其の二
大五郎──そう名付けたはいいものの、白い子ヘビの性別はわからない。
柚葉には、そのにょろにょろの身体をじっくり観察する勇気はないし、そもそもヘビの雌雄など判別できる気がしなかった。
ただ、子ヘビ自身は大五郎という名前をいたく気に入ったようだ。
そのため柚葉は、オス犬だった初代大五郎にちなんで、子ヘビを〝彼〟と呼ぶことに決めた。
夜になり、柚葉は大五郎と同じ部屋で眠ることを躊躇した。
何も知らない家族の手前廊下には出せないし、生後一日目の子をベランダに放り出せるほど鬼でもない。
ほとほと困り果てた柚葉は、自分が弟の部屋に泊めてもらおうと思い立ち、交渉に赴いたものの……
「お前は、バカかっ!」
何故か顔を真っ赤にして怒鳴りつけられてしまった。
小さい頃はしょっちゅう彼の方から一緒に寝てと頼んできたというのに、時の流れというのは残酷なものだ。
実は、母の連れ子である柚葉と父の連れ子である哲太に血の繋がりはないのだが、本当の姉弟のように──いや、それ以上に仲が良いと自負している。
それなのに、弟は姉を部屋から追い出した上、鍵までかけてしまった。
互いに最初のパートナーと死別し、十六年前に子連れ同士で再婚した両親はいまだにラブラブなため、その寝室にお邪魔するのも憚られる。
結局、子ヘビと同じ部屋で眠るしかなくなった柚葉は、リビングの棚の上にあった藤のカゴを拝借し、中にクッションを敷いて即席のベッドを作った。
大五郎がとぐろを巻いて入ると、ちょうどいい大きさだ。
柚葉はそれを出来得る限り自分のベッドから離して置いた。
「大五郎、私がいいって言うまで、絶対にそのベッドから出ちゃだめだからね!」
「はい、おかあさま」
警戒心丸出しの声で言いつけると、大五郎からは従順な答えが返ってきたが、どこか寂しそうだった。
それを可哀想に思いながらも、苦手なものは苦手なのだ。
罪悪感を感じつつ、柚葉は部屋の灯りを落とす。
しばらくして、大五郎がカゴの中でプープー寝息を立て始めると、彼女もようやく瞼を閉じた。
翌朝。警戒心からか、柚葉はいつもより早く目が覚めてしまった。
その時、すでに大五郎の赤い目もぱっちり開いていたが、昨夜の言い付けを守っているのか、カゴのベッドから出て来ようとはしない。
「……おはよう、大五郎。ごめんね」
「おはよっ! おかあさま!」
罪悪感に打ちひしがれつつ挨拶をする柚葉に、大五郎は尻尾の先をぷるんぷるんと振り回して嬉しそうに答えた。
その姿に、尻尾をちぎれそうなほど振り回して寄ってきた亡き愛犬を重ね、柚葉の胸はきゅんとなる。
(せめて、鱗の代わりに毛が生えていてくれたら……)
そんな詮ないことを考えつつ、柚葉は大五郎に待機を命じてから一階に降りた。
母が作ってくれた朝食を手早く食べ、洗面所で顔を洗った後、家族に怪しまれないようにこっそり冷蔵庫からミルクを調達してレンジで温める。
ちょうど魚肉ソーセージが一束あったので引っ掴み、そそくさと自室に戻ろうとしたところで、背中から声がかかった。
「おい、ユズ。今日はどうすんだ? 出掛けるのか?」
「あ、哲太。おはよー」
哲太には昨日車を出してもらうはずだったのだが、表向きは生理痛を理由にキャンセルしていた。
遊び盛りの大学生の休日を二日も独占できるとは思っていなかったため、柚葉は今週末の外出を諦めていたのだが……
「昼過ぎまでなら、付き合ってやらんこともない」
「やった! 三十分で用意するから待ってて!」
柚葉は慌てて二階へと駆け上がり、行儀よく待っていた大五郎に朝食を与える。
そうして、彼がはぐはぐしているのを横目に、素早く化粧と着替えを済ませた。
「大五郎、ちょっと出掛けてくるね。お昼過ぎには戻るから、おとなしくしてるんだよ」
「はい、おかあさま」
魚肉ソーセージは口に合ったようで、これには柚葉もほっとする。
何がすばらしいって、魚肉ソーセージは常温で保存ができる上に、比較的安価なのだ。
ピンク色のそれを「おいし! おいし!」と丸呑みする大五郎のために、昼食用にとさらに三本包みを剥がして皿に置いた。
そこで、扉をノックされる。
「おい、ユズ。まだか」
「はいはい、今行きます!」
せっかちな弟様の機嫌を損ねまいと慌てて返事をした柚葉は、スマホと財布を突っ込んだバッグを引っ掴む。
そうして、大五郎の顔を碌に見もしないで部屋を飛び出した。
