其の三
黒ウサギ公爵は、昨夜の晩餐には皇帝の警護責任者として同行していた。
けれどその真の目的は、周囲の目をかいくぐりミッドガルド皇帝が繋げた異界の女への路を探すことだった。
武官を多く輩出する一家の当主にふさわしく、武術に長けた黒ウサギ公爵だが、実はミッドガルドの侍従長ヘレットに匹敵するほど長きを生きる長老であり、彼同様念の力も強かった。
といっても皇帝陛下ほどではないのだが、一度開かれた路さえ見つかれば後は卵を移動させるだけだ。
自国の皇帝がミッドガルドの皇帝ナーガとの晩餐にのぞんでいる間に、警護を部下に任せて会場を抜け出した黒ウサギ公爵は、事前に送り込んでいたスパイの情報を元にナーガの私室へと忍び込んだ。
そして、こっそり服の下に隠して持ってきていた家宝の卵を取り出したのだ。
「しかし、ダイゴロウに関してはスパイの情報はいい加減だった。すでにダイゴロウは子蛇の姿から人型へと成長し、しかもその時彼は異界ではなくミッドガルドにいたのだからな」
黒ウサギ公爵が抜け出した晩餐の席で、大五郎は初めてミッドガルド外の相手に次期皇帝であると紹介され、ナーガと親交の深いハプスブルク皇帝ラングラーはそれを歓迎した。
そんなこととは露知らず、ミッドガルドの次代はまだ無力な子蛇で、しかも何の力もない女に飼われていると思い込んでいた黒ウサギ公爵は、家宝とも言える次代候補の卵を念力で異界へと送ることに成功した。
それは彼の狙い通り異界の女――佐倉柚葉の子宮に宿り産み落とされ……
そして今朝、ヒナが孵った。
「――ユズの身体をなんだと思ってるんだ! 好き勝手利用しやがって!!」
ナーガの話を聞いた哲太が、青筋を立てて怒鳴った。
確かに、柚葉にとってはいい迷惑以外のなにものでもない。
姉思いの弟が怒るのも当然だろう。
「哲太~」
柚葉が頼もしい弟を縋るように見上げると、彼は端整な顔をキリリとさせて言った。
「安心しろ、ユズ。お前が卵を二個も産んだ過去があろうと、俺は気にしない。必ず幸せにしてやるから、とっとと嫁に――」
「あ、まあ、その話は置いといて」
「置いとくなっ!!」
血の繋がりのない姉である柚葉を本気で将来嫁にもらう気の哲太は、ナーガや大五郎といった普通ではないライバルの登場に最近少々焦り気味。
しかも、彼を弟としか見ていない柚葉は、哲太が嫁だの結婚だのと言い始めると決まって話を逸らす。
それに地団駄を踏む哲太を大五郎は冷めた目で眺め、ナーガはふんと鼻で笑って話を続けた。
「ハプスブルクの皇帝は鷲の化身。卵からはヒナとして孵り、幼生期は鳥の姿で成長する。……鷲が何を食うか、知っているか? ユズ」
「え、ええっと……ネ、ネズミとかの小動物……?」
「そうだ、ネズミも食うし――ウサギも食う。つまり、ハプスブルクの次期皇帝候補達にとって、自国の国民は実に旨そうな獲物に見えるのだ。彼らはその誘惑に耐えねばならぬ。もしも、たった一度でも国民を襲ったり傷付けた者は、たちまち皇帝候補から外されてしまうのだ」
「……た、たいへんね……」
「そして、ヤツらは蛇も食う」
「――!」
すっと赤い目を細めたナーガの言葉に、柚葉ははっと息をのんでベッドの上の白い袋を見た。
「黒ウサギ公爵は、子蛇であるミッドガルドの次代をヒナに食わせ、我が国を混沌に陥れようとした。なんと言っても、ミッドガルドの次代はたった一人しか産まれないのだからな」
四人の候補が競い合って皇帝となるハプスブルクとは違い、ミッドガルドの後継者はたった一人。
だからこそミッドガルドでは皇帝自らがそれを養育し庇護するのだ。
過去には、後継者が子蛇の時にマングース人によって食い殺され、新しい卵が産まれぬまま皇帝も亡くなり、玉座が空となって国が乱れた時代もあったという。
「皇帝の不在に混乱し始めれば、奴は私兵を率いてミッドガルドへと攻め込み掌握し、それを手柄としてハプスブルク皇帝への発言力を強めようと企んでいた。それとともに、自分の家のヒナにミッドガルドの次期皇帝の首を取らせることで、その強さを周囲に見せ付け玉座に近づけようとしていたのだ」
しかし、黒ウサギ公爵の考えは甘かった。
物体を一つ異界に送るという行為は、やはりそう容易いことではなかったのだ。
何とか目的は達したものの、精根尽き果てその場で気を失ってしまい、あえなくミッドガルドの衛兵に捕縛されることとなった。
皇帝の私室への立ち入りはミッドガルドでは大罪であり、それを手引きしたスパイもすぐに捕まった。
結局、スパイがべらべらと全部しゃべってしまい、黒ウサギ公爵の企みは明るみになったのだった。
それを知ったハプスブルク皇帝はすぐさまナーガに頭を下げた。
「ラングラーはユズにも謝罪したいと申したが、一先ず断った。あちらも、黒ウサギの処分をせねばならぬであろうし――何より、ダイゴロウが許さなくてな……」
「当たり前でしょう!? 僕はともかく、柚葉を悪巧みに利用しようとした国の者に、彼女を会わせられるもんですかっ!!」
