすのは部屋の主である柚葉ではなく、隣のカゴでとぐろを巻いて眠る白い子ヘビ。
ガラスのような瞳が薄明かりの中でギラギラと輝いて、二代目大五郎を見つめいた。
耳まで裂けた口からは鋭い牙が覗き──ぽたり、と一滴しずくが垂れる。
「── !!」
悲鳴を上げるよりも早く、柚葉は反射的に自分の枕を引っ掴むと、侵入者に向かって投げつけた。
至近距離だったため枕は見事命中し、吹っ飛んだそいつが床に仰向けに転がる。
その隙に、柚葉はいまだ眠ったままの子ヘビを籠の中から掬い上げ、ぎゅっと懐に抱き込んだ。
「だ、だれっ!? この子に何しようとしたのっ!」
彼女の中に芽生え始めていた母性が、ヘビへの苦手意識を凌駕した瞬間だった。
大きく揺らされた子ヘビが目を覚まし、しゅるりととぐろを解いて「おかあさま?」と不思議そうな声を上げるが、柚葉がそれにかまっている余裕はない。
何故なら、件の侵入者が床から起き上がってきたからだ。
「な、何よ……あんた……」
豆電球に照らされて赤味がかった室内に、そいつはにゅっと立ち上がった。
身丈は、中型犬が後ろ足で立ち上がったくらいだろうか。
燕尾服っぽいスーツを身に着けて、襟元には蝶ネクタイ。
足には薄明かりの中でも随分磨かれていると分かる革靴を履き、土足厳禁の日本文化への挑発と見える。
何よりも特筆すべきは、灰色の短毛に覆われた身体に、頭の上にぴょこんと生えた小さな丸い耳、つぶらな瞳に突き出た鼻だろう。
後ろに飛び出しているのは、猫のそれよりは太めの尻尾である。
侵入者は、明らかに人間ではなかった。
例えていうと──
「ふ、服を着たイタチだっ!」
「いえいえ、イタチではございませぬぞ」
しかも、こいつもまた流暢に人語を操るときた。
パニックに陥る柚葉に向かい、いやに落ち着いた老人の声を発したイタチもどきは、胸を張って続けた。
「初めまして、御母堂様。わたくしめは、マングース人にございます」
「マ、マングース、ジン? ごぼどうさまって……?」
「あなた様は、我々の次期皇帝陛下をこの世に生み出してくださった尊きお方。全て民は最大級の敬意を込めて“ご母堂様”とお呼びし、お慕い申し上げます」
柚葉の中でマングースといえば、沖縄でハブと戦っているイメージだ。
やつらはそのままハブをもりもり食うらしい。
質問に答えつつもじゅるりとヨダレをすすり上げる自称マングース人を前に、柚葉は子ヘビをしっかり抱え直した。
「次期……皇帝!? マングースの国の皇帝が、ヘビなの!?」
「さようでございます。国民全てがマングースの国──ミッドガルド皇国を統べるのは、聡明で美しく美味そうな白きヘビの御姿をした皇帝陛下なのでございます」
マングース人はヘレットと名乗り、自分は皇帝陛下に仕える侍従長だと言った。
ついでに、またもじゅるるんっとヨダレも啜る。
「フェレットって……やっぱり、イタチじゃないっ!」
「フェレットではございません。ヘレットです。しかし……いやはや、なんとおいしそ……いや、利発そうな次代様じゃ」
「あんた今、おいしそうって言ったでしょっ!」
「お言葉ですが、ヘビを見て美味そうと感じるのは我々の本能にございますぞ。その御姿を見れば、自然と口の中には唾液が溢れ腹がぐうと鳴り……ああ! いきがいいうちに刺身でいただくべきか! いやいや白焼きも捨て難い!」
何が侍従長だろう。
子ヘビを見るマングース人の目は、どうみても捕食者のそれだった。
柚葉はますます子ヘビ──大五郎を抱え込む。
あれほど苦手だと思っていた鱗だらけの身体は、意外にすべすべとしていて滑らかで、ひんやりと心地よいことに気づいた。
だからといって全てのヘビが平気になったかといえば、そんなわけはない。
柚葉は、ヘレットが続けた言葉に顔を引きつらせた。
「詳しい事情をご説明いたしますが、まずは皇帝陛下にお会いいただかねばなりませぬ」
「えっ? あ、ちょっ……!?」
ヘレットの言葉を信じるならば、彼らの国ミッドガルドの皇帝陛下は白いヘビだ。
孵化してまだ二日の大五郎でも柚葉の知る一般的なヘビより大きいのに、それの成体ともなればどれほどの大蛇だろうか。
ヤマタノオロチやB級映画の巨大アナコンダ並みの怪物を想像し、柚葉の顔から血の気が引いた。
「ささ、ご母堂様。どうぞこちらへ」
ベッドの上で子ヘビを抱きかかえて後ずさる柚葉の腕を、にゅっと伸びてきた肉球のついた手が掴む。
そして、中型犬サイズの身体に似合わぬ強い力で引っ張られたかと思うと、ベッドから引きずり下ろされてしまった。
自分の想像した大蛇の凄まじい姿におののき、恐怖に固まった柚葉は、あわあわするばかりだ。
ヘレットがそんな彼女を引っ張ってやってきたのは、クローゼットの前だった。
柚葉が普段使いしている、なんの変哲もないクローゼットだ。
