其の八
「俺の部屋のクローゼットから出てきたんだぞ! いったい、どうなってんだ!?」
「さ、さささ、さあ?」
哲太は扉の前に立ったラングラーを指差し、声を裏返して叫んだ。
彼はとてつもなく混乱しているが、もちろん柚葉だってとんでもなく混乱している。
佐倉姉弟のクローゼットはこの家を新築した時に買ったお揃いだが、当然異世界の扉が最初からついていたというわけではない。
柚葉がベッドから腰を浮かせ、目を丸くした哲太と顔を見合わせていると、逆に目を細めたナーガは座ったまま静かに口を開いた。
「――もしや、ヘレットの仕業か」
異世界同士をまともに繋げることができるのは、念の力に特別長けたミッドガルドの皇帝を除けば、先代の皇帝の代より数千年をも生きてきた最長老マングースくらいだ。
ナーガの言葉に、いまだ金色の瞳を熱心に柚葉に向けつつ、ラングラーが頷いた。
「いかにも。侍従長殿にはたいへん世話になった」
と、その時、今度は柚葉の部屋のクローゼットが内側から開いた。
「おやおや、皆様お揃いですな」
「――説明しろ、ヘレット」
まるで自分の名が呼ばれるのを待っていたかのように絶妙のタイミングで現れたのは、ミッドガルドの侍従長ヘレットだった。
ナーガは白いローブの下で長い足を組み替えつつ、蛇の化身にふさわしい鋭い目でヘレットを射抜く。
しかしヘレットはそれに少しも怯まず、いつも通り飄々とした様子で口を開いた。
「いやぁ、陛下。実は、ラングラー殿からを貴重な宝物を融通していただきましてなあ」
それを聞いたナーガの表情がさらに剣呑さを増す。
「まさか……ミッドガルド城の侍従長ともあろう者が、賄賂を差し出されて他国の奸計に加担したと?」
「奸計などと、大げさなことをおっしゃいますな、陛下。ミッドガルドとハプスブルクは長年の友好国ではございませぬか」
年齢を重ねたことによる余裕か、それとも生まれ持った太々しさなのか、突き刺すようなナーガの怒気をものともせずに、ヘレットはマイペースに話を続けた。
「彼女との仲を取り持っていただいたお礼に、一つわしの方もラングラー殿の恋のお手伝いをしてさしあげたまで」
「……彼女?」
「ええ。彼女と初めて会ったのは、まだ先代がご存命の頃でございました。一目見てビビッと来ましてな。それはまさに、しっぽの先まで電流が走ったような衝撃でございました」
ヘレットはそう言ってほうっと熱い溜め息をつくと、ぽっと頬を赤らめた。
灰色の毛皮で分かりにくいが、おそらく。
「ラングラー殿のご協力で、長年の想いがようやく成就することとなりました。――紹介します、妻です」
そうして彼がクローゼットの奥から抱き寄せたのは、ふわふわとしたピンク色の毛玉だった。
よく見れば、それはアンゴラ種のような毛足の長いウサギ。
長くカールしたびしばしの睫毛がいやに色っぽい。
柚葉をはじめ、哲太も大五郎もトメも、マングース侍従長と色っぽいウサギの組み合わせの意味が分からず、ポカンとして彼らを見比べた。
ナーガだけが大きく眉を跳ね上げさせ、彼には珍しく声を荒げた。
「――お主、またか! 何人目だ!? 老らくの恋も大概にせよっ!」
「いやはや、こう長く生きておりますと妻に先立たれるばかりで寂しくて。しかし、まだまだ陛下や次代様をお支えせねばなりませぬゆえ、このヘレット、生涯現役で頑張りまするぞ!」
心無しか、毛並みが前よりつやつやしているように見えるヘレットは、しなだれかかる新妻にデレデレしつつ、「ご祝儀は弾んでくだされ、陛下」とのたまった。
ピンクのウサギは、ハプスブルクの歓楽街にある老舗クラブの踊り子なのだそうだ。
なるほど、その濃厚なあだっぽさからは、玄人の匂いがぷんぷんする。
ヘレットはミッドガルドでは皇帝とその次代に次ぐ特権階級であるから、踊り子ウサギとしては巨大な玉の輿に乗ったようなものだろう。
(間違いなく財産目当てだな……)
同時にそう確信した柚葉と哲太は、お互い顔を見合わせて無言で二度頷いた。
ただし、二人とも人の恋路に口出しするほど野暮ではない。
「……勝手にせよ。ただし祝言には呼んでくれるな」
ナーガも、結局はヘレットとピンクウサギの仲を祝福する気も反対する気もないらしく、ただ苛々したままそう吐き捨てた。
「どうせ、ヘレットから取り引きを持ちかけたのであろう。朴念仁のラングラーが思いつくとは思えん」
