其の十四
ナーガが言った通り、真っ白い繭には所々亀裂が入り始めていた。
さらには、表面の層も部分的に薄くなってきていて、ほんのりと中が透けて見えていた。
そして――
「大五郎……?」
その透けた部分から、長く真っ直ぐな胴体のようなものが確認できた。
「ナーガ殿、この中に次代殿がいるのですか? いったい何故……」
「そんなこと余にも分からん。出てきたら本人に訊いてくれ」
ここ数日は政務に忙しく、しばらく佐倉家にも顔を出せていなかったラングラーは、大五郎が繭にこもったことも今知ったばかりだった。
怪訝な顔をしてナーガに質問を打つけるも、ナーガの方とて返すべき答えを持ってはいない。
ナーガの私室を訪れるのは今日が初めての哲太は、しばらく居心地悪そうに辺りをきょろきょろ見回していたが、繭の中身がもぞもぞと動いているのに気づいて口を開いた。
「大五郎のやつ……いったい今度は何に変身するつもりなんだ?」
“変身”なんて――
それこそ、大五郎が毎週日曜早朝夢中になって観ていた特撮ヒーローのように、簡単に変身できて簡単に元に戻れればいいのだが、前回一週間をかけて蛇から人へと変化した大五郎は、今度は数日かけて一体何に変わろうというのだろうか。
もしも、前にヘレットが言ったように、柚葉が産まれたばかりのトメにかかりっきりになって彼に寂しい想いをさせてしまい、それが原因で幼児返りをしてしまったというのならば……
「大五郎……蛇に戻ってしまったのかも……」
「は?」
柚葉の呟きに、哲太は急激に顔色を悪くした。
彼は柚葉以上に、もともとにょろにょろしたものが苦手なのだ。
青い顔をした哲太の目の前で、透けて見えている繭の中身がまたもぞもぞと動いた。
それがもしも本当に蛇の胴体だとすると、それなりに筋肉のついた哲太の二の腕よりも太く、相当な大蛇であると予想される。
哲太の足が、無意識にそろりと後ずさる。
けれど、柚葉の足は逆に前へと進み出した。
「――蛇でも、いい」
「お、おい。ユズ……」
柚葉だって、元々蛇は嫌いだったのだ。
大五郎を育てて少しは慣れたとはいえ、自分の腕よりもずっと太いような大蛇が目の前にいるのかと思うと足が竦みそうになる。
それでも柚葉は繭へと歩み寄り、乱れ始めたその表面に手を押し当てて語りかけた。
「大五郎、私の声が聞こえる?」
蛇の胴のようなものが、また繭の中でもぞりと動いた。
「人でも蛇でも、大五郎は私の子だよ。どんな姿でも、あなたのことが大切なんだよ」
ぴしぴしと、繭の亀裂が大きくなった。
「寂しい想いをさせてごめんね、大五郎。人型になったとたんにとても大人びて見えたから、ついついあなたがまだ小さいことを忘れがちで……至らない母で、本当にごめんなさい」
柚葉は大きくなった亀裂の隙間から、ぐっと手を押し込んだ。
そうして手に触れた胴のような部分を、ぎゅっと力強く掴む。
躊躇はなかった。
「もう私、大五郎のこと、これからいっぱい甘やかしちゃうんだから! 大五郎がベタベタするなって鬱陶しがったって、遠慮せずにいつだってギュッてしちゃうんだからっ!」
だから、早くそこから出てきて顔を見せて。
あのお人形さんのように綺麗な顔じゃなくてもいい。
硬い鱗に覆われた丸い蛇の顔でもいい。
先の割れた赤い舌を、ちろちろさせてたっていい。
柚葉はそんな思いを込めて、しっかり掴んだ胴のような部分を、ぐっと外へと引っ張りだそうと力を込めた。
その感触は、爬虫類のひやりと冷たい皮膚とは違って温かく、そしてがっしりとしていて硬かった。
「だっこさせてよ、大五郎――!」
柚葉がそう叫ぶと同時に、バリバリと大きな音を立てて一際深い亀裂が白い表面に走った。
さらにその亀裂の部分から、繭がぱかりと半分に割れたではないか。
「——!!」
哲太、ナーガ、ラングラー、そして柚葉が固唾を呑んで見守る前で、ついに大五郎の身体の一部が外へ向かって伸び出した。
それは、自分の身を必死に掴む柚葉の腕へと絡みつき、ぐっと彼女を引き寄せた。
「だっこするのは僕の番だよ、柚葉」
