其の五
今回の黒ウサギ公爵による事件は、ミッドガルドとハプスブルクの関係を悪化させてもおかしくないものだった。
幸い、両国の現在の皇帝同士は特別親交が厚く、狙われたミッドガルドの次代が無事だったことで、国同士が諍い合うような事態にはならなかったが、公爵の罪は重い。
ハプスブルク皇帝ラングラーはすぐさま国に戻って審議を開き、スパイやその他関係者の証言を元に黒ウサギ公爵の罪を確定すると、爵位を剥奪して彼を国外追放とした。
ただし、皇帝候補を産む石を保有している黒ウサギ一族自体を、そう簡単に排除するわけにはいかない。
結局、直系ではなく分家の男子が当座の当主として配置された。
「今後二度と、あのようなことが起こらないようにする。まことに申し訳なかった」
「い、いえ、あの……はい……」
そんな異世界の事情を聞かされても、正直柚葉はあまり興味がない。
卵を産まされたのは、確かに不本意だった。
しかし、すでに済んでしまったことであるし、ラングラーがいくら真摯な態度で謝罪を口にしようと、その事実がなかったことになるわけもない。
とにかく柚葉としては、大五郎が今後も行き来するミッドガルドが平和なままならそれでいいと、ラングラーの話に適当に頷いて返していた。
ラングラーはとにかく大きい男だった。
中性的な印象のナーガとは違い、雄々しいという形容がふさわしい。
ミッドガルドの皇帝が無性の状態で産まれてくるのに対し、ハプスブルクの皇帝候補達は性を持って産まれてくる。
ラングラーは生まれながらにオスであり、トメは生まれながらにメスであった。
こじんまりとした自室に不似合いな巨体を、とにかく何とかコンパクトにしようと思った柚葉は、ラングラーに椅子を勧めた。
自分は布団に潜り込んで震えているトメを庇うようにベッドに腰かける。
そんな柚葉の両隣に、当然のように大五郎とナーガも腰を下ろした。
先日ナーガが言ったとおり、やはりトメは次期皇帝候補からは外されるらしい。
柚葉はそれならばそれで仕方がないと思ったが、ラングラーが続けた言葉には頷けなかった。
「ヒナの身柄を渡してもらいたい」
彼はトメを国に連れ帰るために、わざわざ隣国を経由して異世界までやってきたと言うのだ。
柚葉は硬い声で問うた。
「この子をどうするんですか?」
「処分する」
「――は?」
そして、淡々と告げられたラングラーの言葉に、目を剝いた。
「ハプスブルクの次代候補にとって、公爵は番。どちらかが問題を起こした場合は運命をともにする。公爵が罪人として処分されれば、ヒナの処分もそれに倣う」
柚葉はもちろん、「冗談じゃない!」と叫んだ。
「この子が不幸になると分かっているのに、あなたに渡せるわけないでしょ!!」
「そのヒナだけ例外というわけにはいかないのだ、ユズハ殿。それが規則だ」
ハプスブルク皇帝ラングラーは真面目で律儀で頭が固い。
そうやって今まで大国を上手く治めてきたのだが、柚葉にとってはそんなの知ったことではなかった。
突然現れたデッカい男が、可愛い娘を「処分する」と言うのだ。
そんなこと、許せるものか。
柚葉はすっと立ち上がると、椅子に座ったままのラングラーを見下ろし、口を開いた。
「……規則?」
彼女の怒りがこもった声を聞いて、大五郎はぱちくりと大きく目を瞬いた。
「規則って、何なのよ。誰が決めたのよ、それ」
「我が国の先人が守り伝えてきたものだ」
一方、すでに大五郎の件で柚葉に泣いて怒鳴り散らされた経験のあるナーガは、向かいで戸惑ったように彼女を見上げるラングラーの姿にこっそりほくそ笑んだ。
「――知るか」
柚葉がそう短く吐き捨てると、ラングラーは絶句した。
「あのね、卵や子供を産むってすっごく痛いんだよ? どうしてこんなにひどい目にあわなきゃいけないのよーって思うほど」
「……」
「でも、産まれたら可愛いの。この子はどんな子に育つんだろう。幸せになってほしいなあって、お母さんはみんな思うの。そんな、産まれたばかりで何の罪もない子を、規則なんて言葉だけで不幸にしてもいいと本気で思ってるの?」
「それは……」
口籠ったラングラーを、柚葉はギンときつく睨みつけて言った。
「ここにいるヒナは、私が産んだ私の子よ。名前はトメちゃん。あなたが探しに来たお尋ね者次代さんとは別人です。そんな者、うちにはいません」
「ユズハ殿……」
「――お引き取りください!」
柚葉はそう叫ぶと、ラングラーが座っていた自分の椅子を足でぐっと押しやった。
椅子にはキャスターが付いているので、それは黒ずくめの大男を乗せたまま、カラカラカラ~っとクローゼットの方まで移動した。
