其の四
月曜日になった。
普段通り出勤していたOL柚葉は、昼休みにお馴染みの同僚美沙と一緒に飲み物を買いに出て、ついでに近所の書店に立ち寄った。
付き合いのいい美沙は、柚葉が『鳥類』と書かれた分厚い図鑑を手に取っても、その後タカ科タカ目のページを熱心に読みふけっても、深くは尋ねなかった。
ただし、柚葉が『鷹匠のススメ』なる書物に手を伸ばした時には、「ユズちゃんったら、大蛇の次は猛禽類に手を出したのね」と頷き、今度分厚いゴム手袋をプレゼントしようと思った。
ちなみに、実際の鷹匠が使用する手袋は燻した鹿の革で出来ているらしい。
この日も定時に早々と退社した柚葉は、自転車を走らせて家へと急いだ。
自宅のガレージには車がなく、どうやら哲太はまだ帰っていないようだ。
玄関を開けると慌ただしい音で気づいたのか、キッチンからエプロンをかけた母が顔をのぞかせた。
「お母さん、ただいま! トメちゃんは?」
「ユズの部屋よ。お昼ご飯あげようと思ったけど、やっぱりユズじゃないとだめみたい」
ヒナを飼うことに決めた柚葉は、その日のうちに両親にも許可を取った。
ハプスブルクという国の次期皇帝候補云々という事情までは話さなかったが、おおらかな佐倉夫婦はいやに大きいヒナだなと思ったぐらいで、特に怪しむ様子はなかった。
最初は反対していた哲太も、言い出したら聞かない姉の性格を知っているのでやがて諦めた。
そうして佐倉家に保護されることになったヒナであるが、白蛇だった頃の大五郎のように扱いやすくはなかった。
卵から孵って初めて見た動くものを親と認識する——いわゆる刷り込み効果のおかげで、柚葉に対してだけは「ママ」と呼んで甘えてくる。
しかし、その他の者にはひどく臆病で、食べ物などは母と認めた柚葉の手からしか食べないのだ。
「お母さんだってトメちゃんと遊びたいのに~」
ぶーぶーと不満げな母にはかまわず、柚葉は冷蔵庫に入れていた魚肉ソーセージを引っ掴むと、慌てて階段を駆け上がった。
「トメちゃ~ん、ただいまっ! ごはんですよ~」
「――ママ! ごはん! ごはん!」
柚葉が自室の扉を開けると、ベッドの上に置かれていたカゴの中から白い毛玉が飛び出してきた。
そのまま足元へまとわりつき、柚葉がしゃがむと器用に二本の足で肩の上まで這い登った。
「い、いててて、トメちゃんのお爪、痛いよ~」
「ごはん! ごはん!」
かぎ針のような爪はヒナでも鋭くて、柚葉は思わず身を竦めたが、腹を空かせたトメはそれどころではないらしい。
激しい彼女の催促に、柚葉は慌てて手に持っていた魚肉ソーセージのビニールを剥がし、一口大に切って与えた。
ふわふわで真っ白い羽毛に包まれたヒナは、餌をよく食べた。
白蛇だった大五郎も大食漢だと思っていたが、トメはそれ以上だ。
逆に、知能の発達速度は彼ほどではないようで、「ママ」と「ごはん」以外の言葉はまだしゃべれない。
「お腹ペコペコだったんだね、トメ。ごめんねぇ……」
トメが魚肉ソーセージをがっつく姿を眺め、これほどの空腹を抱えて自分の帰りを待っていたのかと思うと、柚葉は彼女がいじらしくてならなかった。
けれど、それとは対照的な感想を抱く者もいた。
「エサくらい自分で食べればいいじゃないか。どれだけ柚葉の手を煩わせるつもりだよ」
声変わり前の少年の声が、そう冷たく吐き捨てた。
静かにクローゼットの扉を開けて姿を表したのは、ミッドガルドから帰宅した大五郎だった。
佐倉家では哲太のお下がりの洋服で過ごす彼も、次期皇帝としてナーガの側にいる時はそれなりの格好をする。
今日もまた、白いローブを羽織ったまま帰ってきた大五郎は、クローゼットの扉を閉めるとそれを脱いだ。
そして、Tシャツに短パンという身軽な格好になると、ベッドの前に膝をついてヒナに餌をやっていた柚葉の背中にふわりと抱き着いた。
「柚葉、おかえり」
「ただいま。大五郎もおかえり」
「うん、ただいま」
大五郎はそのまま、柚葉におぶさるようにして彼女の後頭部に頬を擦り寄せる。
トメが来てから、彼の柚葉に対する密着度は明らかに増した。
「大五郎ったら、甘えん坊さんになっちゃって~」
「だって……柚葉はそいつの世話ばっかりなんだもの」
「仕方ないよ。トメはまだ赤ちゃんなんだから、誰かにお世話してもらわないと生きていけないんだもん」
柚葉がそう言って苦笑すると、彼は「だけど」と口を尖らせた。
