其の十
その日の夕刻、帰宅した柚葉が知ったのは、大五郎の身に起こった思いがけない出来事であった。
「非常事態ですぞ、ご母堂様」
「は?」
玄関で彼女を出迎えたのは、ミッドガルド城の侍従長ヘレット。
彼は肉球のついた前足で柚葉の腕を掴むと、有無を言わさず二階へと引っ張っていった。
そのまま、自室のクローゼットの中に強引に引っ張り込まれた柚葉が、扉の向こうの異世界で見たのは……
「ま、繭……!?」
丸く大きな、真っ白い塊。
ごくたまに、柚葉もお邪魔することがあるナーガの――歴代ミッドガルド皇帝の私室。
その壁際の片隅に、大きな繭が鎮座していたのだ。
しかも、ようやく柚葉の腕を離したヘレットは、大五郎がその中に入っていると言うのだ。
もちろん柚葉はわけが分からず、その前で腕を組んで難しい顔をしているナーガを問いつめた。
「ど、どういうこと? どうして、大五郎が繭なんかに入っちゃってるの!?」
「分からん。今朝泣きながらやってきたと思ったら、しばらくその場で踞ってベソをかいていた。一人にしてくれと言うので余は朝議に向かったのだが……帰ってみるとこの有様だ」
「一人で、泣いて……?」
ナーガの言葉を聞いて、柚葉の胸はずきりと痛んだ。
今朝、泣いて駆け出した大五郎を追い掛けていればよかったと、ひどく後悔した。
会社なんか、一日くらい遅刻したってよかったではないか。
社会人としては失格かもしれないが、子供より仕事を優先してしまった自分はそれよりももっと罪深い。
「大五郎……」
柚葉は、震える足を叱咤して繭へと近づいた。
真っ白い繭は、大五郎の髪をそのまま束ねたような、白く美しく光り輝いている。
触れれば温かく、耳を押し当てれば奥からはかすかに鼓動が聞こえ、その中で間違いなく彼が生きていると分かって柚葉は少しだけほっとした。
「人型になったら、もう変態することはないんじゃなかったの? あとは、人間の姿で百年ほどかけてゆっくり大人になるんでしょ?」
「そうだ。これは異例の事態」
ナーガにも、何のために大五郎が繭にこもってしまったのか分からないらしい。
さらに、彼より長く生きているヘレットでさえも初めて見るケースらしく、ミッドガルド皇帝に関する古い文献を遡って調べてみても原因は分からないという。
「繭にこもるということは、細胞を大きく変化させていらっしゃる可能性がありますぞ。次代様は、蛇にでも戻ってしまうおつもりか」
「えっ……蛇に戻る?」
うーむと顎に手を当てたヘレットの言葉に、柚葉ははっと今朝の大五郎の言葉を思い出した。
「大五郎……私がトメちゃんにかまってばっかりで、寂しい想いをさせてたみたいで。こんなことなら大きくなんてなりたくなかったって言って……」
赤い瞳に涙をいっぱいに浮かべた光景が、柚葉の胸を激しく苛む。
柚葉は、大五郎を傷付けてしまったのだ。
「まさか……そのせいで……」
「ふむ、ご母堂様の愛情不足のせいで、次代様は幼児返りしてしまわれたということでしょうかの」
柚葉を責めるようなヘレットの言葉を聞いて、彼女はショックのあまりついにその場に膝をついてしまった。
「やめろ、ヘレット。ユズのせいにするな」
そんな柚葉を見兼ね、ナーガがヘレットを窘める。
彼は顔色を失った柚葉の隣に膝をついてしゃがむと、ふうと大きくため息をついて言った。
「そもそも、人型に変態するのが早すぎたのかもしれない。身体の成長に、心の成長が追いついていなかったのだろう」
「ナーガ……」
「心が未熟だからこそ、ハプスブルクのヒナに嫉妬などしてしまったのかもしれぬ」
そうだった。
白い子蛇の姿で卵から孵った大五郎は、大きな変態によって一気に十代前半位の理知的な少年の姿に変わった。
けれど、彼だって生まれてまだたったの一年。
見た目年齢には大きく差はあれど、本当はトメとさほど変わらない幼子なのだ。
それなのに、柚葉はことあるごとに「お兄ちゃんなんだから」と、大五郎に我慢ばかりを強いてしまった。
「まあ、様子を見るしかあるまい。ユズもそう気を落とすな」
ナーガはそう言って慰めてくれたが、柚葉の心が晴れることは少しもなかった。
「おかえり、ユズ」
しょんぼりと肩を落として一階に降りてきた柚葉を、母は夕飯の支度を中断してダイニングテーブルの前に座らせた。
コトンと、目の前に温かいお茶の入った湯呑みが出されたが、柚葉はそれに手を伸ばす気にもなれず、代わりにはあと重いため息をついた。
母はヘレットにでも聞いていたのか、大五郎の身に起こったことを知っている様子だったが、何も言わず向かいに座って自分のお茶をすすっている。
緑色のお茶から立ち上る湯気をぼんやりと眺めながら、柚葉はぽつりと呟いた。
「子育てって……難しいんだね、お母さん」
その言葉に、母は湯呑みをテーブルに戻し、くすりと笑ってから答えた。
「そうねぇ。子供といっても相手も一人の人間だもの、なかなか思うようにはいかないものよ?」
「お母さんも、私と哲太が小さい時には苦労したの?」
「あら、うちはそれほどでもなかったわよ。哲太が聞き分けのいい子だったから」
ころころと笑う母に、柚葉は俯いたまま「何よ、それ」と口を尖らせた。