大五郎は怒りに満ちた顔をしてそう叫ぶと、しがみついていた柚葉から離れ、ベッドの縁へと駆け寄った。
そして、ヘレットが置いた白い袋を引っ掴み、口の紐を解くと――
「――ぴいいっ……」
袋の中に手を突っ込んで、ヒナの首をわし掴んで引っ張り出したのだ。
悲痛なヒナの鳴き声に、柚葉も慌てて駆け寄って大五郎を宥めようとする。
「だ、大五郎、乱暴にしちゃだめだよ。ほら、まだ赤ちゃんなんだから……」
「でも、こいつは僕を食うために来たんだよ! しかも、柚葉の腹を通って……」
――許せない
赤い目をぎらりと鋭く光らせた大五郎を見て、柚葉の背中を冷や汗が流れた。
「ま、待って、大五郎! その子も大人に利用されただけなんだよ!? ゆ、許してあげよ?」
「柚葉、だってっ……!」
「きっと、この子もびっくりしてるよ。せっかく卵から孵ったのに、周りの皆が自分に怒っているだなんて、悲しいよ」
柚葉がぎゅっと大五郎を抱き締めると、彼はヒナの首を締め付けていた手を緩めた。
「ヒナを育てるはずの黒ウサギは、もう捕まってしまったんでしょう? だったら、この子にはもう保護者がいなくなってしまったんだよ。生まれたばっかりなのに独りぼっちなんて、絶対寂しいよね?」
「……」
大五郎は拗ねたように口を尖らせていたが、柚葉の慎ましい胸に抱き込まれてまんざらでもないらしい。
ほんのり赤くなった少年の頬に気づかず、柚葉は彼の手からそっと両手でヒナを受け取ると、今度はナーガに向かって尋ねた。
「ナーガ、この子はこれからどうなるの?」
「罪を犯したのは黒ウサギ公爵だが、そのヒナも不問とはいかぬだろうな。少なくとも、皇帝にはなれぬ」
「そんな……」
「選ばれなかったヒナは、通常なら人型への変態後は皇帝の補佐に就くが……罪を犯して候補を外れた者の末路は、狭いのゲージの中だ。一生さらし者として暮らす」
淡々としたナーガの言葉に、柚葉は愕然とした。
視線を落とすと、大人達の会話を理解しているのか、ヒナは大きな金色の瞳をうるうるさせて柚葉を見上げていた。
不本意ながら柚葉が産んだ卵から出てきた子――柚葉が腹を痛めて産んだ子だ。
そう思うと、やはり大五郎と同じように可愛く見えてくる。
何より自分が今手を離せば、このヒナはどこかでひどい目に遭わされるのかもしれないと思うと、柚葉の口から自然と言葉が滑り出た。
「私――この子を飼うよ」
「ユズ?」
「柚葉!?」
「お、おいっ……!?」
「ほほう」
固い顔をして告げられた柚葉の言葉に、ナーガと大五郎はよく似た顔に驚きを載せ、哲太は顔を引きつらせ、ヘレットは面白そうに二度頷いた。
「大五郎はもう蛇の姿じゃないから、このヒナに食べられる心配はないし、とにかく幼生期は鳥の姿をしてるんでしょ? 大丈夫! 文鳥ならヒナから飼ったことあるし!」
「馬鹿ユズっ! 鷲と文鳥じゃあ、大違いだっ!」
「私、立派な鷹匠になってみせる」
「すぐその気になるな、バカっ! それに、鷹じゃなくて鷲だっ!!」
「元々は同じタカ科でしょ。鷹よりもさらにデッカくてカッコよくなるよ~」
安易な姉の考えに哲太は慌てて異議を唱えたが、柚葉はもうヒナを飼うと決めてしまっているらしい。
眦をつり上げて怒鳴る弟をあしらいつつ、眉間に皺を寄せたもう一人の子――大五郎の顔を覗き込んだ。
「大五郎は今日からお兄ちゃんだよ。仲良くできるよね?」
「柚葉……」
大五郎の整った顔には、デカデカと「いやだ!」と書かれていたが、彼は唇を尖らせただけでそれを口にしなかった。
その代わり、柚葉が両手で持っていたヒナを哲太に押し付けると、ぎゅっと彼女にしがみついた。
形は大きくなったが、大五郎もまだ卵から孵って一年余り。
甘えたい盛りなのだと思うと、柚葉も彼が可愛くて仕方がない。
よしよしと白い髪を撫で、よいしょと抱っこしてやろうとしたが、さすがに重くてそれは無理。
いつの間にこんなに大きくなってしまったのだろうと、新米母柚葉はほろりとするのだった。
その後 柚葉はヒナに名前をつけた。
――命名、「留五郎」
もうこれ以上、自分の腹をおかしなことに使われないようにとの念を込めての“留”。
「おい、ユズ! いい加減“ごろう”から離れろっ!」
「なんでよ! カッコいいじゃないのさ!」
哲太の抗議に心外なとばかりに反論しつつ、柚葉はひとまず魚肉ソーセージをむいて与え、ヒナはおいしそうにそれを啄んだ。
のちに、「留五郎」が実はメスであることが判明し、「トメ」と改名。
トメは大五郎の妹となり、柚葉は未婚未通にして二児の母となった。
「……ところで」
はぐはぐとおいしそうに魚肉ソーセージを食べるヒナを眺めながら、柚葉はぽつりともらした。
「蛇も……小鳥を食べるよね」
「食べるね」
「その、黒ウサギ公爵ってヒト。大事なヒナを逆に大五郎に食べられちゃうかもしれないって、思わなかったのかな?」
「思わなかったんだろうね。脳みそまで筋肉なんじゃない? マッチョウサギ」
柚葉の隣でヒナと同じように魚肉ソーセージを食べながら、大五郎が呆れたように答えた。