突然、低く艶やかな声が聞こえたかと思ったら、柚葉の身体がふわりと浮いた。
「――え?」
「もう、柚葉の腕じゃあ僕をだっこできないでしょ?」
上から降ってきたそんな言葉に、柚葉は恐る恐る顔を上向かせた。
そこにあったのは――
「だ、大五郎……?」
じっと柚葉を見下ろす恐ろしく美しい男。
その瞳の奥に移る自分の姿を呆然と見ながら、柚葉は震える声で問うた。
「大五郎……なの……?」
「そうだよ、柚葉。他に誰がいるの?」
大五郎は、退化して蛇に戻ってしまったのではなかった。
むしろその逆で、途中の過程をすっ飛ばしてぐんと大人に成長してしまったのだ。
長く伸びた白い髪は、真っ直ぐなナーガのそれとは違って少し癖があり、緩く巻いた毛先が柚葉の頬をくすぐった。
白く長い睫毛に縁取られた切れ長の目は、すっかり馴染んだルビーのような赤。
熱を帯びたようなそれにじっと見つめられ、自然と柚葉の頬に朱がさす。
「柚葉……」
声変わり前の澄んだ高い声は、かすかに甘さを含んだ低い声へと変化した。
それに耳元に名を囁かれると身体が震え、柚葉は思わず肩を竦める。
大五郎の姿はもうとても少年とはいえず、哲太と同じか少し年上くらいの青年へと変貌を遂げていた。
繭から透けて見えていたのは大蛇の胴体ではなく、がっしりと逞しくなった彼の腕だったらしい。
「柚葉を抱き締めて、抱き上げて、連れ去れるくらい――僕は大きくなったんだからね」
大五郎はそう言うと、柚葉をしっかりと腕に抱き上げたまま、その場に居合わせた男達に首を巡らした。
パカリと二つに割れた繭の中に立った大五郎は、まるで巨大な桃から生まれた桃太郎のようだ。
彼は三匹の僕ならぬ三名の年長者達を堂々と見据え、薄い唇を開いた。
「哲太は、柚葉の弟という立場を越えなければ側にいてもいいよ。でも、男として見られたいと言って譲らないつもりなら、僕はいずれ君を排除しなければならない」
「――は?」
まず、繭から大蛇が這い出てくると思って少々腰が引けていた哲太に対し、大五郎は高圧的な態度でそう告げた。
あどけなさを一切無くした今、皇帝になるために生まれた彼から発せられる威圧感は、容赦なく相手を押さえ付ける。
咄嗟に返す言葉を見つけられなかった哲太は、呆然とその場に立ち尽くした。
「ラングラーはいつまで人の国で油売ってるつもりなの? さっさと自国に帰りなよ。あんまりのん気にしていると、僕の代で潰しにかかるよ? ハプスブルク」
「次代殿……」
続けて大五郎はラングラーに声をかけた。
ハプスブルクの現皇帝であるラングラーは、ミッドガルドの次の皇帝となる大五郎にとっても、これから長い付き合いになるはずの相手。
けれど、大五郎としては無闇になれ合うつもりはないし、黒ウサギ公爵が彼の命を狙った今回の事件は完璧にハプスブルク側に非があり、ラングラーはミッドガルドに貸しを作った形になっている。
大五郎の挑発的な言葉にぐっと眉間に皺を寄せつつも、ラングラーも何も言い返せずに唇を噛んだ。
「悔しいけど、ナーガは契約が残っている間は柚葉と会ってもいいよ」
最後に、大五郎はナーガに向かい合った。
ナーガは彼にとっては親であり師であり、本来なら一番身近で親しむべき存在であった。
けれど、卵が柚葉の子宮に転移し彼女の部屋で孵ってしまったことで、大五郎とナーガの関係は歴代の皇帝と次代のそれとは大きく変わってしまっている。
大五郎は、ナーガから学ぶべきことはたくさんあると思っているし、師としては彼を尊敬している。
しかし、彼と柚葉が形式上とはいえ夫婦の関係にあることが、大五郎には堪え難いことだった。
それを解消するためにも、大五郎は急いで大人になったのだ。
「ただし、次はもう結婚契約を更新する必要はないからね。僕にも世界を繋げるだけの力があるんだから」
ミッドガルドの皇帝が保有する念の力は、その身体の積量に比例する。
ナーガに届くほどの長身に成長した大五郎には、理論的には彼と同じだけの力が使えるはずなのだ。
「力の使い方は、今の婚姻契約が切れるまでに必ず修得してみせるよ」
「ふん、生意気を言う……」