ところが、観音開きの扉を開けば、いつの間にかさらにその奥にもう一つ扉ができていた。
ぎょっとする柚葉をよそに、ヘレットは吊るされた服を掻き分ける。
そして、柚葉と子ヘビをクローゼットの中へ引っ張り込むと、奥の扉の取手に手をかけた。
「ちょっと待ってっ……!」
心の準備が整わない柚葉は悲鳴のような声で制止するが、遅かった。
がちゃりと音を立てて開いた扉の向こうに、有無を謂わさず押し込められる。
「──っ、わっ、眩しっ……!」
その先に広がっていたのは、ひたすら白い世界だった。
豆電球だけが点いた薄暗い部屋から連れてこられた柚葉は、あまりの眩しさにぎゅっと目を瞑る。
ヘレットに引っ張られるままに踏み出した裸足の裏が、ぺたりと堅い床についた。
足の下から這い上がってくる冷たさに、柚葉は身震いする。
恐る恐る両目を開くと、腕の中から気遣わしげにこちらを窺う大五郎の顔が見えた。
視線を下げれば、素足は透き通るように白い床を踏みしめている。
「こ、ここは……?」
そのまま、今度はゆっくりと視線を上げていく。
すると、白い床がどこまでも続いているのが見えた。
大理石のようなそれは、しかし一切繋ぎ目がない。
何よりも、柚葉の部屋のクローゼットの奥にこんな空間があること自体おかしいのだ。
クローゼットをぴったりくっ付けていた壁の向こうは、一階と二階を繋ぐ階段。階段の向こうには、弟哲太の部屋がある。
こんなだだっぴろいスペースを確保するなんて、日本の狭小住宅では到底不可能なことだった。
「い、一体、何なのっ……ここはっ!?」
わけがわからなかった。
頭の中が、全く整理できない。
柚葉は状況を把握するため周囲を見回そうとしたが、その前にヘレットが行動を起こす。
彼はピカピカの革靴をカツカツ鳴らして数歩進んだかと思うと、その場で膝を突いた。
「お連れしましたぞ、陛下」
──陛下、つまり現在のミッドガルド皇帝。
恐怖の大蛇が、すぐそこにいる!?
柚葉には、顔を上げてそれを確認する勇気はなかった。
「おかあさま?」
腕に抱いた子ヘビが愛らしい声で呼びかけつつ、頭をくりくり動かして柚葉とその前方を交互に見ている。
何かの近づいて来る気配をひしひしと感じた。
ヘレットのように靴音を響かせるのではなく、しゅっしゅっと床を擦るような音が聞こえる。
間違いない、大蛇が床の上を這ってくる音だ。
柚葉は盛大に悲鳴をあげるべく身構えた。
(よし、こい! さあ、こい! 向こうがしっぽを巻いて逃げ出すほどの、超音波並みのすんごいやつをお見舞いしてやるっ!!)
ついには開き直り、そう覚悟を決めた彼女の視界に、すっと白いものが割り込んだ。
柚葉の喉が、すううっと息を吸い込む。
しかし、肺に取り込まれた空気が悲鳴に変換される直前──何かが柔らかくその顎を掴んだ。
「……あれ?」
それは、人の手だった。
ひんやりと冷たくて不健康なほど白すぎる肌だが、どう見ても人の手だったのだ。
それにそっと顎を持ち上げられ、柚葉は誘われるようにゆっくりと視線を上げていく。
目の前に立っていたのは、白い大蛇ではなかった。
白い髪に白い肌、白い衣を纏った人だった。
「まずは、礼を。よくぞ、次代を無事に孵してくれた」
耳触りのいい声でそう言った相手は、人間の男に見えた。
少なくとも、ヘビの姿でもマングース人間でもない。
上質の絹糸のように透き通った髪はまっすぐで長く、白い衣はファンタジー世界に良い魔法使いが着ているローブのようで、とにかく裾が長くて床に広がっている。
それが床で擦れる音を、柚葉は大蛇が這う音と錯覚した。
背丈は、顎を掴んで上向かされた彼女の首が痛くなるほど、随分高い。
白い人は、白い髪を滝のように顔の横に垂らし、ただ唯一色を持った瞳で柚葉をじっと見つめてくる。
その瞳は、柚葉の腕の中でびくりと一瞬身を竦ませた子ヘビと同じ、ルビーのように美しい赤色をしていた。
表情は乏しく、何を考えているのか分からないため非常に不気味だ。
ただし、顔立ちはいやに整っている。
うら若き乙女としては、初対面の異性にじっと見つめられれば頬の一つでも染めるべきかもしれない。
しかし、当の柚葉はそれどころではなかった。
「ひええ……」
顔を上げたことによって、この白い世界の中、白い人の背後にびっしりと居並ぶ人ならぬ存在に気づいてしまったからだ。
おそらくは、皇帝陛下──つまり、目の前の白い人の侍従長と名乗ったヘレットと同じ、マングース人だろう。
彼らの両目は爛々と輝き、全ての視線が一点に集中していた。
「お、おかあさま……」
柚葉の胸元で、大五郎が初めて怯えたような声を上げる。
マングース人達が凝視しているのは、昨日の朝孵化したばかりの小さな子ヘビだった。
ヘビ嫌いの柚葉でさえ庇護欲を掻き立てられる愛らしい声を耳にしながら、連中ときたら一斉にじゅるりとヨダレを啜ったのである。