椅子の未知な動きにびっくりしたハプスブルク皇帝の表情は見物だったが、それどころではない柚葉は今度は横を向いて喚いた。
「ナーガ! この人、連れて帰って!」
「まあ、待て。ユズ」
「待てないっ! さっさと連れて帰らないと、ナーガもうちに出入り禁止にするから! クローゼットに鍵かけるからね! もちろん、大五郎もうちの子ですからっ!!」
そう言ってナーガに怒りの矛先を変えた柚葉は、隣に座っていた大五郎をぎゅっと抱き寄せた。
さらに、トメを背中に庇うようにして、椅子から立ち上がったラングラーを睨む。
そんな彼女にナーガはやれやれとため息をつくと、戸惑った顔のラングラーに向かって言った。
「黒ウサギ公爵の所業は我が国としても許し難いが、それに利用された幼き者まで罰せよとは言わない」
「ナーガ殿……」
「公爵の処分は当主権限の剥奪と国外追放。ならば対なるヒナの処分もそれに準じ、国外追放とするのが妥当だろう。その追放先が異世界――ユズの元で何か問題があるか?」
「それは……」
どうやら、年齢的にも在位期間もナーガの方が上らしく、ラングラーは彼の意見に耳を傾け始めた。
ナーガは隣でふーふーと威嚇している柚葉の頭を撫で、その腕に抱き締められている大五郎に視線を合わせて問うた。
「狙われた余の次代も、ヒナには厳罰を望んではおらぬ。そうだな? ダイゴロウ」
「……柚葉が悲しむようなことは、させない」
トメの存在自体はまだ受け入れ難い大五郎も、そう冷静な言葉を返した。
柚葉の胸元に抱き込まれて、少々機嫌もいいらしい。
そんな彼を見たラングラーは、困ったような顔をして大きく一つため息をついた。
柚葉は人口密度が高くなった自室を出て、一階キッチンへと降りてきた。
ラングラーは、まだ完全にヒナが佐倉家に残るのを認めたわけではないようだが、何が何でも連れ帰るという強硬さはなくなった。
一度お互い冷静に話をしようということになり、柚葉はひとまず客人として彼をもてなすことにしたのだ。
もちろん、彼女もラングラーを完全に信用したわけではない。
自分が席を外した隙に連れ去られないように、トメは肩に乗せて一緒連れて来た。
キッチンでは、夕食の下準備が終わった母がのんびりとお茶を飲んでいた。
「おかーさん、何かお茶菓子ない? ちょっと、お偉いさん系の客が来てるんだけど……」
「お菓子、今切らしてるのよね……ああ、そうだ。山形の伯父さんから送られてきたさくらんぼがあるわよ」
「さくらんぼ~?」
「あら、山形の佐藤錦といえば高級品よ。桐の箱に入ってるのよ」
母はそう言うと、冷蔵庫の野菜室から本当に桐の箱を取り出した。
中には、サイズの揃った赤く丸い実が整然と並んでいる。
柚葉の望む“お茶菓子”とは少し違うが、他にないのならばしかたがない。
「まあ、いいか。じゃあ、それちょーだい」
「ちょっと! もっと有り難がりなさいな!」
母は柚葉の態度に不満げだったが、その肩にしがみついているトメにはにっこり微笑んだ。
そして、箱の中からさくらんぼを一つ摘み上げ、興味深そうにそれを見つめる金色の瞳の前に差し出した。
「ほぉら~、トメちゃ~ん。おいちいでちゅよ~」
「――ヤダ、ちょっと! 赤ちゃん言葉やめてよっ、おかーさん!」
柚葉の抗議にも素知らぬ顔で、母はなおも「トメちゃ~ん」と猫なで声でさくらんぼをちらつかせる。
最初は身を強張らせて警戒していたトメだったが、食い意地の張ったヒナはやがて赤い実の誘惑に負けた。
トメの小さなくちばしが、柚葉の母の指先からさくらんぼの実を摘まみ上げた。
そして、それをぱくんと飲み込んだとたん、金色の丸い瞳が大きく広がりキラキラと輝いた。
「おいち。おかーたん、おいち!」
「あらあ、食べてくれたわ! おかーたん、嬉しい~」
愛らしいトメの声に気を良くした母は、大五郎の前例のおかげでヒナが人語らしきものを喋ろうともまったく動じない。
それどころか、せっせと高級さくらんぼを摘まみ上げて彼女を餌付けした。
「トメちゃんったら、かわうぃうぃ~」
「おかーさん! 変な喋り方やめてって言ってるでしょ! トメが覚えたらどうす――」
「カワウィウィ~」
「ほらああ!」
トメが母に懐くこと自体は、昼間食事の心配をしなくてよくなるので歓迎だが、おもしろ半分に変な言葉を教えられてはたまらない。
柚葉はさっさとさくらんぼを洗って皿に積み、お茶と一緒にお盆に乗せて急いで部屋に戻った。
ところが――
お茶請けに差し出されたさくらんぼと柚葉を見比べたラングラーはしばし呆然とし、やがて耳まで真っ赤になった。




