其の十二
「とりゃ」
大五郎を指差して「捨てて来い」と叫んだ弟の顔面目がけ、柚葉は手刀をくり出した。
「――っ……」
いつもなら柚葉の攻撃など余裕で避けるか、片手で止めて馬鹿にしたような笑みを浮かべる彼だが、大五郎ショックで普段のキレを失っているのか、手刀をまともに食らって怯む。
弱い。弱過ぎる。
今なら勝てるかもしれないと調子づいた柚葉に、容赦はない。
「何てこと言うの! バカ哲太!」
可愛い我が子を捨てて来いなどと宣った弟に、教育的指導。
両手を拳にして、彼の両のこめかみをぐりぐりぐりっと抉ってやった。
「いてぇよ!」
哲太は顔を顰めて柚葉の両手を振り払う。
しかし、彼女の腕に巻き付く大五郎に目を留めては「うわあっ!」と悲鳴を上げ、慌てて距離を取った。
そして、柚葉のベッドの上にあったクッションを引っ掴むと、それを顔の前に掲げて盾にする。
「なんで、蛇なんか飼ってるんだよ! 馬鹿ユズっ! お前だって、蛇は嫌いだったじゃねぇか!」
「なりゆきで飼うことになったけど、今は愛着が湧いてるの。大五郎っていうんだよ」
「大五郎って……犬の名前使い回ししてんじゃねぇよっ! それに、お前っ……その蛇、さっきしゃべって……」
「てったくん、おちついて」
「――やっぱり、しゃべったっ……!!」
立派な図体をした男が怯え、レースフリル付きのピンク色のクッションに必死に隠れようとする姿は非常に笑える。
柚葉が思わず「ぷ」と小さく噴くと、哲太は顔を赤くして悔しげに喚き立てた。
「何なんだよ! 一体何なんだよ、それはっ! 何でしゃべるんだよっ!?」
「何でって、大五郎が賢い子だからに決まってるじゃない」
「おかあさま、ぼく、かしこい?」
「うん、賢い賢い。大五郎はとっても賢い子だよ」
「えへへ」
「――和むな! 賢い賢くないの問題じゃねぇ!!」
姉である柚葉よりもずっと大人びてしまっていた哲太が、これほどまでに取り乱す姿は珍しい。
柚葉は彼をこれ以上刺激しないように、距離を取ったまま交渉を始めた。
大五郎と出会った当初、家族にもいつか彼のことを打ち明けねばとは思っていた。
しかし、ナーガとの出会いで世話に手がかかるのは一年ほどだと知り、たったそれだけの期間ならばわざわざ打ち明けるまでもないかと思い直していたのだ。
だが、一番厄介な哲太に大五郎の姿を見られたからには、黙っているわけにはいかなくなった。
「とにかく、縁があって私が育てることになったの。黙ってたのは悪かったけど、今度捨ててこいなんて言ったら、おねーちゃんぶつからね」
「もう、さっき打ったじゃねぇか! 俺だって、犬だの猫だのだったら勝手に飼えって言えるけどな、へ、へ……へびって……」
「今はまだ蛇っぽいけど、手足が生えてきてるって言ったでしょ? すぐにトカゲっぽくなって、そのうちもっと違う姿になる……予定」
「おかしい……おかしいだろ? おたまじゃくしが蛙になるみたいに、蛇に足が生えてトカゲになるなんて……あり得ない! それに、もっと違う姿になる予定ってのは一体どういうことなんだよ!?」
理解できない。意味が分からないと、哲太は混乱した様子で捲し立てる。
確かに、大五郎及びミッドガルドの皇帝の生態については柚葉だってまったく理解できないが、今となってはもうどうでもいいことだった。
大五郎が如何に非常識な進化を遂げようと、脱皮の末にどんな姿に変態しようと、彼はもう柚葉にとっては可愛い我が子。
彼が巣立つその時まで、母となって育てると決めたのだ。
「父さんや母さんだって、そんな得体の知れないものをユズの部屋で飼うなんて、反対するに決まってる!」
その哲太の言葉に、柚葉の覚悟も決まった。
「――だったら、ちゃんと話をつけるよ」
柚葉はそう言うと、腕に巻き付いていた大五郎を両腕にしっかりと抱え直した。
そして、いまだクッションを掲げたまま怯えている哲太に背中を向けると、彼を残して自室を出る。
「お、おいっ……!?」
慌てた様子で、哲太が後を追ってくる。
しかし柚葉は彼を振り返ることなく、大五郎を抱えたまま階段を降りた。