すると、トンっと何かがテーブルの上に乗った音が聞こえ、トンットンッと木の天板を跳ねてこちらに近づいてくるのが分かった。
項垂れていた柚葉が視線を上げると、ぽつんとトメが立っていた。
「トメちゃん……」
トメは少しだけ離れた所に立っていて、それ以上近づくのを逡巡している様子だったが、柚葉がおいでと言って手招きすると、おそるおそる近づいてきた。
そして、大きな金色の瞳をうるうるさせて口を開いた。
「ママ……ごめんなさい……」
今朝、わざとではなかったとはいえ、トメは爪で柚葉の腕を傷付けてしまった。
そのためにひどく大五郎を怒らせてしまい、彼は泣きながら部屋を飛び出して行ってしまった。
トメは、自分のせいでこんなことになってしまったのだとひどくショックを受けて、今日は一日中母のエプロンのポケットで泣き通しだったらしい。
それを聞いた柚葉はトメがいじらしくてならず、両の掌で小さな彼女を掬い上げた。
すると、涙に濡れた金色の瞳がおどおどと見上げてきて、震える声で問うた。
「ダイゴロー……トメのことキライ。……ママも、トメのことキライになる?」
「ううん、トメちゃん。トメちゃんのこと、キライになんてなるわけないよ」
真っ白い羽毛はふわふわとして温かく、柚葉は愛おしくて彼女をそっと胸に抱いた。
すると、トメは柚葉の胸元に顔を擦り付けつつ、ぐすぐすとべそをかきながら一生懸命な様子で続けた。
「トメ、もう、ママがイタいとイヤだ。トメ、どうしたらいい?」
その言葉に、柚葉はちらりと自分の衣服を握り締めているかぎ爪を見ると、「うん、そうだな……」と口を開いた。
「とりあえず、お爪を切ろうか」
「おツメ?」
「うん。トメちゃんは獲物を捕まえる必要はないからね。お爪の尖ったところだけパッチンしてもいい?」
「トメ、おツメ、パッチンするっ!」
柚葉とトメのそんな会話を聞いていた母が、にこにこしながら救急箱の端から何かを取り出してきた。
「お母さん、それは?」
「小さい子用の爪切りよ。柚葉の爪も哲太の爪もそれで切ったわ。懐かしいわね」
物持ちのいい母が大事に取ってあった、幼子の小さくて柔らかい爪を整えるための爪切り。
柚葉はトメを膝に抱くと、母の手からからそれを受け取った。
かつて、幼い柚葉もこうして母の膝に座らされて爪を切ってもらったに違いない。
実の母の記憶のない哲太も、継母となった柚葉の母の膝に抱かれて、愛情いっぱいに育てられた。
それに倣うように、柚葉もトメの小さなかぎ爪の先を、そっと慎重に切り揃えて丸くした。
けれど、人型になった大五郎の爪を、まだ一度も切ってやったことがなかったことを思い出すと、ぎゅううと何かに締め付けられるように胸が苦しくなった。
驚くべきことに、今朝トメの爪に抉られた腕は、もう傷跡さえもほとんど分からないほどに快復していた。
大五郎が舐めて治してくれたからに違いない。
それなのに、柚葉は彼にありがとうさえ言っていなかった。
「大五郎……私のこと、嫌いになっちゃったかな……」
ぽつりと、柚葉の口から言葉がもれるとともに、ぽたぽたと雫がこぼれ落ちた。
膝に座ったトメが、降り注ぐ雨に戸惑ったように上を見上げる。
「ユズ、大丈夫。大丈夫よ」
柚葉の母は穏やかな声でそう繰り返し、幼子にするように娘の頭をよしよしと撫でた。
それから数日経っても、大五郎は繭にこもったまま出てこなかった。
ただ彼が生きていることを知らせるように、繭は日に日に大きく成長していった。
大五郎のことに責任を感じているらしいトメもしばらく情緒不安定になり、彼女を宥めて寝かし付けるために自分のベッドに入れるのが柚葉の日課になっていた。
そんな柚葉も、この日はなかなか眠れなかった。
相変わらず豆電球を点けたままの部屋の中、柚葉の視線はどうしてもクローゼットの扉に吸い寄せられてしまう。
あの真っ白い繭の中で、大五郎は今どんなことを考え、どんな気持ちでいるのだろう。
まだ泣いていたらどうしようと、そればかり考えてしまう。
最初の夜、柚葉は母の前でさんざん泣いて、後から帰ってきた哲太と父にも必死に慰めてもらった。
それなのに、油断すればまたすぐに涙が滲んできてしまい、柚葉は「いけない」と小さく呟いて上掛け布団で顔を覆った。
と、その時だった。
――ドンッ……
(え……?)
柚葉とトメが横になっているベッド。
それを、一瞬下から突き上げるような衝撃があった。
続いて、ズルッ……ズルッ……と何かが床を這うような音がし、ハア、ハアと、荒い息づかいが聞こえた。
(――な、何っ!?)
柚葉はわけが分からなかったが、とにかくとてつもなく気味が悪い状況だ。
慌てて飛び起き、トメを抱き上げてベッドから離れようとした。
ところが――
「ト、トメちゃん!?」
既に起き上がっていたらしいトメは、バサリッと小さな翼を広げたと思ったら、素早く宙へと舞い上がった。
いつもはくりくりと可愛らしい金色の瞳が、薄暗闇の中でギラリと獰猛な光を放つ。
狩りをする時の、鷲そのものの凄まじい迫力だった。
柚葉は思わず息を呑んだ。
トメはベッドの下から這い出てきた獲物に狙いを定めると、一気に襲いかかった。