ナーガが再び足を組み替えながら続けると、ようやく話題が自分のことに戻ったことに気づいたラングラーが、扉の側から部屋の中へと歩を進めた。
そして、相変わらず情熱的な視線を柚葉に注ぎながら口を開いた。
「ユズハ殿。ナーガ殿との婚姻契約は一年更新と聞いた」
どうやら、そんなことまでヘレットは彼に話していたらしい。
とたんに、ナーガの眉間に深々と縦じわが刻み込まれた。
「一年くらい、待とう。だから、契約が明けた暁には私と……」
「勝手なことを申されるな、ラングラー。余は次もユズとの婚姻契約を更新するつもりだ」
生真面目なハプスブルク皇帝は初めての恋に一途だった。
だが、年嵩のナーガもそれを微笑ましく眺めているわけにはいかない。
彼もついに柚葉のベッドから立ち上がり、自分より少し背の高いラングラーを鋭く見据えた。
「柚葉の意思を無視して、一年後のことを勝手に議論しないでくださいっ!」
さらに、大五郎も腰を上げて柚葉を己の背に庇うように立つと、ナーガとラングラーの二人ともを睨み上げて叫ぶ。
「お、おいっ! そもそもいつの間にメンバーが増えたんだよっ!? 何者なんだ、こいつ……」
それに、昨夜の顛末を知らない哲太が戸惑いを抱えつつも加わり、大五郎と並ぶようにして柚葉を自分の背中に隠した。
「ちょ、ちょっと……」
突然始まった男衆の睨み合いに、柚葉は困惑するばかり。
大人の男が三人と、少年が一人。
さほど広さのない柚葉の部屋が、とてつもなく窮屈に思える状況だ。
険悪な場の雰囲気にトメはすっかり怯えた様子で、柚葉の肩に爪を立てて震えている。
「ほっほっ、陛下もラングラー殿も、まだまだ若いですな」
「ヘ、ヘレットさん……」
柚葉がいったいどうしたものかと途方に暮れていると、この状況の元凶ともいえるマングース侍従長ヘレットが、ピンクウサギの肩を抱いたまま側へとやってきた。
彼の足を包んだままの革靴と、カツカツうるさいピンクウサギのピンヒールに「土足厳禁!」と叫びたいのも山々。
しかし、柚葉にはそれより先に抗議すべきことがあった。
「もう、どうしてくれるのよ! ややこしいことになっちゃったじゃないのっ!」
「何をおっしゃいます、ご母堂様。むしろ、あなたは選り取り見取りでウハウハではございませんか。どの殿方の手をとっても、将来苦労はなさいませんでしょう」
「そ、そんなこと……」
「わしとしては、ここは一つ大穴狙いでいきたいところですな」
「は?」
「突然第五の男が現れてユズハ殿の心を奪っていくという、波瀾万丈の展開を期待したいのですが。――そういう殿方に心当たりは?」
「ないわよっ!」
そもそも、ナーガとラングラーの仲がこじれれば、ミッドガルドとハプスブルクという大国同士の外交問題にも影響し、ミッドガルドの侍従長たるヘレットにとっても由々しき問題となるはずだ。
「ラングラーをどうすんのよ! 責任とって説得して、哲太のクローゼットに開けた扉ごと撤収させてよねっ!」
「それは無理というものでございます、ご母堂様。ラングラー殿との約束を違えば、わしの可愛い新妻がハプスブルクに戻されてしまうではありませんか。この老いぼれから、ささやかな幸せを取り上げるおつもりですか? 人の恋路を邪魔する者は、馬に蹴られて死んでしまえばよろしかろう」
「逆ギレもいいところよっ!」
相変わらず苛々するヘレットとの会話に、柚葉は地団駄を踏みたくなった。
「あんた、いったい誰の味方なのよ! ナーガの侍従で、今後大五郎にも仕えるんじゃないの?」
「ほっほっ、わしはいつだってロマンスの味方ですじゃ」
「……」
ヘレットがニタリと笑うと、その口の隙間から鋭い犬歯が見えた。
マングースはイタチのような可愛らしい見た目に似合わず、好戦的で凶暴なのかもしれない。
なんたって、猛毒をもつハブを食い殺してしまう獣なのだから。
「ま、まま……ままぁ……」
トメはそんなヘレットに怯え、鋭いかぎ爪はますます柚葉の肩に食い込んだ。
それなのに、彼女が恐れる獣に肩を抱かれたあだっぽいピンクウサギが、それを見上げて「やだ、怖ぁい!」と叫んで顔を顰めた。
ウサギにとっては天敵ともいえる鷲のヒナを、本能的に恐れているだけかもしれない。
それでも、初めて会ったこのハプスブルクの国民に、柚葉は少しばかり不快な印象を受けた。
「この子は、お宅の皇帝の次代候補だったんですけど?」
そう言ってやりたくなるのをぐっと抑え、柚葉は震える白い羽根をよしよしと優しく撫でてやった。