そして、まっすぐにキッチンへと向かう。
大五郎は、初めて直に柚葉の私室以外の空気に触れることに少し戸惑った様子。
柚葉はそんな彼をしっかりと抱えて意を決し、夕食の支度に忙しい母の背中に声をかけた。
「お母さん」
――結論から言うと、母は大五郎の存在を受け入れた。
当然、母も初めて子蛇を見た瞬間は、「きゃっ!」と乙女のような悲鳴を上げて飛び上がった。
その拍子にちょうどキャベツの千切りをしていた彼女の手から包丁が離れ、柚葉の一歩先の床に突き刺さった時には肝を冷やしたが。
最初は、哲太と同様普通とは違う白蛇を訝しんだものの、幸い柚葉の母は順応性が高い。
大五郎の愛らしい幼子の声で「おかあさまのおかあさま?」と呼びかけられると、とたんに「あら、かわいい」と顔を綻ばせた。
クッションの盾を持ったまま追いついてきた哲太が、「母さん、蛇だぞっ!?」と悲痛な声で抗議したが、柚葉はちゃんと母を懐柔する策を用意していた。
大五郎の脱皮によって生産された、蛇の皮である。
財布に入れておけばお金が増えるとの言い伝えがある、そのありがたきアイテムを賄賂に、柚葉は母を味方につけることに成功したのだ。
母が味方になれば、父はもう落としたも同然である。
帰宅したとたん突き付けられた白い蛇に、柚葉の父は一度は目を丸くしたものの、母の絶妙なフォローのおかげで大五郎に好印象を抱いたようだ。
「白い蛇とは縁起がいいな。かの有名な岩国の白蛇のようだ。あれは天然記念物だぞ」
「でも、しゃべるんだぞっ!? こんなの異常だろっ!」
「ああ、不思議だな。もしかしたら、この子は神様の使いかもしれないなぁ」
「父さん、まじかよっ!?」
佐倉家の家長もまた、大五郎を家に住まわせることを許した。
とたん、二十歳を越えた娘が「お父さん、大好き!」と首筋に飛びつく。
それに上機嫌にビールの缶を開けた父に、哲太の必死の抗議も虚しくスルーされた。
「俺は、認めねえぞ! 蛇をペットにだなんて、ありえないっ!」
「ペットじゃないよ、哲太。私の子だから、哲太はおじさ……」
「黙れ! 馬鹿ユズ……っ!!」
もちろん哲太は頑なに大五郎を拒絶した。
まあ、蛇が大の苦手な彼の気持ちを思えば、それも致し方ないことだろう。
柚葉は、これをきっかけに弟との関係が悪くなるのでは、あるいは彼が蛇を嫌うあまり家を出て行ってしまうのでは、と懸念した。
しかし、幸い哲太が柚葉の側から離れていくことはなかった。
何はともあれ、家族へのカミングアウトが済んで、大五郎は堂々と佐倉家を歩き回ることができるようになった。
彼の抜け殻を財布に入れたとたん、なんと母は本当に宝くじで数万当てたらしく、「大五郎ちゃん、次の皮もママにちょうだいね」と予約済み。
寡黙な父はあまり大五郎にかまっていないようでいて、時々リビングで新聞を読みつつ膝の上に乗せていたりする。
出張に行った時などは、あじのすり身で作った高級魚肉ソーセージをお土産に買ってきては、大五郎を大喜びさせた。
父も母も、極力子蛇と関わらずに過ごす哲太も、大五郎の話す言葉――つまりミッドガルドの言葉を、そうとは知らぬまま理解していた。
柚葉の場合は、大五郎の卵を子宮に宿した際に彼の遺伝子が染み込んだからだと説明を受けたが、家族については心当たりがない。
そんな疑問をナーガに打つけてみた。
「次代は脱皮の際に非常に細胞が緩む。そんな時に過度な接触をすると、ユズ同様遺伝子がうつる可能性があるが……」
「お風呂で……同じお湯に浸かったけど……」
「そのせいだな」
佐倉家のルールでは風呂は長女柚葉が二番手。
ただし、父は帰宅時間が遅いことが多いので、必然的に彼女が一番風呂のことも多い。
つまり、脱皮前後もかまわず柚葉と一緒に大五郎が浸かった湯を、その後家族全員が使うことになる。
追い炊きしても、湯に染みだした大五郎の遺伝子は壊れなかったのか、まさしく伝染病のごとく佐倉家に蔓延したのだ。
知らなかったこととはいえ、家族に妙なスキルを与えてしまったことを柚葉は少し申し訳なく思った。