目的のショッピングモールまでは、普段は車で四十分ほど。
ただし、日曜日のこの日はいつもよりも道が混んでいて、一時間ほどかかってしまった。
駐車場に車を止めて施設に入り、化粧品の臭いを嫌がる哲太とは一時間後に落ち合う約束をして別れる。
柚葉はまずお目当ての夏用ファンデーションを買った後、いつものようにのんびりと洋服屋を覗くこともなく、併設されているスーパーへと足を運んだ。
大五郎の食い付きがよかった魚肉ソーセージを買い込むためである。
何度も家の食糧をくすねるのが心苦しいからなのだが……
「は? 何? お前、そんなに買ってどうするつもりだよ?」
買い物かごいっぱいの魚肉ソーセージを見た弟は、当然ながら目を丸くした。
待ち合わせ場所が一階スーパー脇のエスカレーター前だったため、レジを通ったとたんに見つかってしまったのだ。
「えーっと……哲太の分も、買ってあげようか?」
「いらんわ、そんな魚肉ばっかり。どうせなら、牛の肉を食わせろ」
そんなこんなで、魚肉ソーセージがパンパンに入った買い物袋を運んでもらう代わりに、ショッピングモール内のステーキ店で牛サーロイン三百グラムを驕らされるはめになった。
「私の漱石さんが四人も……」
「タクシー代わりに荷物持ち、ついでにボディガードもしてやったんだ。安いもんだろ」
せつないため息をつく柚葉をよそに、哲太は肉の塊と大盛りご飯をぺろりと平らげる。
さらには、サラダバーでお腹いっぱいになった姉のハンバーグの残りを一口で処理すると、にやりと肉食系らしい笑みを見せた。
帰り道はそれほど込むこともなく、二時には家に到着した。
柚葉の荷物を家の中まで運んでくれた哲太は、友達を待たせているとかで、そのまま車で出掛けて行った。
姉の買い物を優先してくれるなんて、実にできた弟である。
ラブラブの両親も出掛けて留守だったので、柚葉が魚肉ソーセージの袋をえっちらおっちら二階の自室に運ぼうとも怪しむ者はいなかった。
「た……ただいまー……」
「おかえり! おかあさま!」
扉を開けると、大五郎はベッド代わりのカゴの中にいた。
昼食用に出していった魚肉ソーセージは食べたようだが、部屋の中を動き回った形跡はない。
言いつけられた通り、おとなしく柚葉の帰りを待っていたのだろう。
全くもって、従順で理性的な子だと感心する。
その反面、じっとして待っていろだなんて、幼い彼に酷なことを命じてしまった、とひどく後悔した。
柚葉は買い物袋を部屋の隅に置くと、大五郎の側にしゃがみ込む。
そうして、慕わしげに見上げてくる大きな瞳を見返して言った。
「……ごめんね。窮屈な思い、させちゃったね」
これが、子ヘビに対する嫌悪感と恐怖心が和らぎ、柚葉の中で母性が芽生えた瞬間だった。
本人には、まだその自覚はないままであるが。
「大五郎は賢い子だもんね。悪戯なんかしないよね?」
「はい、おかあさま」
ケージや水槽の中で飼うという選択肢は、大五郎が人語を操りコミュニケーションが取れると知った時点で、柚葉の中から消え去っていた。
勤務先までは、自転車で十五分ほど。勤務時間は九時半から十七時半で、基本的に残業はないため十八時までには帰宅できるが、それまで大五郎は部屋に一人っきりだ。
「今度から私が留守の時、この部屋の中でなら自由にしていていいよ」
「いいの……?」
「うん。ただし、お母さんが時々部屋を掃除しにくるから、その時は見つからないようにベッドの下にでも隠れてね」
「はい、おかあさま!」
このまま大五郎を飼うのなら、家族にも伝えるべきだとは思う。
しかし、喋るヘビなんて奇怪な生き物をどう紹介したものか、柚葉はまだ迷っていた。
夕刻になって、父と母が仲良く帰ってきた。
彼らが買ってきたお惣菜が食卓に並んだ頃、哲太の車も戻ってくる。
おしゃべりで明るい母、口数は少ないが優しい父、せっかちで口煩いものの頼りになる弟。
そんな家族との団欒を楽しんだ後、柚葉は自室に戻って寝支度を整えた。
昨夜は遠く離していた籐のカゴを、今夜は自分のベッドの側まで引き寄せる。
「おやすみ、大五郎」
「おやすみ、おかあさま」
柚葉はまだ、白い鱗で覆われた大五郎の身体に直接触れる勇気は出ない。
しかし、その赤い大きな瞳はルビーのようで綺麗だと思いながら、穏やかな気持ちで眠りに落ちていった。
事態が急転したのは、日付が変わった頃のこと。
柚葉の部屋に、不穏な影が現れた。