「曲がりなりにも大国の皇帝候補として生まれたんだよ? それなのに、これじゃ本当にただのペットじゃない」
マングースな国民に捕食される危険と隣り合わせで成長するミッドガルドの次代と、おいしそうなウサギの公爵やその一族に守られ、蝶よ花よと育てられるハプスブルクの次代とでは、生まれてすぐに発揮されるスキルは随分異なってくる。
前者は自分の身を守るために素早く知能を発達させ、できるだけ早く人型へと変態する必要がある。
対して後者は、子供の愛らしさを最大限に利用して庇護者に媚び、知能を発達させるのは主に人型に転じてからだ。
子蛇は自分で餌を取って生きていくが、鷲のヒナは飛べるようになるまでは親が運んでくるエサを食べるという、自然界のそれぞれともよく似通っていた。
ピンポーン
突然、柚葉の家のチャイムが鳴った。
いや、違う。音が聞こえたのは柚葉のクローゼットからだ。
異世界の国ミッドガルドと通じているその扉に、柚葉は玄関にあるのと同じようなチャイムをつけた。
いきなりクローゼットから誰かが出てくると心臓に悪いし、柚葉のプライベートにも支障をきたすからだ。
その代わりに、以前同僚の美沙に買って来てもらってつけた、巨大な南京錠は外している。
「どーぞー」
柚葉が魚肉ソーセージをトメに与えながらそう声をかけると、カチャリ……とクローゼットの扉が開いた。
基本的にこの扉を出入りするのは、皇帝ナーガと大五郎、そして侍従長ヘレットの三名だけだ。
ちなみに、大五郎は佐倉家の一員として位置づけられているので、チャイムを鳴らすことは義務づけられてはいない。
この時扉をくぐって姿を現したのは、大五郎同様いつもの白いローブを纏ったナーガだった。
「ユズよ、少しいいか」
「いいよ、何?」
「実は……」
そう言って背後を振り返ったナーガに首を傾げていると、クローゼットからにょきっと長い脚が出てきて驚いた。
柚葉が今まで会った異世界の住人は、ナーガと大五郎以外は大きくても中型犬程度のマングース人間ばかりで、こんなに長い脚を持つ者は知らない。
しかも、続いてぬっと現れたのは、こちらも大きな上半身。
クローゼットから全身を表したその人物は、長身のナーガよりもまださらに背が高かった。
全身を軍服のような黒い衣で包み、厳ついブーツの底が床をこつりと踏みしめた。
……うん? ブーツ?
「あのっ、すみません! うちは土足厳禁です! ブーツ、脱いでください!」
柚葉の条件反射的な抗議に対し、ぱちくりとした相手の両目は黄金色。
「――これは、失礼した」
すぐさま謝罪した低い声は、若い男性のものだった。
男性は亜麻色の頭の天辺を晒しながら長身を折り曲げて、素直にブーツを脱いだ。
そして脱いだブーツをクローゼットの奥――おそらく開きっぱなしになっている扉から、ミッドガルド側へと放り投げると、改めて柚葉に向き直った。
「え、え~っと、どちら様でしょうか?」
男の切れ長の金の目は鋭く、ナーガ同様恐ろしいほど整った顔はひどく硬質な印象だった。
まっすぐに自分を射抜いた猛禽類のような瞳に、柚葉がおそるおそる問いかけると、彼の脇に立ったナーガが口を開いた。
「ハプスブルクの皇帝、ラングラー殿だ」
「えっ……!?」
はっとして背後を振り返れば、本能的な恐れを感じてか、トメは柚葉のベッドに潜り込んでぶるぶると震えていた。
柚葉は唇を引き結び、彼女を庇うようにしてベッドの前に仁王立ちし、背の高いハプスブルク皇帝を見上げた。
「貴殿が……ユズハ殿か?」
「そ、そうですけど……」
首が痛くなりそうなほどの長身は、下手すれば柚葉の部屋の天井に頭をすってしまうのではなかろうか。
高い位置からじっと見下ろされると、思わずたじたじと後ずさってしまいそうになる。
しかし、ごくりと唾をのみ込んだ柚葉の前で、鷲の皇帝は突然身体を折り曲げた。
「この度のこと、貴殿には大変な迷惑をかけてしまった。――申し訳ない」
皇帝陛下ともあろうものが、いきなり柚葉に向かって頭を下げたのだ。
ピンと背筋を伸ばしたまま、上体を四十五度に傾けた敬礼。
その畏まった頭の下げ方に、柚葉は慌てた。
礼に生きる日本人としては、それを黙って眺めているわけにはいかない。
「あわわわっ……! こ、これはこれは、ご丁寧にどうも……!!」
そう言って、柚葉はとりあえず自分も深々と頭を下げて返した。