大五郎の言葉に、ナーガは苦虫を噛み潰したような顔をした。
念の使い方を大五郎に教えるのは、己であると知っていたからだ。
次代を育てることも責務の一つであるナーガには、それを拒むことはできないのだから。
「ちょ……ちょっと、あの……大五郎?」
三人の男達の様々な想いを含んだ視線が、柚葉の背中越しに大五郎に集中する。
まるで背中を針でちくちくと刺されている気分になって、柚葉はだらだらと冷や汗をかいた。
一方、三人の視線など歯牙にもかけない大五郎は、そんな彼女に向かってにっこりと麗しい笑顔を浮かべた。
そして、抱き上げていた柚葉を一度下ろして立たせると、彼女の両手を握ってその前に片膝を付いた。
「ねえ、柚葉。僕は柚葉のために、頑張って早く大人になったんだよ」
「へ……?」
「もう、トメの爪なんかに柚葉を傷付けさせないし、あんなチビに妬いたりもしないよ」
「え、えっと……」
骨張って男らしくなった大五郎の大きな手が、柚葉の腕をそっと撫でた。
そこは数日前、トメの鋭いかぎ爪にうっかり引っ掛けられて、三本の傷ができてしまった場所だったが、すぐに大五郎が舐めて処置してくれたおかげで、今ではもう赤味も残っていない。
柚葉はその時のお礼をまだ彼に言えていなかったことを思い出し、慌てて口を開いた。
「あのっ……! あの時は、ありがとうね」
「どういたしまして」
それに対し、大五郎は満足げな笑みを浮かべて頷いた。
その表情には余裕があって、トメの名を口にしても前のようにあからさまな嫌悪を見せない。
話題に上がった機会にと、柚葉はトメも鷲のヒナから人型の幼女に変態したことを伝えた。
ついでに、黒ウサギの居候の件も恐る恐る打ち明けたが、大五郎はたいして驚きもせず鼻で笑ってみせた。
「そんな爺さんに、もう僕を害することなんてできないよ。むしろ、トメの子守りにちょうどいいんじゃない?」
「あ、えっと……そ、そうね……」
「誰にも、もう僕の邪魔はさせないよ」
「……」
ルビーのような赤い目が、今はやたらとギラギラと獰猛に輝いているように見えて、柚葉は思わず一歩後ろに下がろうとした。
けれど、彼女の両手を掴んでいた大五郎の手にぐっと力がこもり、離れることを許さない。
「柚葉」
かつて自分を「ママ」と呼んだあの愛らしい声とはほど遠い、どこか厳かで絶対的な声に名を紡がれて、柚葉は思わず姿勢を正して「は、はい」と返事をした。
それに相好を崩し、大五郎は今度は穏やかな声で彼女を呼んだ。
「ねえ、柚葉」
「な、何? ……あっ、大五郎、裸だよ?」
「ねぇねぇ、柚葉」
「あ、あの……服、着ようよ……」
甘く囁くように、大五郎が何度も何度も柚葉の名を呼ぶ。
その度に頬の赤味が増していくことを自覚しながら、柚葉は話を逸らそうと必死になった。
しかし、そんなことはまるで無駄であった。
「僕のお嫁さんになってくれるよね? 柚葉」
「えっ……」
それは、これまで大五郎が何度も口にしながらも、柚葉に子供の可愛らしい戯れ言と聞き流されてきた言葉。
柚葉は、ナーガと正式な夫婦になるつもりも、哲太を弟以外として見るつもりも、ラングラーに求愛したつもりもなかった。
そして、自分が卵で産んだ大五郎の嫁になるつもりなど、もっとなかった。
「なってくれるでしょう? 柚葉」
「え、えっと……あの……」
だがしかし、否と答えるのが憚られるほど信じて疑わない眼差し――いや、否と答えることを許さないような威圧的な視線を向けられて、柚葉はうっと呻いた。
かろうじて、甲にキスを落とされそうになった左手だけ奪還すると、それで真っ赤になった顔を覆う。
そうして、声を振り絞り……
「と、とにかく! 先に、前を隠してってばっ!」
柚葉はそう叫ぶと、一糸纏わぬ美青年となった大五郎から、必死に顔を背けた。
佐倉柚葉、二十二歳の初夏のこと。
彼女の人生は、まだまだ落ち着きそうにありません。
これにて、本編完結です。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。




